(高徳院)
高徳院
祖先歴代之墓(都谷森逸眠墓)
都谷森甚弥(とやもりじんや)は、諱は正守、のちに逸眠と称した。父は西館善司建正。西館弧清の実弟である。武頭都谷森甚之丞の養子となり、馬廻組頭となった。慶応四年(1868)八月、南部氏の佐竹領十二所来襲に際して大隊長として従軍した。翌年の箱館戦争では弘前藩副総督、一番手隊長として出征活躍し、禄百俵、刀料百両を賞与された。のち弘前藩権少参事を務めた。
(長徳寺)
長徳寺
源尚良神霊(高杉左膳墓)
高杉左膳は天保六年(1835)の生まれ。父は白鳥弥兵衛英範。兄に白鳥数馬がいる。諱は尚良。高杉友衛尚敬の養子となって家督を継いだ。慶応四年(1868)八月、足軽頭となり、秋田藩応援軍に加わって南部勢と戦った。翌明治二年(1869)四月には箱館戦争に一番隊の小隊長として従軍し、箱館桔梗野の戦いで先鋒を務め、五月十一日銃弾をうけて戦死した。年三十五。有川村に埋葬され、のち招魂社に合祀された。菩提寺長徳寺には神式をもって葬られた。
(寿昌院)
寿昌院
佐藤平吉墓
佐藤平吉は、佐藤末吉の三男。城下袋町住。米橋左太夫隊の銃士。慶応四年(1868)九月六日、羽後包丁長根で負傷。二十五日に死去。十九歳。
勲應院武功實安居士(三浦銀弥墓)
三浦銀弥は卒。城下新寺町住。文吾の長男。軍監岩田平吉手。明治二年(1869)五月十一日、桔梗野にて負傷死。十八歳。
館山累代之墓(館山善左衛門墓)
館山善左衛門は天保七年(1836)の生まれ。諱は正倫、のちに有孚と称した。足軽頭として慶応四年(1868)五月、庄内征討の先発隊を率い、新庄で沢為量副総督から菊章軍旗を受けた。副総督の先導を務めて、津軽領通過に努力したが、白石同盟の結果、一時藩境を閉鎖することになり実現しなかった。藩論が勤王に統一後、再び秋田藩応援に五小隊を率いて出張し、同年七月、九条道孝総督に謁して塩越進撃の命を受け、政府軍の副参謀として醍醐参謀を助けた。十月、南部氏帰順して弘前に凱旋した。廃藩後、北津軽郡深郷田村に帰農し、戸長を務めた。明治八年(1875)年四十で没。
(安盛寺)
安盛寺
大雄院武學清通居士(坂本友弥墓)
坂本友弥は士分。城下馬屋町住。善兵衛の三男。羽後大館、松前など歴戦。明治二年(1869)五月十一日、桔梗野で戦死。二十五歳。
武忠院殿収徳善方居士(八木橋善次郎墓)
八木橋善次郎は、百五十石彦市の弟。父は行作。城下塩分町住。奥瀬栄太郎隊銃士。明治元年(1868)九月二十二日、陸奥野辺地にて負傷。青森にて死去。二十五歳(三十二歳とも)。
高徳院
祖先歴代之墓(都谷森逸眠墓)
都谷森甚弥(とやもりじんや)は、諱は正守、のちに逸眠と称した。父は西館善司建正。西館弧清の実弟である。武頭都谷森甚之丞の養子となり、馬廻組頭となった。慶応四年(1868)八月、南部氏の佐竹領十二所来襲に際して大隊長として従軍した。翌年の箱館戦争では弘前藩副総督、一番手隊長として出征活躍し、禄百俵、刀料百両を賞与された。のち弘前藩権少参事を務めた。
(長徳寺)
長徳寺
源尚良神霊(高杉左膳墓)
高杉左膳は天保六年(1835)の生まれ。父は白鳥弥兵衛英範。兄に白鳥数馬がいる。諱は尚良。高杉友衛尚敬の養子となって家督を継いだ。慶応四年(1868)八月、足軽頭となり、秋田藩応援軍に加わって南部勢と戦った。翌明治二年(1869)四月には箱館戦争に一番隊の小隊長として従軍し、箱館桔梗野の戦いで先鋒を務め、五月十一日銃弾をうけて戦死した。年三十五。有川村に埋葬され、のち招魂社に合祀された。菩提寺長徳寺には神式をもって葬られた。
(寿昌院)
寿昌院
佐藤平吉墓
佐藤平吉は、佐藤末吉の三男。城下袋町住。米橋左太夫隊の銃士。慶応四年(1868)九月六日、羽後包丁長根で負傷。二十五日に死去。十九歳。
勲應院武功實安居士(三浦銀弥墓)
三浦銀弥は卒。城下新寺町住。文吾の長男。軍監岩田平吉手。明治二年(1869)五月十一日、桔梗野にて負傷死。十八歳。
館山累代之墓(館山善左衛門墓)
館山善左衛門は天保七年(1836)の生まれ。諱は正倫、のちに有孚と称した。足軽頭として慶応四年(1868)五月、庄内征討の先発隊を率い、新庄で沢為量副総督から菊章軍旗を受けた。副総督の先導を務めて、津軽領通過に努力したが、白石同盟の結果、一時藩境を閉鎖することになり実現しなかった。藩論が勤王に統一後、再び秋田藩応援に五小隊を率いて出張し、同年七月、九条道孝総督に謁して塩越進撃の命を受け、政府軍の副参謀として醍醐参謀を助けた。十月、南部氏帰順して弘前に凱旋した。廃藩後、北津軽郡深郷田村に帰農し、戸長を務めた。明治八年(1875)年四十で没。
(安盛寺)
安盛寺
大雄院武學清通居士(坂本友弥墓)
坂本友弥は士分。城下馬屋町住。善兵衛の三男。羽後大館、松前など歴戦。明治二年(1869)五月十一日、桔梗野で戦死。二十五歳。
武忠院殿収徳善方居士(八木橋善次郎墓)
八木橋善次郎は、百五十石彦市の弟。父は行作。城下塩分町住。奥瀬栄太郎隊銃士。明治元年(1868)九月二十二日、陸奥野辺地にて負傷。青森にて死去。二十五歳(三十二歳とも)。
にあるだろうとか。その程度の内容しか知らな
いのでちゃんと調べたいと思っているのですが難しそうですね。因みにうちの祖父母は八戸に住んでいたので弘前へは行ったことがありません。弘前の先祖の墓には家紋が彫られておりましたか?ブログの内容以外にご存じのことがあれば是非お話しを伺いたいのですがm(__)m
コメント有り難うございます。
西館弧清のことは比較的色々な書籍に紹介されていますが、その実弟都谷森甚弥のことは、ブログに書いた以上のことは存じ上げません。役に立たずにすみません。
家紋は墓石に彫られています。見慣れない家紋でしたが、笹・竹の上に小鳥みたいなものをデザインしたものかと。
青森・弘前というと随分遠いイメージですが、新幹線に乗ってしまえば半日で着きます。夜行バスを使えば週末に往復することも可能です。是非、現地まで行って調査してみてください。
西館弧清については、当ブログの「亀戸 Ⅲ」を検索していただければ、そこにわずかながら紹介しています。参考にしてください。