史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

嵯峨野 二尊院

2009年04月11日 | 京都府
(二尊院)
 この日は、四条大宮で末慶寺の畠山勇子の墓に詣でたあと、祇園からバスで岡崎に移動。若王子神社の新島襄、山本覚馬の墓を訪問し、さらに南禅寺天授庵で横井小楠、梁川星巌・紅蘭の墓を訪ね、続いて南禅寺境内にある水路閣を見学したあと、疎水記念館、無隣庵を経由して、東大路から再びバスに乗って千本丸太町へ移動。華光寺の宇喜多一慧、長遠禅寺の人見寧の墓をそれぞれお参りしてきた。ここからバスで西大路三条に移動して、嵐山電車に乗車。嵯峨駅で下車して徒歩で二十分。ようやく二尊院に行き着いた。このころには足の指のマメがつぶれ、引きずるように歩いた。それにしても春爛漫のこの季節、京都はどこに行っても凄い人出である。特に観光地、嵐山は大変な人の多さであった。人が集まるから色んな店が出て、ますます観光客が増える。しかし、どう見ても嵐山や嵯峨野とは関係の無い店が増えすぎて、いささか行き過ぎているような気がしてならない。


二尊院本堂

 本堂に阿弥陀如来と釈迦如来の二尊を祀っているため、二尊院と称されているが、正しくは「小倉山二尊教院華台寺」という。
 二尊院墓地には、四条家、儒者伊藤仁斎一族、角倉了以一族、三条家、三条西家、嵯峨(正親町三条)家、二条家の墓が所狭しと並んでいる。墓マニアには堪らない場所である。まず四条家の墓を手始めに墓地を散策することにした。


伊藤仁斎の墓


内大臣正一位大勲位三條公瘞髪塔
(三条実美の遺髪を埋めた墓)

 三条実美の墓は東京護国寺にあるが、二尊院の三条家墓地には父実万の墓と並んで、遺髪を収めた墓碑が建てられている。

 三条実万(さねつむ)は、高格、仁孝、孝明の三代の天皇に仕え、人格円満にして才識の誉れが高く、「今天神」と称された。天保二年に議奏に挙げられ、嘉永元年には武家伝奏に転じて、更に内大臣に任じられ、常に朝議に参画し重きを成した。安政五年、日米通商条約勅許問題が起きると、勅許反対の立場に立ち、将軍継嗣問題では一橋慶喜擁立を支持した。水戸藩に下された「戊牛の密勅」にも関与し、そのため安政の大獄が起きると、幕府の追及するところとなり、洛外の上津屋村の別邸に隠棲を余儀なくされる。それでも幕府の追及を避けられず、翌年には落飾、慎を命ぜられ、洛北一乗寺村に幽居した。その年の十月、病を得て危篤に瀕し謹慎を解かれ従一位を授かったが、年五十八で世を去った。死後、右大臣を贈られ、明治二年(1869)、謚を忠成と賜り、二尊院の墓には、「贈右大臣従一位藤原忠成公墓」と刻まれている。


贈右大臣従一位藤原忠成公(三条実万)墓


嵯峨家の墓


従一位二條斉敬公墓

 二条斉敬の名は、中川宮とともに幕末朝廷の政局によく現れる。やはり安政の大獄に連座して一時謹慎を命じられたが、復帰して内大臣、継いで右大臣に任じられた。文久三年(1863)の八月十八日の政変では、中川宮、近衛忠煕らと相議して尊攘派の一掃に成功し、その後の公武合体派公家による朝権掌握に参画した。以後、孝明天皇の側に仕えてよく補佐し信任を得た。しかし慶応二年(1866)十二月、孝明天皇が崩御し、翌年王政復古が宣言されると、ほかの公武合体派公卿とともに参朝を停止され、以後、再び政治に関与することはなかった。明治十一年(1878)年六十三にて死去。


従一位勲一等伯爵壬生基修之墓

 いわゆる「七卿」の一人、壬生基修は、条約勅許問題の発生とともに八十八公卿列参に加わった。文久二年(1862)には、和宮降嫁に尽力した、いわゆる四奸二嬪を弾劾し朝政からの排除に成功し、急進派尊攘派公卿の一人として名を馳せた。しかし八一八の政変で失脚して京都を追われた。王政復古が宣言されると、参与として国政に参画し、会津征討越後口総督参謀として東国を転戦した。東北が鎮定されると、越後府知事継いで東京府知事、山形県権令に任じられた。明治八年(1875)に元老院議官に任じられたが、明治後は目立った活躍は見られなかった。明治三十九年(1906)年七十二にて没。

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