史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

秋田 Ⅲ

2022年04月02日 | 秋田県

(秋田県農協電算センター)

 コロナ禍により長らく出張を控えていたが、久しぶりに秋田への出張となった。秋田駅前に宿を取り、朝七時半の電車で能代に移動しなくてはならなかったので、日の出時間から四十分ほどで大町の明治天皇行在所跡まで往復することにした。

 

明治天皇行在所跡

 

 大町三丁目の秋田県農協電算センターの前に明治天皇行在所跡碑が建てられている。

 明治天皇がこの場所にあった瀬川徳助邸を行在所としたのは、明治十四年(1881)九月十六日のことであった。

 

(赤れんが郷土館)

 大町三丁目の明治天皇行在所跡の向かい側にあるのが赤れんが郷土館である。赤れんが館は旧秋田銀行本店として明治四十二年(1909)に着工、同四十五年(1912)に完成した煉瓦造り二階建ての建物で、昭和四十四年(1969)まで営業していた。昭和五十六年(1981)に秋田市に寄贈された。秋田市では明治期の貴重な洋風建築を後世に残すべく修復を行い、昭和六十年(1985)に秋田市立赤れんが郷土館として開館した。

 

赤れんが郷土館

 

旧秋田銀行本店

 

(聲体寺)

 この日は能代への出張のあと二時間ほど時間がとれたので、レンタサイクルで市内の寺院を回る計画を立てた。ところが、観光案内所に問い合わせたところ、レンタサイクルは十一月末までだという。駅レンタカーでもレンタサイクルをやっていると紹介されたので、駅レンタカーにも電話したが、やはり十一月で終了したということであった。理由は「十二月に入ったら雪が降るから」ということであるが、私が訪れたこの日は冬晴に恵まれ、またここ数日は降雪がなかったこともあり、自転車でも十分回るこができる状態であった。

 それでも二時間という限られた時間を効率的に使うために、徒歩という選択肢はなかった。経済的には割が合わないが、レンタカーを調達することにした。

 冬の一日は短い。午後三時半を過ぎると、もう日が傾く。時間に追いまくられるように聲体寺、鱗勝院、龍泉寺、正覚寺、誓願寺という五つの寺を回ったが、結果的に収穫は少な目であった。

 

吉川忠安之墓

 

 吉川忠安は、文政七年(1824)の生まれ。十一歳で出仕、小姓番となり、のち明徳館和学掛となる。また父忠行の設立した砲術所の跡を継いで師範となった。慶應二年(1866)、藩の西洋砲術所設立に際しては砲術頭に任じられ、火薬製造、戦法等全般にわたる指導を行った。幕末において西洋の軍事、科学技術の積極的導入による藩制改革を主張し、一種の重商主義的経済政策による殖産興業を唱えた。高瀬美佐夫らの開拓物産新計画を支持し、山中新十郎ともつながって明治初年には石油開発などにも関与していたらしい。明治元年(1868)、藩の態度決定の際には仙台藩使節を斬って方向を定める等、勤王の急先鋒の一人であった。明治二年(1869)、権大参事に任じられ、明治三年(1870)には神祇局掛となり、廃藩により職を辞した。明治十七年(1884)、年六十一歳にて没。

 

(鱗勝院)

 鱗勝院を再訪。ここでは佐藤時之助、後藤敬吉(戊辰戦争で活躍)、金大之進(秋田藩佐幕派)の墓を探し歩いたが、佐藤時之助の墓を発見したのみであった。

 

容斎佐藤府君之墓(佐藤時之助の墓)

 

 通称佐藤時之助の墓である。おそらく以前東京の総泉寺にあった墓が改葬されたものと思われる。

 佐藤時之助は、文政四年(1821)の生まれ。諱は忠政、雅号は容斎。戊辰戦争では勤王を主張し、秋田藩の勘定奉行を務めた。当時の秋田藩は周囲を東北諸藩に囲まれ孤立し苦戦していた。それより以前、既に全く窮迫していた藩財政は戦費調達の力がなく、そのため奔走してやむなく私鋳銭の製造を行ったりして苦境を切り抜けた。明治元年(1868)十二月、免官されたが、翌明治二年(1869)九月、会計幹事、同年十一月少参事となったが、翌月免官。明治四年(1871)七月、捕らえられ、十一月東京の獄中で原因不明の死を遂げた。死後となるが、同年十二月に贋金製造を理由に死刑の判決を受けた。年五十一。

 

(龍泉寺)

 「明治維新人名辞典」によれば、龍泉寺に川井小六(秋田藩士。郡奉行などを歴任。勤王派)の墓があるとなっていたので、ここも再訪したが、川井姓の墓石すら発見することができなかった。

 

(誓願寺)

 

堀尾茂次晴之墓

 

 誓願寺を再アタック(三回目)。ようやく堀尾茂の墓に出会うことができた。

堀尾茂は旗奉行。慶應四年(1868)八月十四日、羽後小貫高畑で戦死。三十歳。

 

郡奉行兼助教志賀先生之墓

 

龍湖志賀祐五郎墓

 

 誓願寺墓地を歩いていて志賀祐五郎の墓を発見した。

 志賀祐五郎は明治、大正期に活躍した新聞記者で、志賀為吉の四男。井上馨が朝鮮公使の時、「東京日日新聞」記者として特派され、通信文「韓山風雲録」が評判となった。明治三十年(1897)、「台湾日報」の主筆。大正八年(1919)、五十七歳にて死去。

 同じ墓地にある「郡奉行兼助教志賀先生之墓」は志賀為吉の墓のようにも見えるが、為吉の墓は秋田市楢山愛宕下の金照寺にあったので別人のものか。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 仙台 Ⅺ | トップ | 盛岡 Ⅱ »

コメントを投稿

秋田県」カテゴリの最新記事