史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

水沢 Ⅱ

2022年04月09日 | 岩手県

(水沢公園つづき)

 

弔魂碑

 

 戊辰戦争に出陣して戦死した水沢藩士十七名の弔魂碑である。仙台藩の一門である水沢藩は白河の役に出陣したが、石切山などで敗れ、星内蔵太隊長以下十七名の死者を出した。留守氏(水沢伊達家)二十八代景福(かげやす)公のとき、明治二十七年(1894)にこの碑が建てられた。篆額は伊達宗基。栗本鋤雲の撰文。金井之恭の書。

 

後藤新平像

 

 水沢公園には後藤新平の像が二つある。もう一つの像は、ボーイスカウト姿である。

 後藤新平は、日本ボーイスカウトの初代総長となった。この銅像は、大熊氏広の作で、明治四十四年(1911)の建立。太平洋戦争の際に供出され、その後昭和四十六年(1971)に、東北三県(青森、岩手、秋田)ライオンズクラブ年次総会の記念事業として旧台座の上に日本ボーイスカウト初代総長の銅像が再建された。

 

斉藤實銅像(朝倉文夫作)

 

 斎藤實の銅像は、没後二年が経過した昭和十三年(1938)に建設されたが、昭和十九年(1944)に供出された。昭和三十八年(1963)、斎藤實子爵銅像復元会が全国募金により復元した。

 

(増長寺)

 

増長寺

 

 星家の墓は建て替えられて新しい墓石になっているが、傍らの墓誌で「慶応戊年六月十二日 星蔵人太 三十六歳」と名前を確認することができる。

 星内蔵太は、一番座召出。小隊長。水沢搦手丁住。慶應四年(1868)六月十二日、白河石切山にて戦死。三十六歳。

 

星家之墓(星内蔵太の墓)

 

(佐倉河 宿)

 

戊辰役記念碑(右)

戊辰役戦死者之碑(左)

 

 右手の戊辰役記念碑は、斎藤實の篆額。佐野宿から出陣した三十名の記念碑。大正六年(1917)の建立。そのうち佐藤雄治(三十一歳)、小野傳右衛門(三十一歳)、千葉弥左衛門(三十六歳)の三名が戦死した。左手の戊辰役戦死者之碑は、その三名を悼んで平成五年(1993)に建立されたものである。

 

(後藤寿庵の館跡・寿庵廟)

 

寿庵廟

 

白川戦歿者招魂碑

 

 福原農村公園と名付けられているが、この場所は、江戸時代初期、伊達政宗の家臣であったキリシタン武士後藤寿庵が居所とした館跡である。中ほどには天主堂があったとされる。

 寿庵は、慶長十六年(1611)から元和十年(1624)まで、当時見分けの地と称されていたこの地を治めた千二百石の領主であった。先端土木の技術者でもあった寿庵は、胆沢川から水を引き、荒れ野であった胆沢扇状地を開拓して、有数の穀倉地帯といわれる基礎を築いた。このことから胆沢平野開拓の祖とも称され、博愛の精神で仁政を敷いた名領主といわれる。昭和六年(1931)、地元農民が私財を投じて寿庵顕彰のシンボルとなる寿庵廟を建立した。

 寿庵廟の傍らに白川戦歿招魂碑が置かれている。水沢福原出身の戦死者二人(菊地卯兵衛と後藤善之丞)の招魂碑である。両名とも慶應四年(1868)六月十二日、白河石切山にて戦死。

 

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