史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

平泉

2022年04月09日 | 岩手県

(中尊寺)

 有名な中尊寺は、寺伝によれば、嘉祥三年(1850)、円仁が創建された弘台寿院に始まったという。木立に囲まれた広大な境内は、全域が国特別史跡に指定されている。

 奥六郡(岩手県の北上川中流域)と山北三郡(秋田県の横手周辺)の支配者となった藤原清衡じゃ、豊田館(現・奥州市江刺区)から平泉に拠点を移した。この地は、白河関と外浜(青森県津軽半島)のちょうど中間点にあたり、陸奥の中心地で奥羽全域に号令しようという清衡の意思が現れたものといわれる。中尊寺の寺号については(諸説あるが)奥羽の中心地に因んで命名されたという。

 

中尊寺本堂

 

 最盛期には四十余りの寺塔、三百を超える禅坊は立ち並んでいたとされる。しかし、奥州藤原氏滅亡とともに衰微し、建武四年(1337)の火災で金色堂と経蔵を除き山内の堂宇は焼失した。その後、江戸時代に仙台藩の保護によって復興し、現在に至っている。

 

中尊寺金色堂

 

 金色堂は覆堂という建物の内部にある。堂内には三つの須弥壇があり。清衡、基衡、秀衡の三代に柩が納められている。金色堂は阿弥陀堂であると同時に藤原三代の遺体を祀る霊廟でもある。

 

金色堂覆堂

 

 金色堂を出て小高い丘の上に旧覆堂がある。鎌倉幕府によって金色堂の修復が行われ、覆堂が建てられたと考えられてきたが、近年の調査では、金色堂建立後五十年ほどで簡素な覆屋根がかけられ、増改築を経て室町時代中期に現在の形になったとみられる。昭和三十八年(1963)、新覆堂の建築に伴い、現在地に移築された。

 

阿弥陀堂

 

 中尊寺第一駐車場に車を停めて、月見坂と呼ばれる参道を進む。弁慶堂、薬師堂、本堂、大日堂、鐘楼、阿弥陀堂、弁財天堂が次々と現れる。

 嘉永五年(1852)、東北の旅に出た吉田松陰と宮部鼎蔵は、三月十四日、中尊寺を詣でた。松陰は「道を離れて山に入ること五六町、十八の坊あり、杉樹蓊蘙(おうえい)し頗る幽邃(ゆうすい)の致あり。」と日記に残した。この後、一関に出て宿をとっている。

 

大日堂

 

大日如来

 

お守り

 

小松宮殿下御休憩 御舊蹟

 

 東物見台に小松宮彰仁親王がここで休憩をとったことを記念した石碑が建てられている。石碑によれば、明治三十四年(1901)十月四日のことらしい。

 

(白山神社)

 

白山神社

 

明治天皇天覧所

 

 中尊寺のさらに奥に白山神社が鎮座している。白山神社も千年の歴史を紡いできたが、嘉永二年(1849)の火災で焼失した。現在ある能舞台は嘉永六年(1853)、当時の伊達藩主伊達慶邦から再建奉納されたものである。白山神社の能舞は、天正十九年(1591)、時の関白豊臣秀次と伊達政宗が当社参拝の折、観覧に供し、以来綿々と受け継がれ今日に至っている。明治九年(1876)秋、明治天皇が御東巡の際、白山神社に御臨幸され、古式および能舞を天覧した。能舞台の前にそのことを記念した石碑が建てられている。

 

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