史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

田野畑 Ⅱ

2022年12月10日 | 岩手県

(田野畑民族資料館)

 田野畑民族資料館の敷地内に「三閉伊一揆の像」が建てられている。腰を下ろしているのが佐々木弥五兵衛(やごべい)、南方の空を眺めてたたずんでいるのが畠山太助(たすけ)である。

 三閉伊一揆というのは、弘化四年(1847)に佐々木弥五兵衛が指導したものと、嘉永六年(1853)の畠山太助の指導した二度にわたる一揆をいう。盛岡藩では近世において全国でもっとも多く百姓一揆が発生した。明治二年(1869)に至るまで実に百三十二回の一揆が数えられる。とりわけ十九世紀に発生した二度の三閉伊一揆は大規模なものであった。この時期、九戸郡、下閉伊郡地方では産鉄、魚油、魚粕が商品化されつつあったが、これに目をつけた盛岡藩では、弘化四年(1847)、大阪の豪商を蔵元として水産物を安く買い上げる専売制を導入した。さらに総額五万二千両という巨額の御用金が賦課された。中でも三閉伊通(野田通、宮古通、大槌通)への賦課が他の地方と比べて格段に大きかった。

 こうした圧政に対して、藩政改革を求め、農民の生活を安定させようという動きが起こった。佐々木弥五兵衛の指導のもとに蹶起した農民一万二千は、遠野城下になだれこみ、新税の撤回をはじめとする二十六ヶ条の要求を提出した。藩は全面的に要求を認め一揆は鎮静化したが、その途端、次々と公約を破棄し、再び増税・新税の徴発を強行した。佐々木弥五兵衛は、再度一揆を企てたが、嘉永元年(1848)、捕らえられ獄中にて没した。

 嘉永六年(1853)、佐々木弥五兵衛の遺志を継いだ畠山太助、三浦命助を指導者とした一揆が起こった。同年五月、田野畑村にて「小〇(こまる)」の幟旗を目印に、鉄砲、槍を携えて、野田、宮古、大槌を経て釜石に集結した。一揆勢は総勢一万六千余りに達したという。そのうち八千が仙台藩唐丹村へ集団で越境し、藩主の更迭や三閉伊通の幕領化または仙台藩領化を主張し、藩政改革を求めた。

 一揆の代表者は、百数十日に及ぶ交渉の末、盛岡藩に四十九ヶ条の要求のほとんどを認めさせた。盛岡藩では専横を極めた要人の更迭を決め、藩主南部利済(としただ)は、江戸にて謹慎を命じられ、一揆はようやく終息した。

 なお三浦命助は、安政四年(1857)、越境逃散の罪で捕らえられ、元治元年(1864)、獄中にて没した。

 

田野畑民族資料館

 

一揆の像

 

 筋骨隆々たる農民の像である。この時代、粗食を強いられた武士層は総じて痩せて貧弱だったのに対し、肉体労働に耐えた農民層は総じてがっしりした体格だったといわれる。

 

(田野畑共葬墓地)

 

正岳法憐居士(畠山多助の墓)

 

 一揆の像から二百メートルほど東の田野畑共葬墓地に畠山太助の墓がある。

 

(畠山太助生家跡)

 畠山太助の生家跡の場所が分からなかったので、田野畑民俗資料館で確認した。受付の女性が場所を丁寧に教えてくれたので、迷わず行き着くことができた。民族資料館からおよそ一キロメートル北に行ったところである。

 

三閉百姓一揆指導者

田野畑(畠山)太助生家跡

 

われ万民のために死なん

 

畠山太助生家跡

 

 畠山太助の生家跡である。生家は昭和四十七年(1972)までこの場所に残っていた。屋号を「下脇」といった。太助の父多次郎も天保七年(1836)の岩泉へ押し寄せた一揆で代表を務めた五人のうちの一人であった。弘化四年(1847)の一揆でも先導的な立場で参加した。太助は喜蔵とともに嘉永六年(1853)、三閉伊一揆の御大将であった。仙台藩領内で代表四十五人が交渉に行き詰まり動揺した際には、「衆民のため死ぬることは元より覚悟のことなれば、今更命惜しみ申すべきや」といって、彼らの動揺を鎮め一揆を成功に導いた。生家入口の石碑は、当時の当主であった畠山昭男氏が建立したものである。

 

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