(廓信寺)
廓信寺
一本杉で討ち取られた河西祐之助は、観音寺に葬られたが、その後、観音寺は廃寺となり、現在、墓石は廓信寺に引き取られて、供養されている。山門前に「観音寺縁故者供養塔」が建てられているが、その一番右端にあるのが河西祐之助の墓である。墓石表面は剥落し、辛うじて「川」という文字のみが確認できる。
河西祐之助の墓
小泉蘭斎の墓
小泉蘭斎
小泉蘭斎は、文化八年(1810)、三上藩(現・滋賀県)藩士の子として江戸に生まれ、三十八歳のとき藩を辞し、別所村(現・さいたま市浦和区)に移り、寺子屋を開いた。当時の浦和県が浦和宿本陣に郷学校を開くに当り、石川直中校長のもとに蘭斎も招かれ、その教師となった。浦和郷学校は、明治四年(1871)二月、玉蔵院を校舎として正式に開校したが、蘭斎はその翌年の五月、病没した。明治十年(1877)、教え子たちが拠金して廓信寺に墓碑を建てた。背面には蘭斎の事歴を刻む。
本堂の前に収納庫があり、そこに蘭斎の墓が保管されている。従って、墓石の側面や背面を確認することはできない。
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