(五日市カトリック霊園)
田中家之(田中不二麿)墓
尾張藩士田中不二麿の墓である。田中不二麿の墓は当初谷中にあったが、のちに五日市カトリック霊園に改装された。真新しい墓であるが、傍らの墓誌に田中不二麿の名前が記されている。
田中不二麿は、弘化二年(1845)生まれ。田宮如雲、丹羽賢らとともに尾張藩の金鉄組に加わって勤王を唱え、藩内の佐幕派を抑えて反論を討幕の方向に進めた。慶応三年(1867)には新政府参与、明治元年(1868)徴士、明治四年(1871)文部大丞となった。岩倉使節団にも加わって、欧米の教育事情を調査し「理事功程」十五巻にまとめた。明治七年(1874)には文部大輔に任じられた。明治十年(1877)、アメリカに出張して教育制度を調査し、「米国学校法」を文部省から刊行した。明治十二年(1879)、発布された教育令が自由主義を基調としたものであったため非難を受け、明治十三年(1880)には司法省に転じた。その後、イタリア公使、フランス公使、枢密院顧問官を歴任した後、明治二十四年(1891)には司法大臣として第一次松方内閣に参画した。明治四十二年(1909)、六十五歳で没。
尾張出身で新政府の高官となったのは、田中不二麿がほとんど唯一といって良い。
(丸山家)
丸山家
八王子先人同心は、八王子だけでなく、現在の神奈川県、埼玉県域まで広く居住していた。あきる野市の丸山家も、八王子千人同心の家系である。
丸山家の前にある畑の一角に丸山家墓地があり、そこに幕末の当主丸山惣兵衛定静の墓がある。
丸山惣兵衛定静の墓
丸山惣兵衛は八王子千人同心組頭。文久二年(1862)と元治元年(1864)の将軍家茂の上洛に供奉し、甲州表の賊徒討伐にも出張した。第二次長州征伐にも八番小隊半隊司令として従軍した。帰郷後、横浜に赴任したが、戊辰戦争で千人隊が新政府に恭順したため、新政府に出仕して護境隊頭取に就いた。明治三十年(1897)八十九歳で死去。
(地蔵院)
地蔵院には八王子同心田辺利八、小三郎の墓がある。
地蔵院
田邊家先祖累代之墓
田邊家は天正十九年から千人同心として続く旧家で、代々日光勤番と甲州口警備を担当していた。利八は甲州勤番を三度務め、神奈川警備にも出張した。養子の小三郎も日光勤番を務め、元治元年(1864)の甲州賊徒討伐や慶応二年(1866)神奈川警備にも出張した。利八は慶応四年(1868)七月没。二人は田邊家累代之墓に合葬されている。墓石の側面には八王子千人同心田邊家の事績が刻まれている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/03/dd8a73cb78b441f791bbd0ef38b66795.jpg)
田中家之(田中不二麿)墓
尾張藩士田中不二麿の墓である。田中不二麿の墓は当初谷中にあったが、のちに五日市カトリック霊園に改装された。真新しい墓であるが、傍らの墓誌に田中不二麿の名前が記されている。
田中不二麿は、弘化二年(1845)生まれ。田宮如雲、丹羽賢らとともに尾張藩の金鉄組に加わって勤王を唱え、藩内の佐幕派を抑えて反論を討幕の方向に進めた。慶応三年(1867)には新政府参与、明治元年(1868)徴士、明治四年(1871)文部大丞となった。岩倉使節団にも加わって、欧米の教育事情を調査し「理事功程」十五巻にまとめた。明治七年(1874)には文部大輔に任じられた。明治十年(1877)、アメリカに出張して教育制度を調査し、「米国学校法」を文部省から刊行した。明治十二年(1879)、発布された教育令が自由主義を基調としたものであったため非難を受け、明治十三年(1880)には司法省に転じた。その後、イタリア公使、フランス公使、枢密院顧問官を歴任した後、明治二十四年(1891)には司法大臣として第一次松方内閣に参画した。明治四十二年(1909)、六十五歳で没。
尾張出身で新政府の高官となったのは、田中不二麿がほとんど唯一といって良い。
(丸山家)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/d5/a9356b4713ca6979177abdff999c3eca.jpg)
丸山家
八王子先人同心は、八王子だけでなく、現在の神奈川県、埼玉県域まで広く居住していた。あきる野市の丸山家も、八王子千人同心の家系である。
丸山家の前にある畑の一角に丸山家墓地があり、そこに幕末の当主丸山惣兵衛定静の墓がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/a2/81f6be3692f1c57f0d1bb7e40a5e79a3.jpg)
丸山惣兵衛定静の墓
丸山惣兵衛は八王子千人同心組頭。文久二年(1862)と元治元年(1864)の将軍家茂の上洛に供奉し、甲州表の賊徒討伐にも出張した。第二次長州征伐にも八番小隊半隊司令として従軍した。帰郷後、横浜に赴任したが、戊辰戦争で千人隊が新政府に恭順したため、新政府に出仕して護境隊頭取に就いた。明治三十年(1897)八十九歳で死去。
(地蔵院)
地蔵院には八王子同心田辺利八、小三郎の墓がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/73/9f16aac7ab7993a6c0ba40848d652c55.jpg)
地蔵院
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/13/ca3746b42a8e8c2fe9f6009e1677d86e.jpg)
田邊家先祖累代之墓
田邊家は天正十九年から千人同心として続く旧家で、代々日光勤番と甲州口警備を担当していた。利八は甲州勤番を三度務め、神奈川警備にも出張した。養子の小三郎も日光勤番を務め、元治元年(1864)の甲州賊徒討伐や慶応二年(1866)神奈川警備にも出張した。利八は慶応四年(1868)七月没。二人は田邊家累代之墓に合葬されている。墓石の側面には八王子千人同心田邊家の事績が刻まれている。
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