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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

高円寺 Ⅵ

2018年04月22日 | 東京都
(長龍寺)
 幕臣塚原昌義の墓を訪ねて、高円寺の長龍寺まで往復してきた(杉並区高円寺南2-31-28)。
 長龍寺は、寺伝によれば文禄二年(1593)に麹町四番町(現・千代田区四番町)に創建されたといわれる。元和二年(1616)、市ヶ谷左内坂に移転し、明治四十二年(1909)、市ヶ谷の陸軍士官学校の拡張にともない、現在地に再移転した。開基である幕府御使番河野氏をはじめ、旧武田家臣団や徳川の名門松平十四家の一つである滝脇松平家(世良田家)、長坂血槍九郎家、山名宗全の本家山名家、その他旗本、名家七十六家の菩提所である。


長龍寺

 塚原家の墓所は比較的早く見付けることができた。周囲を古い墓石が囲んでいるが、残念ながらどれが塚原昌義の墓なのか特定はできなかった。


塚原家之墓

 塚原昌義は、安政三年(1856)十月、外国貿易取調掛に任じられ、老中堀田正睦を援け、以後主に外交面で活躍した。安政六年(1859)、外国奉行支配調役の時、日米通商条約批准のため我が国最初の海外派遣使節に随行を命じられた。その後、外国奉行支配組頭・徒頭を経て、文久二年(1862)九月、目付に任じられ、同年十二月、講武所頭取に転じ、大砲組与組を経て、元治元年(1864)、再度目付に就いた。この時、幕府は横浜鎖港談判使節池田長発の結んだパリ約定の破棄を宣言し、再び施設をパリに派遣することになり、その目付に任じられたが、赴かずに終わった。慶応元年(1865)、大目付となり、同年九月、英国駐箚公使に選ばれたが、これまた赴かずに終わった。その後も外国奉行・勘定奉行兼帯、外国奉行並、外国総奉行、若年寄並、外国総奉行兼帯と常に外交の第一線にあった。一方、内政面では長州処分に厳しく臨み、慶応三年(1867)六月には兵庫開港に備えて商社を設立し、貿易発展を策すべきと建議し、幕府の富強を図った。さらに鳥羽伏見の戦いにあっては、副総督として全軍を統率するなど、小栗忠順とともに親仏の幕府内強硬派であった。そのため慶応四年(1868)二月、徳川慶喜により免職・登営停止処分を受けた。その直後、アメリカに亡命して、以降の消息は不明。
 というのが一般的な塚原昌義の紹介である。最近になって樋口雄彦氏(国立歴史民俗博物館教授)が、「幕臣塚原昌義は維新後武田昌次と名を変えて明治政府に出仕していた」という衝撃的な事実を解明された。武田昌次は大久保利通の率いる内務省に入り、勧農局などで活躍している。手元の「小笠原島ゆかりの人々」(田畑道夫著 小笠原村教育委員会)でも武田昌次が小笠原島に滞在して、珈琲栽培や養蜂などを島に持ち込もうとしていたことが記録されている。塚原家の先祖は武田家臣団から徳川家に召抱えられたといわれ、その縁で武田姓を名乗ったのであろう。

(鳳林寺)


鳳林寺

 鳳林寺は、やはり高円寺の寺町に所在している(杉並区高円寺南2-39-1)。やはり大正三年(1914)に牛込から現在地に移転してきた。
 墓地に、幕末の医家加賀谷楽山、書家の加賀谷向陵と画家の酔雪親子の墓がある。


向陵多賀谷府君墓(右)
楽山多賀谷府君墓(中)
酔雪多賀谷府君墓(左)

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