史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

鶴岡 Ⅴ

2012年09月16日 | 山形県
(長円寺)


長円寺


新発田藩士の墓

 片桐喜八郎と佐藤敬吾という二人の新発田藩士の墓である。
 片桐喜八郎は、九月一日、越後岩船中浜にて戦死。二十三歳。
 佐藤敬吾は兵頭隊の兵士。同じく越後岩船中浜にて戦死した。十八歳。

(正覚寺)


正覚寺


大山庄太夫の墓

 大山庄太夫は、庄内藩士大山庄輔(北李)の長男として文化五年(1808)江戸に生まれた。才気に富み、先見の明と卓越した行動力で藩主酒井忠器の信頼を得て、栄進、加増を重ねた。江戸留守居役を十三年も勤めた。この間におこった天保の国替え(“三方領地替え”と呼ばれる)では幕府の転封撤回に尽力し、庄内藩勝利の立役者となった。庄内に大山庄太夫ありとの名声を博することになる。幕末の政局では公武合体を主張し、同志とその実現に向けて奔走するが、藩内の政争に敗れ慶應二年(1866)、自宅拘禁中に自刃した。死骸は塩漬けとされて、断罪を待って翌年茅場の刑場で腰斬りの刑に処された。「丁卯の大獄」と呼ばれる。享年五十九。庄内藩というと、幕末の諸藩の中で比較的統制のとれた藩というイメージが強いが、御多分に漏れず、流血をともなう内紛があったのである。

(本鏡寺)


本鏡寺


高林院幽達日等居士
(今井邦太郎墓)

 本鏡寺には、今井邦太郎と小林幡郎という二人の庄内藩士の墓がある。

 今井邦太郎は、石原数右衛門の組に属した兵卒。九月十一日の羽後椿台における戦闘で戦死。


果成院現修日満居士
(小林幡郎墓)

 小林幡郎は、嘉永三年(1850)の生まれ。文久三年(1863)、砲術家小林登之助が組織した小林組に入った。小林組はその後大砲組と名を改めて、組士は庄内藩の預り浪人となった。大砲組は慶應四年(1868)二月、さらに改名して新整隊(あるいは新整組)となり、隊士には家臣の身分が与えられた。戊辰戦争がおこると、幡郎は新整隊の嚮導として出陣。天童で殊勲を立てた後、鳥海山を越えて秋田方面へ向けて転戦した。維新後、東京で官途につくことを望んだが、志が漏れて藩士細井金右衛門宅に招かれ、そこで拷問を受けた末、石原美和の介錯に拠り自刃した。享年二十一。

(林高院)


林高院


三烈士の墓

 三烈士とは、幕臣天野豊三郎(旗本)、佐藤桃太郎(旗本 庄内生まれ)、関口宥之助の三名のことである。三名は各地で新政府軍と戦ったがいずれも利なく、庄内藩を頼って鶴岡に至った。しかし、その時既に庄内藩は謝罪降伏を決していた。藩では三名に対し、降伏してそれぞれ帰国することを勧めた。林高院に匿われた三名は、義侠心の厚い同地の豪農三浦半三郎に食事の世話などを受けながら、新政府軍を批判する文書を作って抵抗を続けた。この行為に憤った新政府軍は、雲州軍に命じて三名を処刑させた。このとき三浦半三郎は病床にあったが、有志五人とともに酒田の妙法寺境内に進入し、三名の首級を奪回して持ち帰り、林高院に埋葬した。明治三年(1870)墓碑が建立され、以来毎年命日である四月二十一日に供養が行われている。

(松ヶ岡開墾場)


国指定史跡 松ヶ岡開墾場


松ヶ岡開墾記念館

 鶴岡市の郊外、松ヶ岡は明治初年旧庄内藩士らによって開墾された土地である。松ヶ岡という地名は、前藩主酒井忠発により命名されたものである。
 明治五年(1872)、旧庄内藩士三千人が松ヶ岡に移住し、開墾に着手した。明治七年(1874)までに三百十一ヘクタールに及ぶ桑園を造成し、明治十年(1877)までに大蚕室十棟を建設して養蚕業を開始した。大蚕室十棟のうち五棟が現存している。そのうちの一棟が、松が岡開墾記念館として公開されている。明治二十年(1888)には鶴岡に製糸工場が建設され、さらに昭和十年(1935)には絹織物工場が完成した。


新徴屋敷

 松が岡開墾場には、新徴組からも六十五名が参加したが、次々と脱落し、現在では新徴組隊士の末裔は三戸のみとなっている。開墾地には、新徴組屋敷三十余棟が移築されたが、現在その中の一棟(匹田家住宅)が復元保存されている。

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