史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

沼津 Ⅴ

2017年08月11日 | 静岡県
(霊山寺つづき)


俗名齋藤金三郎之墓

 霊山寺の境外の墓地(塔頭の一つ元光妙院の墓地)に彰義隊士齋藤金三郎の墓がある。
 斎藤金三郎(または金左衛門)は彰義隊残党で明治元年(1868)十月、静岡に移住した一人である。しかし、数か月で貯えも尽きてしまい、解党して新しく職を探そうというグループとそれに反対する正義派に分裂して対立した。正義派は首領として彰義隊九番隊長大谷内龍五郎を担いた。正義派は待遇改善を静岡藩庁に訴えたが聞き入れてもらえず、これを妨害するのは解党派の齋藤金三郎、上野岩太郎らの仕業だと信じた彼らは、齋藤は沼津で斬殺し、この地に葬った。上野の墓は現清水町堂庭の蓮華寺にある。二人の墓は同じ高さの同型で、大谷内龍五郎が建てたものという。その一年後の明治三年(1870)十二月、大谷内は齋藤と上野の遺児の介錯により切腹して果てた。

(上本通り商店街)
 JR沼津駅に近い上本通り商店街は、「日本近代小学教育発祥の地」を売りにしている。ちょうど商店街の真ん中辺りに「日本近代的小学校発祥の地」と記された石碑が建てられている。


日本の近代的小学校発祥の地

 維新後、静岡藩沼津に当時の我が国最高の教育・文化の粋沼津兵学校を設立したことは広く知られている。明治元年(1868)に設立された兵学校附属小学校は、代戯館に端を発し、士族平民の別なく入学を許し、洋算、地理など新時代の教科や教授法を採り入れた我が国最初の近代的小学校となった。校地の移転拡張が続いたが、明治三年(1870)、沼津城西の外堀に面して赤松大三郎(則良)設計による豪壮な校舎が建てられた。現・沼津第一小学校はその流れを継いでいる。

(本光寺)
 長谷観音寺からさらに海側に進むと「千本浜」と呼ばれる海岸に出会う。その名のとおり、密度の濃い松原が続く。千本松原に面した場所に本光寺がある。


本光寺

 本光寺墓地に慰忠碑と刻んだ石碑がある。戊辰戦争の戦死者の慰霊碑で、明治十七年(1884)の建立。


慰忠碑

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