史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「福沢諭吉 変貌する肖像」 小川原正道 ちくま新書

2024年07月27日 | 書評

福沢諭吉といえば、明治を代表する啓蒙思想家である。「西洋事情」「学問のすゝめ」「文明論之概略」「丁丑公論」など多くの著作があるが、個人的には読み通したことがあるのは「瘦我慢之説」くらいのもので、福沢をとりまく評価の変遷を読んでも今一つピンと来ないものがあったが、その中でも「なるほど」と思ったこと2点について書き残しておきたい。

ちょうどこの本を読んでいるさなかに、一万円札の肖像が福沢諭吉から渋沢栄一へ切り替わった。福沢諭吉が一万円札の顔として登場したのは、昭和五十九年(1984)のことである。福沢が文化人の象徴として紙幣の顔に取り上げられた背景には、「学問のすゝめ」に代表される啓蒙思想家としての側面が国民一般の間に広く認知されていることがある。

しかし、一万円札の肖像に選ばれた昭和五十年代にあっても、福沢論は定まっていなかった。国権論者・国家主義的という批判もあれば、「脱亜論」(明治十八年(1885))の解釈を巡って、福沢の「闇」の部分の論評も盛んにおこなわれていた。「脱亜論」は「時事新報」上に無署名で発表されたこともあって、戦前論壇で注目を集めることはなかった。これが福沢の論説として取り上げられるようになったのは戦後のことである。左派イデオロギーの立場からは、福沢は「経済的不平等について無関心」「資本家を擁護し、労働階級の抵抗を恐れた」(小松周吉1962)「「富豪の致富」を積極的に奨励した「ブルジョアイデオローグ」」(家永三郎1963)「帝国主義的国内政策の模倣」(ひろた1962)「下流人民を切り捨て、朝鮮民衆の可能性を無視して、これを踏み台に日本の資本主義化を促進しようとした」(ひろた1976)と激しく批判された。

1977年に政治史研究家坂野潤治が「朝鮮に永続的な立脚点を構築しようと主張した福沢」にとって、清仏戦争で中国が敗北すると日本に「朝鮮改造の好機」が訪れたが、甲申事変(朝鮮の親日派勢力によるクーデター)が失敗に帰すと、福沢は「朝鮮改造論」を放棄せざるを得なくなり、「脱亜」を宣言せざるを得なくなったと解釈した。筆者によれば「これが脱亜論の通俗的解釈として、今日まで継承されていくことになる」という。これが一点目の「なるほど」。

明治六年の政変で敗れた板垣退助らが、明治七年(1874)一月、民選議院設立建白書を提出すると、俄かに民会設置に関する議論が熱を帯びた。福沢は、「文明論之概略」で人民が地方の利害を論ずる場として民会の必要性を主張して以来、民会設置の重要性を繰り返し説いた。明治八年(1875)一月には、同じ明六社に属する加藤弘之、森有礼との鼎談で、加藤が「時期尚早」を唱えたのに対し、「尚早」とは何の「時」を基準にしていうのかと疑問を呈し、民選議院が時期尚早なら廃藩置県も尚早であると反論した。福沢が民権派であることを強く印象付ける一幕であった。

ところが明治十年代に入って自由民権活動が激化すると、官民調和論を唱え始める。「官」と「民」が権力のバランスを保ちつつその相互が「調和」するというものである。このことをもって福沢を変節漢と批判する声が上がった。

幕末に鎖国攘夷論が盛んな時には開国論を唱え、文明開化が進んで西洋への心酔が進むと逆にこれを排撃した。福沢の主張がよく変わるという声は福沢の存命中からよく指摘されていた。

これに対し、慶應義塾長を務めた鎌田栄吉は、福沢の主張が変わることをコンパスに例え、「その一脚は中心に固着して毫も移動することなく之に反して他の一脚は自由自在に伸縮弛緩して大小何れにても勝手次第の輪郭を画く」と表現した(鎌田1901)。

時代は下がるが昭和四十一年(1966)に早稲田大学出身の政治学者・木村時夫が「たしかに福沢は時代によって変貌する」が、「彼は決して機会主義者や変節漢ではない。・・・一言もって評するならばナショナリストこそが、彼に冠しうる最も妥当な称号であるように思われる」と述べたのも、鎌田栄吉のコンパス論に連なる批評であろう。これが2点目の「なるほど」である。

昭和二十六年(1951)に歴史学者の遠山茂樹が「歴史上の人物を現代的関心から取り上げる場合…往々にして誤りをおかしやすい」として自分の現代的関心にとって都合の良い一面のみを強調し、無条件に持ち上げる傾向があり、「福沢諭吉の場合でも、戦時中は国権論者(国家主義者)としての福沢が説かれ、戦後には、完全無欠な民主主義者であるかのように、礼賛の辞が捧げられる。これは歴史の勝手な利用であり、不遜な冒瀆である」という指摘は福沢批評にとどまらず、歴史上の人物を解釈するときに肝に銘じなければならないことだと思う。

 

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