史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

相馬 Ⅱ

2013年12月08日 | 福島県
(洞雲寺)


洞雲寺


因藩 太田清左衛門墓

 太田清左衛門は鳥取藩士。建部半之丞隊。慶応四年(1868)八月十一日磐城原釜で負傷、九月九日同国中村病院で死亡。


荒井又蔵政明之墓 鳥取藩五人墓(倒壊) 因藩 村松幸三郎墓

 無縁墓地の前に戊辰戦争の犠牲者の墓が四基まとめて置かれている。
 荒井又蔵も鳥取藩士。慶応四年(1868)九月十六日磐城中村城外で戦死。二十四歳。
 村松幸三郎も鳥取藩。慶応四年(1868)八月十一日磐城原釜で戦死。
 荒井と村松の墓の間に横たわる墓石は、鳥取藩の戦死者五名の合葬墓である。これも二年半前の大震災の影響と思われるが、倒壊してそのままとなっている。


堀内興長(覚左衛門)墓

 堀内覚左衛門は、中村藩士。番頭。慶応四年(1868)、六月二十四日、白河金山にて戦死。


伊藤半七郎(左) 中川源八郎墓

 伊藤半七郎は、徴兵七番隊。名古屋の人。慶応四年(1868)八月九日磐城駒ヶ峰で負傷、二十九日死亡。三十歳。
 中川源八郎は、加納藩の人。源八とも。徴兵七番隊。美濃岩手山出身。慶応四年(1868)八月九日磐城駒ヶ峰日尻口で負傷、二十五日同国中村で死亡。四十九歳。


尾州藩 津金甲太墓

 津金甲太は尾張藩出身。慶応四年(1868)年八月十一日磐城駒ヶ峰で負傷、二十一日相馬城内病院で死亡。十八歳。地震の被害と思うが墓石が横転したままとなっている。


官軍墓地

 ほとんどが久留米藩出身者の墓である。


長藩 美和内蔵主之墓

 美和内蔵主は、長州藩士。第一大隊補助長官。佐波郡伊賀地住。慶応四年(1868)九月十日、磐城旗巻峠にて負傷。同月十四日、中村病院にて死亡。


土田衝平之墓

 羽後矢島藩出身の天狗党田中愿蔵隊参謀土田衝平の墓である。一旦、南相馬の小高神社へ行った後、土田衝平の墓を見落としていたことに気づいて、三十㎞余りの道を引き返した。洞雲寺の古い墓域の一番奥にある。
 田中愿蔵隊から離れた土田衝平は相馬藩士らとともに海路相馬を目指した。しかし、当地で捕えられ処刑された。この墓は、土田衝平の処刑から数年の後、戊辰戦争の前後に建てられたもので、相馬藩が勤王か佐幕かの選択を迫られた際に、勤王の証を立てるために苦し紛れに建立されたものであろう。


正禮藤原氏墓
(松脇後左衛門の墓)

 薩摩藩士松脇後左衛門の墓が、土田衝平の墓と並べて建てられている。松脇は土田に従って相馬に逃れた天狗党員の一人で、やはり土田と同じく相馬で処刑されている。
 手元の「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)には、土田衝平の名前は掲載されていないが、何故だか松脇後左衛門(同書では五左衛門)が記載されている。以下、同書の記述。
――― 勤王の志厚く、元治元年春、名を新宮半次郎と改めてひそかに関東に行き、田中愿蔵と共に、藤田小四郎、武田耕雲斎らの筑波挙兵に参加したが敗れ、その主力は西上の途中越前国敦賀郡で加賀藩の監軍に降伏して幕命によって処刑された。五左衛門は土田衝平と共に奥羽に逃れ、再挙を図ろうとしたが、事成らず、幕吏に捕えられて同年十一月五日斬首の刑に処せられた。年二五。


大信院忠山義功居士
(草野正辰の墓)

 草野正辰の墓である。草野正辰は通称を半右衛門といい、武田流軍学の家に生まれた。江戸家老のとき、富田高慶を通じてその師二宮尊徳と知り合い、尊徳の興国安民の法を聞いて感激した草野正辰は、藩主充胤を説いて報徳仕法の導入に尽くした。弘化二年(1845)、晴れて相馬に御仕法が導入されたが、そのわずか二年後の弘化四年(1847)、江戸にて没した。七十六歳であった。正辰は、聞二という俳号を持つ俳人としても有名であった。

(愛宕山)


地蔵堂


金蔵院跡

 相馬中村藩では、天明・天保の大飢饉により農村が疲弊し、藩財政も窮乏した。そこで二宮尊徳の説く報徳仕法を導入し、農村の立て直しを図った。二宮尊徳自身は、相馬を訪れて直接指導することはなかったが、中村藩士で尊徳の弟子であった富田高慶が全体の指導に当たった。相馬藩における報徳仕法は、弘化二年(1845)から明治四年(1871)の二十七年間に渡って施行され、大きな成果を挙げた。


誠明先生(二宮尊徳)墓(右)
慈隆尊師墓

 慈隆尊師は、元日光浄土院の住職であるが、中村藩に招かれ、政事の最高顧問として報告仕法の推進を担った。戊辰戦争では戦争による被害を最小限にとどめるよう藩に進言した。愛宕山の金蔵院は慈隆尊師の住まいであり、ここで学塾を開いて子弟の教育にも力を尽くした。明治五年(1872)、東京の相馬邸にて死去。
 愛宕山地蔵堂の背後には、二宮尊徳と慈隆尊師の墓が並べて置かれている。尊徳の墓には遺髪が納められている。墓碑銘は幕臣筒井政憲。


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