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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「明治大帝の誕生」 島薗進著 春秋社

2019年08月31日 | 書評

先日著者島薗進氏によるトーク・イベントに参加したばかりであり、そこで著者の主張は概ね理解しているつもりであったが、本書を読み終わってもその時感じたモヤモヤ感は残ったままであった。

明治四十五年(1911)、明治天皇の危篤の報が流れると、大衆は競うようにして二重橋前に集まり皇居を遥拝して、明治天皇の病気平癒を祈った。天皇の大葬の日、乃木希典夫婦が殉死したことが、明治天皇の神聖化を加速させた。明治天皇の死の直後、時の東京市長阪谷芳郎から明治神宮の創建が発案された。当初は疑義を呈する意見もあったが、結局反対派の声は影を潜め、ほぼ「満場一致」で明治神宮創建は決められた。いつしか明治天皇は大帝と呼ばれるようになったが、史上このように呼ばれる天皇は明治天皇以外にいない。

本書の副題である「帝都の神道化」の根拠はここにあるわけであるが、明治神宮ができたからといって、直ちに「神道化」とまで言えるのかというのが私のモヤモヤ感の一因である。筆者は宗教学、日本宗教史が専門であり、私などより遥かに宗教に詳しい方である。この方がいうのだから間違いはないのだろうけど。

宗教というと、何だか難しい教義があり、それを信じる人は必ず従う儀礼があるといったイメージだが、明治の頃も現代も神道が我が国の国家宗教になっているとは思えないのである。

ただし、明治から昭和の敗戦までの五十年ほど、我が国では天皇を絶対視する「天皇教」(これは私の勝手な命名)とでも呼ぶべき「宗教」が支配していた。本書に登場する表現でいえば、「天皇道」「皇道」である。これらは一般的に神道と呼ばれるは宗教とは別物のように感じるが、広義の神道に該当するらしい。ただし、国家神道というのではなく、どちらかというと「下からの神道」である。

「天皇教」「天皇道」「皇道」の芽生えは、明治天皇在位中から見られた。その時期は日露戦争前後であるが、その画期となる事件が大逆事件(明治四十三年(1910))である。事件は、幸徳秋水とその内妻管野スガらが、明治天皇の暗殺を計画したというものである。それに関与したという疑いで三十人近くが逮捕され、短い裁判の後、二十四名が処刑された。彼らの罪名は「大逆罪」である。事件や裁判の経過は国民に知らされることもなかった。逮捕・処刑された社会主義者、無政府主義者のほとんどが暗殺計画に関与していなかった。この事件の全貌が明らかになったのは第二次世界大戦後のことである。

現代の我々は、平気で人権無視をおこなう中国や北朝鮮に対して「とんでもない国」という印象を抱いているが、実はわずか百年前の我が国は中国や北朝鮮にも劣らない非人道国家だったのである。残念ではあるが、国家というものは一度滅亡の渕にまで追いやられないと、その体質(国体)を変えることはできないのかもしれない。

我々は今、自由と民主主義を謳歌しており、あたかもこれが当然のようになっているが、これも百年前は自由とは程遠い非民主主義国家であった。明治政府は、明治八年(1875)の新聞紙条例、讒謗律以来、言論統制を続けてきた。「神聖天皇崇敬の強制に抵抗することが難しくなっていく一つの転機」となったのが、大逆事件であった。

こういう時代に批判めいた声をあげるのは勇気のいることである。本書では、大逆事件の弁護団の一人であった平出修や森鴎外、徳富蘆花らを紹介している。

翻って現代の日本では、言論の自由が保証されている。つくづく良い時代、良い場所に生まれたと思う。しかし、一部の報道番組や平日の昼間に放送されているワイドショーなどを視ていると、大衆の思考を一定の方向に導こうとか、反対意見を封じ込めようという意図を感じるのである。本書で紹介されているように、明治神宮創建の声が上がった際に、ジャーナリスト石橋湛山は一人そこに異様なものを感じ取り、批判の目を向けた。湛山は明治天皇の偉大な事績を否定しようというのではなく、「一地に固定してしまうようなけち臭い一木石造の神社など建てずと、「明治賞金」を作れ」と主張した。湛山の主張は、今になって冷静に聞くと説得力のあるものであるが、当時はマスコミも大衆も一体となって「明治神宮創建」という「挙国一致のお祭り騒ぎ」にあった。湛山の主張は一顧だにされずに押し流されたが、少数意見にこそ聞くべき意見がある。少数意見であっても聞く耳を持つ社会であって欲しい。

 

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「徳川斉昭 不確実な時代に生きて」 永井博著 山川出版社

2019年08月31日 | 書評

斉昭というと「頑迷な攘夷主義者」というイメージが強い。「攘夷の巨魁」となった斉昭に天下の攘夷主義者の期待が集まり、実行不能な攘夷であっても幕府首脳はそれを無視するわけにもいかず、頭痛のタネになった。

一方、幕末の水戸藩における斉昭の存在は絶対的であった。安政五年(1858)、斉昭が幕府によって謹慎を命じられると、憤激した藩士ら(激派とよばれる人たち)は、一斉に水戸街道を上り小金宿に集結した。藩士の中には、激昂の余り腹を斬る者まで現れた。この時、集結した中には農民や神官までも含まれていたという。

これまであまり斉昭の前半生については知らなかったため、斉昭が幕末の水戸藩において絶対的な存在となった理由が分かっていなかったが、本書は若き日の事績に至るまで丁寧に解説しており、大いに理解が深まった。

斉昭が初めて藩主として水戸藩に帰った(「就藩」という)のは、天保四年(1833)の三月、三十三歳の時であった。藩主を継いだのが文政十二年(1829)であるから、それからほぼ四年後のことである。斉昭は熱心に領内を巡視し、暴風雨の後には資材高騰防止や復興のために資金を拠出するといった困民対策を実行した。

以下、斉昭の藩政改革を列挙すると、①江戸と水戸の藩士を交代制とし、江戸詰めの人員を大幅に削減した。②飢饉対応として常平倉を設置し、旱魃に備えて揚水機の図を出版、家臣を九州に派遣して米を買い付けさせた。③天保九年(1838)には領内総検地を断行し、藩収入の増加を実現した。④物産方をおき、従来の紙や蒟蒻、煙草のほか、馬産、陶器、製茶、硝子、蜜蜂、植林など新しい産業を興した。⑤藩士の知行所を指定し、そこから直接年貢を取り立てる方式に切り替えた(地方知行制)。⑥藩士の意識改革を狙った甲冑閲覧式を実施。神発流・大極陣といった砲術を創案。大砲の鋳造。家臣を地方に土着させ、有事に対応できる体制を整備(海防の強化)。⑦神仏分離政策。腐敗した僧侶を還俗させる等して僧侶を整理、寺院を統合整理する一方、梵鐘や仏具を供出させ大砲鋳造に充てた。一方で神道の振興策がとられた。⑧弘道館の設立(安政四年(1857))。医学館開設(天保十四年(1843))。郷校の設置。⑨牛痘の実施。⑩偕楽園の開園。偕楽園は、その名のとおり武士だけでなく、領内の庶民にも開放された。

斉昭が実行した改革や施策は、以上にとどまらない。地方知行制によって藩士を土着させ、海防を強化する等、それぞれの施策はお互いにリンクしたものであった。幕末の斉昭のイメージは、他人の忠告に耳を貸さない、言い出したら止まらない、悪く言うと「暴君」であるが、若き斉昭は領民のことを思って「仁政」を実行し、「言路洞開」を実践して改革派・門閥派両派の意見もよく聞く名君であった。

斉昭の改革は概ね善政と評価できるだろう。しかし、神仏分離策は後年の廃仏棄釈の前例となるファナテッィクな政策であった。この頃、僧侶の間では、法号を金次第で乱発し、布施が少ないと葬式を日延べするといった目に余る腐敗が横行していた。彼らに対する懲罰という意味合いがあったとしても、行き過ぎの観を否めない。当然ながら神社にはこの施策は歓迎された。雪冤のため続々と江戸に上った民衆の中に神官の姿があったのも、故の無いことではない。のちに桜田門外の変に参加した「桜田烈士」の中にも神官がいた。

幕閣は何を言い出すか分からない斉昭を恐れたが、同時に幕府への批判勢力である攘夷派の支持を集める斉昭を(適度に)幕府に取り込むことにも腐心した。

斉昭は「副将軍」としての意識から、幕府への建言を繰りかえした。天保五年(1834)には松前拝領と蝦夷地の防備強化を申し入れた。幕府は適当に受け流したが、天保九年(1838)には蝦夷地を「北海道」と定めて日本の国土であることを明確にし、家臣ともども移住して、築城、番所の設置、人数武士の配置、諸士の土着からアイヌの教化に至る精密な計画を考案していた。天保十年(1839)には「戊戌封事」と呼ばれる文書を新将軍家慶に提出している。ここでも斉昭は蝦夷地開拓を水戸家に任せてもらいたいと請願している。異国との交易を禁じ、異国船を直ちに撃ち払えと主張し、そのために堅固な大船を建造せよと説く。対外危機への対処から内政問題までに至る壮大な提案であったが、「現実的な切迫感に乏しく、総じて観念的な感じが強い」ものでもあった。

しかし、藩政改革の成功を背景に斉昭の声望は高まっており、幕府としても無視するわけにはいかなかった。幕府は斉昭を江戸に呼び、太刀、鞍鐙、黄金を授けて慰労した。

しかし、天保十五年(1844)には藩政に不審があるとして、斉昭に致仕・謹慎を申し渡した。これには領民たちによる猛烈な雪冤運動もありその年の内に解除された。弘化三年(1846)頃からは老中阿部正弘へ頻繁に書状を送り、海防強化について提言した。幕府が、斉昭の実子慶喜に一橋家を相続させ、有力な将軍候補としたのも、斉昭を幕府に取り込むための政略という側面もあった。

嘉永六年(1853)ペリーが来航すると、幕閣は斉昭を頼った。斉昭の回答は「衆議のうえお決めになるほかなかろう」という拍子抜けしたものであった。常日頃は強硬論を吐く斉昭であったが、、国家存亡の危機に瀕して常識的な意見しか思いつかなかったということかもしれない。折しも、将軍家慶は危篤の病床にあり、世子家祥(のちの家定)は心身薄弱で指揮をとれる状況になかった。自ずと斉昭に期待が高まった。斉昭は海防参与として幕政に直接関与することになった。ようやく長年の希望が叶ったのである。

斉昭は何が何でも攘夷を主張したわけではなく、内には和睦のことは封印して決戦の構えを号令し、外に対しては避戦の交渉を進めるという「内戦外和論」を唱えた。しかし、回答延引で固めていた幕府には受け入れがたいものであった。アメリカから和親条約締結を迫られると、斉昭は石炭の補給については長崎に限定、交易については三年間試験的に交易することを提案した。「攘夷の巨魁」として名声が確立していた斉昭には妥協的な提案ができなかったのである。日米和親条約が締結されると、斉昭は辞職を申し出た。

安政二年(1855)、安政の大地震により、それまで斉昭を輔翼し、「水戸の両田」と称された藤田東湖と戸田蓬軒(忠敞)が亡くなった。斉昭の傍若無人は、両田を失って以降、加速したともいわれる。

安政三年(1856)、ハリスが総領事として着任し、通商条約の締結の交渉が始まると斉昭の反対にかかわらず、幕閣は通商是認、ハリスの出府是認で固まっており、斉昭はまたしても参与辞任を申し入れることになった。

斉昭はそれで収まらなかった。幕府に「自分をアメリカに派遣しろ」と申し入れたかと思うと「老中に腹を切らせ、ハリスの首を刎ねるべし」と暴言を吐いた。この時分から斉昭は我がままな老人と化し、幕府首脳をてこずらせた。積年の鬱憤がたまっていたのかもしれない。両田を失って、斉昭を諫める側近がいなくなったともいわれる。ここには藩政改革に取り組んでいた当時の溌剌とした若き日の斉昭の姿はない。人は年齢を増すにつれて短気となり、権力を手に入れるに従って頑固になるものである。人間は時間の経過とともに変わることは避けられないが、できることなら良い方に変わりたいものである。

斉昭は、万延元年(1860)、蟄居処分が解けぬまま六十歳で世を去った。死後、「烈公」という諡号を贈られた。「公、夙に忠誠を秉り、深く夷狄之患たりことを慮り、威武を震耀し、以って英烈を揚ぐ」から引用されたものである。「英烈」というのは「すぐれたいさお」という意味らしいが、むしろ「はげしい」という意味で、斉昭に相応しい命名といえよう。

 

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「維新政府の密偵たち」 大日向純夫著 吉川弘文館

2019年08月31日 | 書評

密偵の存在は、まさに我が国の裏の歴史における暗部である。徳川幕府や大名は、忍者や隠密、御庭番と呼ばれる諜報員を駆使して情報戦を展開したが、この体質は確実に明治政府に引き継がれたのである。

明治新政府が成立すると、密偵は弾正台という組織下に置かれた。廃藩置県の際、弾正台が廃止されると、正院監部に移された。概ね明治十年(1877)頃までその体制が続いたという。

徳川将軍以来、権力者は西欧のキリスト教国が宣教師を送り込み、それを起点に次第に信者を増やし、やがて武力によってその国を乗っ取るのではないかと恐れていた。その恐怖心は、そのまま明治新政府にも引き継がれた。

密偵という、当人にしてみれば多少後ろめたさのある仕事を迷いなく遂行するには、それを上回る使命感と堅固な信念が必要であろう。大阪の宣教師ウィリアムズのもとに潜入した異宗徒掛諜者伊沢道一の報告書には随所にキリスト教への強烈な警戒感を見ることができる。通商を行う場所七カ所に英仏二人ずつの宣教師がいて、一年に十二人の信徒を勧誘したら、信徒は一年で三百六十四人になり、五年後には九百二十一万二千八百十二人になり、やがて「天祖の赤子」は尽きてしまう。「このままだと、数十年後には必ず全国に広がって、撮り返しがつなかいことになってしまうだろう。」と警鐘を鳴らしている。

伊沢は「大道の仇敵」「人民の楚毒」と言葉を尽くしてキリスト教を罵倒するが、一方で宣教師が布教に身命を擲つ姿を間近に見て「その志は金石のようだ」と感心している。

このようにして諜者が活動を展開している頃、欧米諸国との交渉の中で、新政府はキリスト教禁止を撤回せざるを得なくなる。明治六年(1873)二月、ついに切支丹禁制高札の撤去を布告することになる。活動の意義を喪失した諜者たちは辞職を嘆願した。筆者によれば、ただちにキリト教関係の諜者が廃止されたわけではなく、辞職申請書が提出された八か月後にようやく異宗徒掛諜者は全員が免職となっている。

関信三こと安藤劉太郎も、キリスト教の動静を捜索する密偵の一人であった。安藤劉太郎の実家は三河安休寺で、僧名を「猶龍」という本願寺派の僧侶であった。明治二年(1869)、大阪の洋学校に入り、翌年横浜に移ってアメリカ人宣教師ブラウン、ゴーブル、ヘボン、バラ、イギリス人宣教師のベヤリンのほか、ギダー、ブラインなど、後世にも名が伝わる著名な宣教師のもとに出没した。明治五年(1872)にはバラによって洗礼を受け、以降は晩餐・祈祷など、すべてキリスト教の方式に従って生活を送り、キリスト教宣教師に親炙することになった。

もちろん安藤劉太郎の受洗は監部の指示を得た上での「偽装入信」であったが、彼の真情はどうだったのだろう。

抜群の英語力を買われた安藤劉太郎は、関信三と名を変え、ヨーロッパに渡航した。帰国した関信三は、女子師範学校幼稚園の初代監事(今でいう園長)に就き、欧州で学んだ幼児教育を実践した。「幼稚園記」「幼稚園創立法」などの著書を残し、明治十三年(1880)、三十八歳で死去している。谷中宗善寺の墓は、積み木を重ねたユニークな形をしているが、これは幼児教育の先駆者であるフレーベルの墓を模したものだという。密偵安藤劉太郎と教育者関信三という一見すると真逆の道を生きたことになったが、彼の中では矛盾もせずに一貫した人生だったのかもしれない。

佐賀の乱以降、世情が騒々しくなってくると、政府は各地に盛んに密偵を派遣した。九州に派遣された木下真弘(梅里)は臨時雇諜者として白川県士族隈部楯蔵と宮崎八郎を使っている。宮崎八郎といえば、過激な反政府活動家である。このとき宮崎八郎がどういう活動や報告をしたのか不明であるが、現代風にいえば「二重スパイ」だったのかもしれない。

密偵といえば、個人的に直ぐに連想されるのは西南戦争前夜、川路利良が鹿児島に送り込んだ「西郷刺殺団」のことであるが、本書ではこのことは触れられていない。因みに、川路の建言により警察ができると、その警察が密偵機能を担うことになった。その後も組織や形を変えながら、我が国の密偵機能は脈々と受け継がれた。時代によって、政治結社、衆会、新聞、雑誌、その他出版物、さらには社会運動、社会主義、共産主義運動とそのターゲットを変えつつ、戦後の公安警察へと引き継がれた。

当然、闇の世界の証拠は隠滅される。彼らの足跡を追った筆者の苦労は並大抵ではなかっただろう。これで密偵の全てが明るみに出たというわけではないだろうが、筆者の労苦に敬意を表したい。

 

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