(宗善寺)
宗禅寺(台東区谷中1‐7‐31)の最寄り駅は地下鉄根津となる。コンクリート造りの本堂の西側に広い墓地が広がるが、お目当ての関信三の墓は、本堂の裏にある。
宗善寺
関信三之墓
関信三の墓である。
墓誌によれば、関信三は三河一色(現・西尾市)の安休寺に生まれ、僧猶龍と号した。京都高倉学寮に関係し、文久二年(1862)、東本願寺より長崎への派遣を命じられ、耶蘇教探索に従事した。その後、横浜弾正台諜者として明治五年(1872)まで活躍。墓誌には「謀者」と記載されているが、正しくは「諜者」。即ち密偵、現代風にいえばスパイである。
その頃、安藤劉太郎という変名を用いた。日本基督公会第一回受洗者として横浜海岸教会に名を連ねた(我が国二人目の受洗者という)。その後、現如上人に随行して欧州に留学し明治七年(1874)帰朝。以来、婦人教育者、幼児教育者として活躍した。明治九年(1876)、東京女子師範学校に我が国最初の公立幼稚園を創立して、その初代監事(園長)となり、「幼稚園記」「幼稚園法二十遊嬉」などを翻訳し、初期の幼稚園界に貢献した。明治十二年(1879)十一月四日、没。立方体の上に円球を乗せた墓石は幼稚園の創始者フレーベルと同型のもので、宇宙の完全な姿と人工の秩序との調和と表しているといわれる。
前半生は政府の密偵として活動したが、その中で宣教師と触れ合い、欧州での留学体験とも相まって、幼児教育に目覚めたのであろうか。明治七年(1874)以降の後半生は、前半生とは打って変わって幼児教育に貢献するものであった。まるで別人のような二つの人生を歩んだ人物である。