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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

日暮里 ⅢⅩ

2019年08月24日 | 東京都

(宗善寺)

 宗禅寺(台東区谷中1‐7‐31)の最寄り駅は地下鉄根津となる。コンクリート造りの本堂の西側に広い墓地が広がるが、お目当ての関信三の墓は、本堂の裏にある。

 

宗善寺

 

 

関信三之墓

 

 関信三の墓である。

 墓誌によれば、関信三は三河一色(現・西尾市)の安休寺に生まれ、僧猶龍と号した。京都高倉学寮に関係し、文久二年(1862)、東本願寺より長崎への派遣を命じられ、耶蘇教探索に従事した。その後、横浜弾正台諜者として明治五年(1872)まで活躍。墓誌には「謀者」と記載されているが、正しくは「諜者」。即ち密偵、現代風にいえばスパイである。

その頃、安藤劉太郎という変名を用いた。日本基督公会第一回受洗者として横浜海岸教会に名を連ねた(我が国二人目の受洗者という)。その後、現如上人に随行して欧州に留学し明治七年(1874)帰朝。以来、婦人教育者、幼児教育者として活躍した。明治九年(1876)、東京女子師範学校に我が国最初の公立幼稚園を創立して、その初代監事(園長)となり、「幼稚園記」「幼稚園法二十遊嬉」などを翻訳し、初期の幼稚園界に貢献した。明治十二年(1879)十一月四日、没。立方体の上に円球を乗せた墓石は幼稚園の創始者フレーベルと同型のもので、宇宙の完全な姿と人工の秩序との調和と表しているといわれる。

前半生は政府の密偵として活動したが、その中で宣教師と触れ合い、欧州での留学体験とも相まって、幼児教育に目覚めたのであろうか。明治七年(1874)以降の後半生は、前半生とは打って変わって幼児教育に貢献するものであった。まるで別人のような二つの人生を歩んだ人物である。

 

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国立 Ⅱ

2019年08月24日 | 東京都

(一橋大学)

 

                       

一橋大学

 

 この年になると身体のあちらこちらに悪いところが出てくる。心臓の不整脈は手術によって収まったが、持病である腰椎ヘルニアが再発し、歩くのにも難渋している。一方で腎臓にも異常値が見つかり定期的に通院を余儀なくされている。この日は腎臓内科での診療であった。二時間も待たされた上に、診察時間はわずかに五~六分。いつもながら、病院では時間を浪費する。

 ようやく病院から解放されたので、国立の一橋大学(国立市中2‐1)に渋沢栄一の胸像を見に行くことにした。

 一橋大学の図書館に入るには、入館標に閲覧する図書名を記入しなくてはならない。そのためパソコンで図書を検索する必要がある。少々面倒である。

 渋沢栄一の胸像は、大閲覧室に置かれていた。渋沢栄一が笑っている珍しい胸像である。大閲覧室は学生以外進入禁止であり、さらに撮影も禁止なので、さすがにオッサンがそこでシャッターを切るのは憚られた。場所を確認して撤退することになった。

 前庭にはいくつかの銅像がある。中には一橋大学の前身である東京商法講習所の所長を務めた矢野二郎の銅像がある。

 

 

矢野二郎先生像

 

 矢野二郎は弘化二年(1845)の生まれ。幕臣。英語を学んで外国方訳官となり、文久三年(1863)、遣欧使節団に随行した。帰国後、横浜に翻訳所を開いた。維新後、森有礼の推薦で外務省に入り渡米。一時駐米代理公使となった。明治八年(1875)、帰国すると外務省を辞し、森有礼が開設した商法講習所の初代所長となった。その後、商法講習所を継承した東京商業学校、高等商業学校(現・一橋大学)の校長を明治二十六年(1893)までつとめ、日本の商業教育の基礎を築いた。明治三十七年(1903)貴族院議員に勅選。明治三十九年(1906)、死去。

 

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南大沢

2019年08月24日 | 東京都

(首都大学東京)

 かつて都立大学と呼ばれていた首都大学東京は、平成三年(1991)に南大沢に移転し、平成十七年(2005)に改称した。先日、来年(令和二年(2020))には再び東京都立大学に戻すことが発表された。この改称には賛否両論あるようだが、一つ言えるのは名称の変更には慎重の上にも慎重さが求められるということであろう。他人事ながら再々変更などというみっともないことにならないよう願うばかりである。

 たまたま新聞で、首都大学東京南大沢キャンパスで「水野忠邦の江戸日記」という展示会を開催していることを知った。腰椎ヘルニアの痛みはあったが、「南大沢くらいなら」ということで出かけることにした(八王子市南大沢1‐1)。

 

首都大学東京

 

 首都大学東京には、牧野標本館という建物があり、植物学者牧野富太郎が収集した植物標本の整理と保存にあてている。標本数は実に十六万点にも上り、牧野標本館ではその一部を展示している。標本には、シーボルトが収集した標本の一部で、ロシアのコマロフ植物研究所から寄贈されたものも含まれ、本館入口で展示されている。

 

牧野標本本館別館

 

 「水野忠邦の江戸日記」展は、牧野標本館の向いにある別館で開かれていた。入場無料。

 首都大学東京では、水野家の膨大な文書を保管している。昭和二十七年(1952)、当時の付属図書館長故松平齊光氏(津山松平家)の友人である水野家当主水野忠款(ただまさ)氏より寄贈されたもので、その中から幕府老中として天保の改革を推進した水野忠邦関係の史料を展示するものである。

 忠邦の残した日記等を見ると、この人の極めて几帳面でストイックな人柄が伝わってくる。忠邦が老中に就任された文政十一年(1828)から弘化二年(1845)までの日記である「辛丑日簿」、天保の改革の最中に当たる公用日記である「壬寅日簿」は、いずれも一定の厚さで綴じられ、美しい崩し文字が連なる。得てして手書きの日記というのは、最初は丁寧に書き出すが、次第に字が乱れてしまいがちであるが、忠邦の文字は、まるで印刷したかのように乱れがない。天保の改革では、華美を禁じ、倹約を徹底したため、庶民に嫌われたが、いかにも忠邦らしい施策ともいえる。

 弘化二年(1845)、忠邦が引退すると家督は嫡子忠精(幕末に老中を務めた)が継いだ。同時に水野家は五万石から二万石に減封され、浜松から山形へ移った。このとき浜松では領民が酒を飲み、踊り明かして大喜びしたという。おそらく忠邦は領地では厳格な統制を敷き、領民は息の詰まるような生活を強いられていたのであろう。さらに水野家の転封に際し、御用金、無尽講をそのままにして山形に移ろうとしたため、これに激怒した農民らが打ち毀しを起こした。水野忠邦は、領地で相当怨嗟を集めていたと思われる。

 今回「水野忠邦の江戸日記」展を見て痛切に感じたのは、やはり崩し文字を読めないと史料がさっぱり理解できないということである。一度はギブアップしたが、もう一度勉強してみようと思いました。

 

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