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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「歴史を知る楽しみ」 家近良樹著 ちくまプリマ―新書

2018年12月28日 | 書評
世の中に歴史家という人種は数多存在しているが、その中にあって個人的にもっとも波長が合っている気がしているのが、本書の著者家近良樹先生(大阪経済大学特別招聘教授)である。
第一章では「歴史学者のしごと」と題して、小説と歴史学の違いを説く。「時代小説家の書いたものを全面的に真実だと受けとめている人が多い」と嘆くが、この背景には「「創作」話を、あたかも、この世で実際に起こった出来事であったかのように読者に思わせる、時代小説家の筆力(力量)が大いに関係している」のである。史料的裏付けに基づいて記述するのが歴史家であり、史料にない空白部分を豊かな想像力で補うのが小説家の仕事である。
実在の人物を題材にした小説では、読者は「これが本当にあったこと」だと思うことで、ことさら感動を催すものであり、作家はその作用を利用するために、まるで「本当にあったこと」のように描くのである。
話は少し逸れてしまうが、先日最終回が放映された大河ドラマ「西郷どん」は、ほぼ八割・九割が創作であった。それでも私が最後までこの番組を視聴し続けたのは、出演俳優の熱演に心を打たれたからに他ならない。
脚本において、安政の大獄、寺田屋事件、長州征伐、王政復古のクーデター、戊辰戦争、岩倉使節団、明治六年政変、西南戦争、大久保暗殺という「点」は史実であるが、点と点を結ぶ線はほぼ全てが創作と断言してよい。私は心の中で「そりゃないだろ」と呆れながらも、熱演に引きずられて結局最終回まで視ることになった。それにしても、どれほどの視聴者がこれを創作と思ってみているのだろうか。せめて「これは歴史を題材としたフィクションです」と断りを入れるのが、公共放送としての良心ではないか。
西郷菊次郎の子供時代を演じて一躍人気者となった城桧吏君はインタビューに答えて「歴史って面白いなと思いました」と語っているが、正確にいえば「歴史が面白い」のではなく、「歴史の名を借りた物語」が面白いのであって、これを混同してはいけない。NHKの影響力が大きいだけに、大河ドラマをみてこれが真実だと思いこむ日本人が大量発生することを危惧している。
第二章「なぜ西郷隆盛は人気者なのか」では、筆者は若者の歴史離れを嘆く。「日露戦争のことをまったく知らない学生が現れた」「織田信長が幕末維新期に活躍したと信じている学生」が存在していることもわかり、ショックを受けたと告白している。さらに株式会社ドワンゴの夏野剛氏が「日本人のプログラミング力を上げるうえで、別に日本史なんか教えなくてもいい」といった発言をしたことを取り上げている。筆者は「そのあまりのあっけらかんとした無邪気な発言に、ある種の哀しみ、淋しさを覚え」たと嘆く。
夏野氏の発言がどのような文脈で発せられたのか、本書では詳しく述べられていないが、いずれにせよ、世の中、歴史離れが進み、それが行き過ぎて一部では歴史蔑視の風潮すら生まれているのかもしれない。夏野氏の発言は、氷山の一角であろう。
筆者は「プログラマーにも日本史は必要だ」「過去を知らなければ現在は分からない」「先人の生き方から学べ」と掻き口説くように主張する。筆者の叫びは悲痛ですらある。私などはその国の歴史は民族の背骨のようなものであり、歴史を軽視する民族に将来はないと信じている(なかなかそれを論理的に説明せよといわれると難しいが…)。歴史を学ばなくてはいけないのは何もプログラマーに限ったことではなく、全ての国民にとって必須科目であろう。
筆者によれば、江戸期から明治期にかけて生きた日本のリーダーたちは「名を後世に残すとともに後世の歴史家からどのように自分のとった行動が評価されるかとひどく気にしていて生きた」という。
たとえば、文久二年(1862)の寺田屋騒動で壮絶な斬り合いの結果、落命した薩摩藩士、文久三年(1863)の生野挙兵で散った秋月藩の戸原夘橘や長州藩士、慶応四年(1868)の神戸事件で切腹を命じられた瀧善三郎、堺事件の土佐藩士ら、いずれも鮮烈な印象を後世に残しているが、彼らはいずれも名を惜しみ、潔い最期を演出して、そのとおり死んでいった。自らの美意識に従って死ぬことを非常に意識していた。「時代の空気」といってしまえば身もフタもないが、少しは現代に生きる我々も見習いたいものである。さすれば、意地の汚い詐欺事件だとか、身勝手極まりない殺人事件とか、自己中心的なあおり運転といったみっともない事件も少しは減るであろう。
第三章「「支配者の歴史」から「民衆の歴史」へ」では、一世を風靡したマルクス主義史観について解説する。マルクス主義史観とは、「階級闘争の末に人類の歴史が進歩発展し、最終的には労働者階級が資本家階級に勝利し、社会主義体制が誕生する」というものである。しかし、現実の歴史が物語るように、資本家階級を打倒して社会主義が実現した例はないし、資本主義は今も健在である。さらにいえば、社会主義を国是としている国であっても資本主義的体制をとらないと現代社会で生き残れないのは自明である。
筆者は、「勝者中心の歴史観に違和感がある」「歴史の多様性がなかなか認められない」と、マルクス主義史観を批評する。私も人間(個人)不在の史観には興味も持てないし、納得もできない。しかし、ロシア革命(1917)以来、マルクス主義史観は多くの若者に支持され、あたかも「絶対的真理」となった観があった。筆者はここで佐々木寛司という研究者を紹介する。マルクス主義史観に対する批判を許さないような時代風潮の中にあって、彼は健全な批判精神を発揮したというのである。流れに竿をさす勇気も称賛に価するが、それを許す空気というのも大事だと思う。
第四章「学校では教えてくれない日本史」では、「なぜ各地の戦国大名の墓が高野山にあるのか」「なぜ一揆で鉄砲が使われなかったのか」「なぜペリー来航は特別視されるのか」といった問いを通じて、歴史を勉強する楽しみを説く。
第五章「過去と未来をつなぐ」では歴史離れが進む我が国と比べ、中国も韓国も多くの授業時間を歴史教育に割いている事実を指摘する。先方の教育内容の是非はともかく、日々せっせと反日教育をやっているというのに、あまりに我が国は無防備であろう。
歴史マニアを自認する私でも、日露戦争から後の歴史になると途端に知識がしぼんでしまう。昭和史に至ってはさっぱりスットコドッコイである。本当に「歴史に学ぶ」のであれば、通常の日本史の授業以外に、現代史という授業があっても良いのではないか。
筆者は、司馬作品には「創作」以外にも明らかな事実誤認が多く含まれていると批判する一方で、司馬遼太郎の修辞能力を絶賛する。例にあげたのは「街道をゆく」である。司馬遼太郎はとても無口な人を「樋から、雨上がりのあとポツリポツリと落ちる水滴のような話し方をする人」と表現した。司馬作品を読んでいると、この手の見事な修辞に随所で出会う。これも司馬作品の魅力の一つとなっている。歴史家であれば、単に「寡黙な人」で済ませてしまうところだろう。歴史家にも多少の文学性が必要というのが、筆者の結論である。確かにもう少し読者に面白く読ませる工夫が必要かもしれないが、あまり無用な修辞が目につく歴史書も「信用性」に欠けるかもしれない。
筆者は、歴史を学ぶこと、さらに読書の効用を熱心に説く。これが、家近先生が本書で一番いいたかったことかもしれない。歴史を学ぶと「原因と結果で物事を合理的に考える習慣が身につく」「論理的に自分たちの考え(方針)を相手側に伝え」「雑談力がつく」、「現在を自分が生きている時代の特色がよく理解できるようになる」「先人の生き方を大いに参考にできる」「歴史を学ぶことで「人物」を育てる」という。
読書の効用としては「自分の視点や思考の幅が広がる」とか「人を見る目を養ってくれる」「先人が長いあいだかかって営々と培ってきた知識を借用することで、時間を無駄にしないで済みます」「退屈がまぎれる」「人生を歩むうえでの重要なヒントを得られる」といった点を挙げる。
ほかにもあるかもしれないが、歴史を学ぶこと、本を読むことで得られる効用は、筆者のいうとおりであろう。しかし、そのような効用を得ようとして最初から歴史を学ぼうという人もそう多くはあるまい。私も単純に歴史が楽しいから、興味があるから、知りたいからのめり込んだのであって、それ以上でも以下でもない。その結果、特別な知識や教養が得られたとしてもそれは結果でしかない。そういう意味では、ほかの趣味と大差はない。知れば知るほど面白いのが歴史であり、もっと多くの人に興味を持ってほしいと思う次第である。
読書も同じ。本を読めばそれだけ知識が広がり、人生にもプラスになることは間違いないが、多くの読書家は別に効用ばかりを求めて本を読んでいるわけではなかろう(だったらノウハウ本ばかりが売れることになってしまう)。
ただ一つ言えるのは、同じ時間を過ごすのであれば、テレビ・ゲームなどで無為に浪費するより、読書した方が余程良いということである。人生には限りがあるのだから。
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「彰義隊の上野戦争~明治150年に考える」 彰義隊子孫の会創立記念 市川総合研究所主催シンポジウム

2018年12月28日 | 講演会所感
九月の会津史跡旅行でご一緒したSさんからこのシンポジウムを紹介いただき、前々からこの日を楽しみにしていた。午前中は市川で野球の練習試合があり、珍しく接戦の末勝利を収めた。試合が終わったら市川の駅前でラーメンをかきこんで、急いで会場である東京大学安田講堂に駆け付けたが、結果的にはそれほど急がなくても十分間にあった。


東大安田講堂

 受付で入場料二千円を支払う。受付ではSさんが忙しそうに働いていた。挨拶だけを交わして、直ぐに会場に入った。この手のシンポジウムや講演会で二千円というのは、少々高い印象をぬぐえないが、盛沢山の中身を知れば納得のお値段であった。

まず長唄の実演があり、続いて八人のパネリストによるパネルディスカッションがあり、さらに川柳で彰義隊を供養しているという台東川柳人連盟の活動紹介があり、最後に天心流兵法の演武奉納がありと、やや詰め込み過ぎといって良いほど充実したプログラムであった。
最初の長唄は、彰義隊士関弥太郎が維新後岡安喜平次を襲名し、長唄岡安派を興した。岡安喜平次ゆかりの長唄「楠公(なんこう)」の実演である。演奏は三味線だけでなくお囃子を伴う、賑やかで劇的なもので、邦楽としては極めてエンターテインメント性の高いものということができよう。それでも、リズムの変化が乏しく、和音や変奏もない長唄は、退屈なものである。
幕末外国人が来航した時、日本人は邦楽でもてなしたが、もてなされた外国人はのちに「苦痛だった」と振り返っている。西洋音楽に馴染んだ耳には邦楽は耐えがたいものである。
私はどちらかというと「日本が大好き」な人間であるが、こと音楽に関しては我が国の伝統的音楽は、西洋の音楽に全く叶わないと思う。
パネルディスカッションは、「彰義隊と上野戦争」を知るために、考えられる最高の八人をそろえたのではないかと思わせる顔ぶれであった。その八人とは、浦井正明(寛永寺長臈、台東区教育委員会委員長)、桐野作人(薩摩出身の作家)、小林達夫(映画監督、彰義隊を題材にした映画「合葬」製作)、星亮一(言わずと知れた会津史観を代表する作家)、森まゆみ(作家、「彰義隊遺聞」など)、森田健司(大阪学院大学教授、「明治維新という幻想」「西郷隆盛の幻影」など)、山本栄一郎(山口県在住、大村益次郎研究家)、山本博文(歴史学者)。それぞれ十五分ほどの持ち時間で、彰義隊と上野戦争に対する思いの丈を話されたが、本来軽く一時間くらいは話す内容を持っている人たちがわずか十五分という短時間に制約されてしまうというのは、最初から無理があったかもしれない。
ゴリゴリの「会津史観」の星亮一氏や歴史の見方に偏りのある森田健司氏と、薩摩派の桐野作人氏、大村益次郎研究家の山本栄一郎氏が、ガチンコでパネルディスカッションをすれば、殴り合いの喧嘩になっても不思議はないが、そこはさすがに皆さん大人で、この場であまり極論を吐くような場面はなかった。
桐野氏によれば、激戦となった黒門口では、薩摩藩の猛攻が突破口となったといわれるが、実際には薩軍は相当追い込まれていた。黒門口突破の契機となったのは、意外にも「雁鍋」から彰義隊の砲隊を狙撃した藤堂藩兵だったという。
森田健司氏については、私も氏の著作を読んだことがあるが、あまりに偏向した内容に今後二度と氏の本を読むまいと思ったものである。しかし、この日の話は、氏得意の風刺錦絵に限ったものであり、面白く聞くことができた。当時の錦絵を通じて、彰義隊や当時の動きを庶民がどのようにとらえていたのかを知ることができる。
山本栄一郎氏は、大村益次郎研究の第一人者として知られる。大村益次郎は戦争好きだったとか、西郷隆盛と仲が悪かったとか、いわゆる「俗説」を次々と否定する。大村益次郎といえば、「豆腐好き」で知られるが、「豆腐ばかりでは身がもたない。実は豚鍋も好物だった」という。氏は「幕末の仕事師「村田蔵六」―大村益次郎」を上梓されている。今日の話を聞いて読んでみたいと思ったが、amazonでも見付けられなくて入手が難しい。
ほかにも森まゆみ氏の「彰義隊遺聞」が近々再刊されるとか、小林達夫監督が「合葬」(原作は杉浦日向子の漫画)を映画化したとか、貴重な情報をたくさん得ることができた。会場は六~七割の入りだったが、もっと多くの人に来てもらいたいシンポジウムであった(平成三十年(2018)十二月二日)
コメント (1)
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日暮里 ⅡⅩⅦ

2018年12月28日 | 東京都
(谷中霊園つづき)


従五位勲五等小松済治君之墓

 小松済治は馬島瑞謙の長男として弘化三年(1846)に生まれた。山本覚馬に蘭学を学び、十七歳で長崎に行き、西洋医学を修めた。その後、ドイツに留学して法律を学んだ。明治二年(1869)帰国して紀州候の顧問。明治四年(1871)、東京裁判所二等書記官の時、岩倉使節団に選ばれ渡欧米。大久保利通、伊藤博文に随行して日本に戻った。明治二十六年(1893)、死去。四十七歳。墓碑は山内香渓の撰、中林梧竹の篆額。【乙6号3側】


会津藩馬島瑞謙先生之墓

 馬島瑞謙は文化八年(1811)生まれ。父は馬島瑞延。蘭学を志し、安政六年(1859)、外国奉行水野筑後守が北米合衆国に出航する際、瑞謙もまた藩命で随行するため、江戸に滞在中、にわかに発病し、同年八月、和田倉藩邸にて没。【乙6号3側11番】


近藤幸殖 近藤捨子之墓(近藤織部の墓)

 近藤織部は文化十年(1813)、伊勢亀山の生まれ。諱は幸殖。詩を梁川星巌、国学を鬼島広蔭に学び、佐々木弘綱、井上文雄、藤森弘庵らと交わり、国学者でありながら嘉永三年(1850)、藩の家老職を継いだ。藩政に関わってからは有為の人材養うため抜擢して江戸に送り、万延元年(1860)藩の兵制改革を行い、文久三年(1863)、将軍家茂上洛に当たって三条実美と会い、藩情を述べて報功を誓い、また内意を黒田頑一郎に含め、諸藩志士と結んで他日を期した。朝廷の親兵設置に際して小藩にかかわらず藩士九名を選んで参加させた。これがため幕命により頑一郎とともに国に蟄居させられた。慶応四年(1868)正月、幽閉を解かれ軍事奉行となって藩政の刷新に力を注ぐも、保守派のため再び幽閉された。翌二年(1869)、朝命にてこれを解かれ、同年九月、亀山藩大参事に任じられた。明治四年(1871)、廃藩後閑地についた。明治二十三年(1890)、東京で没。年七十八。


正七位岩田三蔵墓

 岩田三蔵は大蔵官吏。文政五年(1822)生まれ。下総香取郡出身。幕府に出仕し、炮兵指揮官となり、のち御徒目付。慶応二年(1866)、函館奉行小出大和守秀実を正使とする国境協定のための遣露使節に随行。マルセイユ・パリを経てペテルブルグに赴いた。交渉終了後、パリで徳川昭武に会い、マルセイユ経由で慶応三年(1867)五月、帰国。維新後、民部省出仕。印刷事監工審査。明治十一年(1878)印刷局一等技手。明治二十年(1887)没。六十六歳。【乙3号3側】


伊豫 西園寺家累代之墓

 西園寺公成(きんなる)は愛媛県宇和島出身。宇和島藩小姓頭、目付役など歴任。藩主伊達宗城に従い伏見の役に従軍。堺でフランス人を殺害した土佐藩士が切腹した際、検視役をした一人。明治三年(1870)大阪府大参事。のち伊達家家令、第一国立銀行・日本鉄道会社等の取締役を歴任。明治三十七年(1904)没。【乙11号9側】


大橋氏巻之墓

大橋巻子は文政七年(1824)、下野宇都宮の豪商大橋淡雅の長女に生まれた。天保十四年(1843)十八歳のとき、佐藤一斎門下の逸材、訥庵清水順蔵を夫に迎えて大橋家を相続した。尊攘学者の夫と交友志士を助援。文久二年(1862)の坂下門外の変では常陸水戸、下野宇都宮提携志士たちの密会所として自邸を提供し、資金調達と志士隠匿に腐心した。襲撃決行三日前、宇都宮藩士岡田慎吾らの企てた別件が発覚し、訥庵も連座して逮捕された。巻子は素早く証拠書類を焼却し、坂下事件の漏洩を防いだ。奉行所の苛烈な尋問にも屈せず、訥庵の事件首謀者たる嫌疑の立証を不可能とした。著書「夢路日記」は天下に流布し、志士の感動をよんだ。明治二十四年(1891)、年五十八で没。【甲9号17側】


訥庵大橋君之墓

 大橋訥庵は文化十三年(1816)、兵学者清水赤城の四男として江戸に生まれた。下野宇都宮の豪商大橋淡雅の養子となった。名は正順。字は周道、曲洲、通称は順蔵、号は訥庵。幼少時より文武一致の実学を学び、二十歳のとき佐藤一斎に入門。一斎の紹介で大橋淡雅の娘巻子と結婚した。日本橋に「至誠塾」を開き、また宇都宮藩主はじめ諸士に尊攘思想を講じた。安政四年(1857)に著した「闕邪小言」四巻により天下に訥庵の名を知られることになった。文久二年(1862)、老中安藤信睦を襲った事件では、常陸水戸、下野宇都宮市史提携の黒幕となり、事件後、義弟菊地教中ともども逮捕投獄された。出獄したものの数日後、文久二年(1862)七月十二日、死去。年四十八。【甲9号17側】


淡雅大橋知良之墓

 大橋淡雅は寛政元年(1789)の生まれ。初め医者を志したが、十五歳のとき宇都宮の豪商菊地家(佐野屋)の養子となるや、商才を発揮し、文化十一年()正月、江戸日本橋元浜町に借地して商売を始めて、一代にして巨富を成した。営業品目は呉服、木綿、質屋、両替などで、金貸しも行った。渡辺崋山をはじめ当代一流の文人墨客と交遊し、また自らも書筆に長じ、鑑定を能くした。菊地家の養子でありながら、大橋姓を名乗り、その後嗣に「商人は不都合」として大橋訥庵を娘巻子の婿とした。後年の坂下門外の変の遠因はここに端を発している。嘉永六年(1853)、年六十五で没。【甲9号17側】


安井顕比之墓

 安井顕比(あきちか)は、天保元年(1830)の生まれ。加賀藩士。改作奉行、軍艦奉行等を歴任。文久・元治の激動期に加賀勤王党を支援した。明治元年(1868)、上洛すると太政官御用掛に任用された。国家老本多政均が入京すると、長州藩の大村益次郎と引き合わせて、長州藩との連携を画策した。その後、内国事務局権大参事として新潟に赴き、北越戦争では軍務局を兼ねた。明治三年(1870)、金澤兼権大参事。藩知事の前田慶寧の命で利嗣の教育係となった。明治六年(1873)、三条実美に蝦夷地開拓の建議書を出した。その後、官を退き藩の史料編纂に従事した。明治二十六年(1893)、六十四歳で没。【甲新13号39側】

(南泉寺)


花俣家累世之墓
(花俣鉄吉の墓)

 森まゆみ著「彰義隊遺聞」(新潮文庫)によれば、彰義隊士花俣鉄吉の墓らしい。
 花俣鉄吉は、上野戦争から二か月ほど経った慶応四年(1868)七月下旬、天王寺詰組頭の一人であった花俣鉄吉は、根津に潜伏していたが、廓の総門辺りで見つかり、官軍数十名になぶり殺しにされたという。大工に変装していた花俣は、匕首(あいくち)一本で抵抗したが、無残にも斬られてしまった。

(長安寺)


長安寺

 長安寺に明治初期の日本画家狩野芳崖の墓がある(台東区谷中5‐2‐22)。
 狩野芳崖は、文政十一年(1828)長府藩御用絵師狩野晴皐(せいくう)の長男に生まれた。十九歳のとき江戸に出て、狩野勝川院雅信に師事。橋本雅邦とともに勝川院門下の龍虎と称された。明治維新後、西洋画の流入により日本画の人気は凋落し、芳崖も窮乏に陥ったが、岡倉天心や米人フェノロサ等の日本画復興運動に加わり、次第に当時の美術界を代表する画家として認められた。明治十七年(1884)第二回内国絵画共進会で褒状を受けた。狩野派の伝統的な筆法を基礎としながら、室町時代の雪舟、雪村の水墨画にも傾倒、さらには西洋画の陰影法を取り入れるなどして、独自の画風を確立した。代表作に「悲母観音図」「不動明王図」(いずれも重要文化財)がある。明治二十一年(1888)、天心、雅邦らとともに東京美術学校(現・東京藝術大学美術学部)の創設に尽力したが、開校間近の同年十一月、六十一歳で歿した。墓所は、長安寺墓地の中ほどにある。


東光院臥龍芳崖居士墓(狩野芳崖の墓)


狩野芳崖翁碑

 本堂前には狩野芳崖の略歴、功績を刻んだ石碑が建てられている。大正六年(1917)建立。撰文は三島毅。

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