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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

会津若松 東山周辺 Ⅲ

2018年12月07日 | 福島県
(大龍寺)


山本家之墓

 これも大河ドラマ効果だろうが、大龍寺墓地には山本家の墓を示す看板が随所に出ており、迷うことなく行き着くことができる。墓所の題字は新島八重直筆。裏側には「昭和六年九月合葬 山本権八女 京都住 新島八重子建之 八十七歳」とある。
 大龍寺の過去帳によると、文化年間(すなわち八重の高祖父の時代)から山本家は大龍寺を菩提寺としていた。昭和六年(1931)、八重は点在していた山本家の墓を一か所に集め、この墓所を整備した。八重が亡くなったのは、墓所整備の翌年、昭和七年(1932)のことであった。享年八十七。


新島八重歌碑

 たらちねの 御墓(みはか)のあとを とふことも 今日をかきりと なくほととぎす


丹羽蔟(にわやから)能由墓

 無縁墓石群の中に丹羽蔟の墓石がある。
 丹波蔟は百石。代官。兵糧方総督。慶應四年(1868)八月七日、大沼郡野尻村にて自刃。五十四歳。

 吉田家の墓地に七名の連名墓がある。そのうち「勇戦良義居士」という法名が戊辰役で戦死した吉田義助のものであろう。
 吉田義助は預方。慶応四年(1868)八月二十三日、若松大和町にて戦死。


勇戦良義居士
(吉田義助の墓)


忠心院戦山義勝墓(佐藤次郎八の墓)

 佐藤次郎八は、武八父。堀隊。慶應四年(1868)一月五日、淀にて戦死。三十八歳。


永井氏七人之墓

 永井左京、永井スミ、永井ツル、永井英記、永井フヂ、永井ヤエ、永井某(名前不詳)の七名の墓である。
 永井左京は四百石。青竜隊士中三番木本隊小隊頭。慶応四年(1868)八月二十三日、若松本二ノ丁の自宅にて自刃。三十五歳、以下、いずれも左京の家族で同日自宅にて自刃している。
 スミ…左京の妻、三十歳、ツル…左京の母、六十二歳、フヂ…左京の娘、十四歳、英記…二男、十一歳、某…三男、八歳。ヤエ…左京の姉、三十八歳。


鏡清院殿壽室妙觀大姉
妙臺院殿英照鏡湏大姉
清要院室圓妙真大姉
誠光院觀室一露大姉
(沼沢道子 貞子 やや子 すが子の墓)

 沼沢家の女性四名の合葬墓である。
 沼沢道子は沼沢九郎兵衛(千石)の妻。慶応四年(1868)八月二十三日、若松自邸で姑貞子を介錯後、娘二人とともに自刃。五十二歳。
 貞子は小八郎の祖母。西郷氏。八十六歳(八十二歳とも)。
 ゆや子は小八郎の姉。二十七歳。すが子は二十三歳。


沼沢家家臣の墓

 墓石表面は摩耗により文字が読み取れない。葬られているのは、沼沢家家臣内川源吾と鈴木勝之丞の両名である。
 内川源吾(源吉とも)は慶應四年(1868)八月二十三日、若松甲賀町の沼沢家前にて戦死。三十歳。柳津町藤にも墓がある。
 鈴木勝之丞も同じく主家前で戦死。五十二歳。


義○院殿智山良戦居士 ○○院殿義道了居士
(赤埴酉四郎、赤埴定蔵の墓)

 赤埴酉四郎、赤埴定蔵の連名墓である。
赤埴酉四郎は平八の弟。十石三人扶持。大砲士中一番隊小原隊嚮導。慶応四年(1868)八月二十三日、若松城埋門(天寧寺町とも)にて戦死。二十一歳。
 赤埴定蔵は、平八の叔父。遊撃隊相沢隊。慶応四年(1868)九月一日、若松郊外西方(船渡山とも)にて戦死。五十四歳。


源明院義山良忠居士
忠徳院殿義翁祖心居士
心如院源忠智徳居士
(国府辰次郎 篤三郎 源十郎の墓)

 国府(こくふ)辰次郎、篤三郎、源十郎兄弟の墓である。
国府辰次郎は、源十郎の弟。集義隊小隊頭。慶應四年(1868)閏四月二十五日、磐城白河にて戦死。三十七歳。
 篤三郎も源十郎の弟。朱雀士中三番原田隊。慶応四年(1868)八月二十九日、若松町西堀端にて戦死。二十歳。
 源十郎は四百石。白虎士中小隊頭。慶応四年(1868)九月六日、若松城二ノ丸にて戦死。四十二歳。


赤埴平八の墓

 赤埴(あかはに)平八は、二百六十石。遊撃隊三宅隊小隊頭兼力士隊頭。慶應四年(1868)八月十四日、越後赤谷にて戦死。三十四歳。


唐津藩士の墓

 大龍寺には小笠原長時の墓がある。小笠原長時(永正十一年(1514)~天正十一年(1583))は信濃守長棟の子。弓馬および礼式の名家として代々信州林の館に住した。長時はしばしば武田信玄と戦い、破れて上杉謙信を頼り越後に逃れ後将軍足利義輝の弓馬の師範となった。義輝が三好氏らに滅ばされたため会津に逃れ、芦名盛氏に身を寄せていたが逆臣に妻子ともに殺害された。いわゆる小笠原流の祖とされる。
 その長時の墓の前に唐津藩士(小笠原家六万石)六名の墓がある。
 名前が刻まれているのは、水野忠右衛門、高須大次郎、吉倉晚三郎、田邊銕三郎、市川熊雄、吉川七之助。いずれも慶應四年(1868)八月二十一日、会津勝軍山にて戦死。

(浄光寺)


真勇院忠道日義居士(原新五右衛門の墓)

 原新五右衛門は二百石。幼少寄合組小隊頭。慶応四年(1868)八月二十三日、若松甲賀口にて戦死。五十歳。

(宗英寺)


宗英寺

 上島良介は、繁記父。十五石三人扶持。青竜士中一番鈴木隊。慶応四年(1868)五月一日、磐城白河にて戦死。三十六歳。


露照院堅道良固居士(上島良介の墓)

(極楽寺)


極楽寺


宗川家之墓

 宗川家の墓に会津藩の儒者宗川茂弘が葬られている。通称勇之進。十歳で日新館素読所を修了し、十五歳で第一等に進んだ。藩主松平容敬、松平容保の侍講となる。戊辰戦争では徹底抗戦を主張し軍務局に出仕した。敗戦後、小樽、余市の郷校で教鞭をとり、札幌資生館長も務める。明治十年(1877)会津に帰り、郷童を教育した。明治十五年(1882)没。享年八十六。墓前に門人が寄贈した石燈籠が置かれている。

 私たちが宗川家の墓に釘づけになっているうちに竹様が山室家の墓誌で、明治元年(1868)没の二人の殉難者を確認していた。山室家の墓は、墓地の一番奥にある。

 山室鉄三郎は、卯之助の子。別撰組佐川隊。慶応四年(1868)一月五日、鳥羽にて戦死。二十八歳。法名「喚譽得忠居士」
 山室鉄蔵も同じく卯之助の倅。青龍中三番木本隊。右筆上席。慶応四年(1868)九月、会津飯寺にて負傷。十月二十七日、南原にて死亡。三十六歳。


山室家累代墓


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会津若松 東山周辺 Ⅱ

2018年12月07日 | 福島県
(滝の上墓地)
 滝の上墓地は、東山温泉のホテル御宿東鳳の前に広がる古い墓地である。気のせいか佐々木姓の墓が目につくが、その一番奥に西郷家の墓域がある。


西郷祝近墓(西郷永四郎の墓)

 西郷永四郎は、西郷頼母の弟。朱雀士中田中隊。慶応四年(1868)四月十八日、下野小佐越にて負傷。六月一日、若松日新館病院にて死亡。十八歳。

(院内御廟つづき)


貞義院妙心日輝大姉
智光院薫治日勝童子
慶樹院妙榮日久大姉
(杉田やえ 杉田薫治 杉田みわの墓)

 右へ折れると歴代藩主の墓へとつながる石段であるが、そこを左に曲がると、会津武家屋敷の裏側に出る。そこに若干の墓石がある。
 杉田家の墓域には、まとまった数の墓石が並んでいるが、そこに杉田やえ、杉田薫治、杉田みわ、三名の連名墓がある。
 杉田やえは、杉田兵庫(千石)の養母。慶応四年(1868)八月二十五日、若松城内にて負傷。九月二十日、自害。五十七歳。
 杉田薫治は兵庫の倅。明治元年(1868)秋、家族に刺殺された。三歳。
 みわは、兵庫の叔母。明治元年(1868)秋、自刃。五十五歳。

 竹様によれば、この近くに堀半右衛門の墓もあるはずというのだが、いくら探しても見つからなかった。日没によりこの日の活動はここまでとなった。

(天寧寺つづき)
 久しく天寧寺を訪れていなかったが、知らぬ間に「会津士魂碑」の傍らに早乙女貢の墓が建てられていた。
 「会津士魂」は読んでいないが、手元に早乙女貢氏が平成十四年(2002)十月から十一月にかけてNHKの「人間講座」で語った「敗者から見た明治維新」のテキストがある。「薩長土肥勢力による徳川幕府の打倒には統一された理念はなく場当たり的な行動の結果」「明治維新は人口でいうならば、徳川政権を外様大名の雄藩が同盟して転覆し、これにとって代わった、ということ」という主張に、ほぼ早乙女貢氏の史観が集約されているといえよう。典型的な「会津正当論」「薩長極悪論」である。歴史の見方、解釈は人それぞれだと思うが、個人的にはあまり偏った視点には賛同できない。


早乙女貢


近藤勇の墓の近くにある松の切株

 竹様ご夫妻、Sさんにしてみても近藤勇の墓などは「今さら」といった場所かもしれないが、我々の目的は墓そのものではなく、その側にあるはずの松の切株を確認することにあった。
 Sさんによれば、この松は約二十年前に切り落とされたというが、年輪を数えてみると丁度百三十ほどあり、つまり近藤勇の墓が建立された際に植樹されたものと推定されるという。

 二日目も竹様ご夫妻、Sさんとともに滝沢峠から天寧寺、善龍寺、建福寺、大塚山墓地を回った。訪問地は少ないが、それぞれ濃密な場所で、まさに時間の経つのも忘れるくらいの一日であった。


野田家供養塔(野田清次郎の墓)

 建て替えられた真新しい供養塔であるが、裏側に「鳥羽伏見の戦で没す」とのみ記されている。
 野田清次郎の供養塔で、慶応四年(1868)一月、鳥羽伏見で戦死している。


仁進院忠節剣義居士(伊東悌次郎の墓)

 伊東悌次郎は白虎士中二番日向隊。慶応四年(1868)八月二十三日、会津飯盛山にて自刃。十七歳。


伊東俊吾の墓

 墓石の表面はほとんど読み取れないが、伊東俊吾の墓である。
 伊東俊吾も白虎士中二番日向隊。慶応四年(1868)八月二十三日、会津飯盛山にて自刃。十七歳。
 悌次郎、俊吾ともに伊東左太夫の息で、伊東祐順の孫である。


伊東祐順之墓


忠肝仁劔居士(相馬孫一の墓)

 相馬孫市は諸生組頭。慶応四年(1868)四月二十三日、宇都宮(壬生とも)城下にて戦死。二十八歳。


忠肝劔光居士(梁瀬勝三郎の墓)

 梁瀬勝三郎は三百五十石源吾三男。白虎士中二番日向隊。慶応四年(1868)八月二十三日、会津飯盛山にて戦死。十七歳。


勇進院忠山誠劔居士(遠山為善の墓)

 墓石には慶應四年(1868)六月二十三日、磐城白河にて戦死とある。


間瀬利貞(新兵衛)之墓

 間瀬新兵衛は岩五郎の父。元奉行。明治元年(1868)九月十四日、若松城にて戦死。六十七歳。


間瀬利直(岩五郎)拝石

 間瀬岩五郎は三百五十石。奏者番上席。朱雀足軽二番中隊頭。慶応四年(1868)八月二十九日、若松長命寺にて戦死。二十九歳。


上田兼教之墓


誠忠院殿武嶽仁劔居士(上田新八郎の墓)

 上田新八郎は、学太夫兼教の倅。六百石。砲兵頭。慶応四年(1868)八月二十三日、会津沓掛にて戦死。二十歳。


劔向道顯信士(一瀬晴治の墓)

 一瀬晴治は勘三郎従弟。青龍士中三番木本隊。慶應四年(1868)七月二十四日、越後大山(与板とも)にて負傷。八月二十六日、十二所村にて死亡。三十七歳。


木村家之墓(木村常之助の墓)

 木村常之助は、六石二人扶持。青竜隊足軽。明治元年(1868)九月十八日、五十里越にて戦死。四十七歳。


(正法寺)


正法寺


佐原蘇梅翁之墓(佐原盛純の墓)

 佐原盛純の墓である。佐原盛純は旧姓金上。号は蘇梅。天保六年(1835)会津の商家の生まれ。十八歳の時江戸に遊学し、文久三年(1863)、遣欧使節池田長発の侍講となり河津祐邦の従者として渡仏した。この時、「航海日録」を残した。維新後、佐原氏を継ぎ、司法省に出仕。明治八年(1875)、四十歳のとき帰郷して会津中学の教師となった。明治四十一年(1908)死去。七十四歳。


神尾家之墓(神尾武右衛門の墓)

 墓碑によれば、神尾武右衛門は慶應四年(1868)五月一日、白河にて戦死。四十八歳。


荒川家之墓(荒川勝茂の墓)

 荒川勝茂は天保四年(1833)の生まれ。北原釆女家臣。戊辰戦争では、進撃隊席御供番として南会津まで転戦した。明治二年(1869)、高田藩にて謹慎した後、斗南へ移住した。廃藩後に会津へ戻り、教育に尽くした。京都守護職から斗南流刑までを記録した「明治日誌」を著した。星亮一氏はこれを基として「敗者の維新史」(青春出版社)を書いた。


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会津若松 鶴ヶ城周辺 Ⅱ

2018年12月07日 | 福島県
(鶴ヶ城)


鶴ヶ城
知らぬ間に屋根瓦が赤茶色に変わっていた



新島八重像

 新島八重をモデルとした大河ドラマ「八重の桜」が放送されたのは、平成二十五年(2013)のことである。この放送を機に鶴ヶ城三の丸に新島八重の像が建立された。この像も、どちらかというと、本人よりも綾瀬はるかさんに似ている。
 今年の会津祭りの「藩公行列」にも綾瀬はるかさんが登場した。大河ドラマの放送から五年も経つが、今もこうして会津に足を運んでくれるのは地元の人たちにとってとても有り難いことであろう。
 といいながら、会津祭りにも綾瀬はるかにも特段の興味のない私は、観客が鶴ヶ城周辺に集まっている隙に、真龍寺、正法寺、大龍寺、常光寺を回った。


司馬遼太郎文学碑

 司馬遼太郎文学碑も最近建てられた石碑の一つである。三の丸の駐車場の入口にある。
 司馬作品から二つの文章が取り上げられている。いつ読んでも司馬先生の文章は男性的でドラマティックである。

――― 会津藩というのは、封建時代の日本人がつくりあげた藩というもののなかでの最高の傑作のように思える。(「歴史を紀行する」昭和四十三年(1968)より)

――― 容保が、京を戦場に死のう、といったとき、慟哭の声がまず廊下からあがった。この声はまたたくまに満堂に伝播し、みな面を蔽って泣いた。
「君臣、相擁し、声を放って哭けり」
と、この情景を、劇的な表現で会津の古記録は語っている。(「王城の護衛者」昭和四十三年(1968)より)

 鶴ヶ城の北側の本丸茶屋の前に会津戊辰戦争慰霊之碑を発見した。比較的新しいもので(平成十九年(2007)建碑)、以後毎年この慰霊碑の前で犠牲者を弔う「会津戊辰戦争慰霊の集い」が開かれている。


会津戊辰戦争慰霊之碑

(十割そば 香寿庵)
 現在、十割そば「香寿庵」のあった場所に沼沢家があった。沼澤家は中世末期に葦名家を仕えた名門であったが、浪々の身となっているところ、最上を襲封した保科正之に仕官し、寛永二十年(1643)の会津移封により五十年ぶりに会津に戻った。中世以来の主従の絆は幕末まで続き、蝦夷地出陣、江戸湾警備、京都守護職随伴、さらに戊辰戦争では幼君に随従して六十里越え守備、城下戦にも従軍した。この屋敷では、四人の婦女子総べてが自刃し、当主沼澤七郎のみが生き残った。沼澤七郎は、元新選組の藤田五郎(斎藤一)の三男龍雄を養子に迎え、東京を永住の地とした。


沼澤邸跡

(豊岡墓地)
 鶴ヶ城南口の観光駐車場の西側に古い墓地が広がる。ここに戊辰戦争殉難者星勇八、星保記の墓がある。


一ノ堰村ニテ戦死 星保記 行年三十五歳
越後口ニテ戦死 星勇八 行年十六歳

 星保記は星勝治の弟、寄合。結義隊井上隊。慶応四年(1868)九月十七日、戦死。
 星勇八は、勝治二男。白虎寄合二番太田隊。慶応四年(1868)八月十日、戦死。


高畑家之墓

 墓石の側面に事績がびっしりと刻まれている。高畑利喜之輔は西南戦争に従軍し、大山巌を護衛しながら鹿児島から宮崎を転戦したらしい。明治二十一年(1888)、病没。三十九歳。

(大町通り)


大町通り

 明治に入ると、時の県令三島通庸は、大町通り(国道118号線)を活かした道路整備を進め、米沢、今市、新潟へと続く「三方道路」を開削し、会津の街作りの起点となった。

 二日目は会津祭りのクライマックスである藩公行列があるため竹様ご夫妻と合流するのは朝十一時前後となった。それまで、ホテルで借りた自転車にまたがり市内の史跡を回った。実成寺、飯沼貞吉生家跡、真龍寺、正法寺、大龍寺、浄光寺を回ったところで竹様から電話が入った。

(飯沼貞吉生家跡)


白虎隊飯沼貞吉生家跡

 大町通りを南に下がると通りに面して飯沼貞吉生家跡の石碑がある。平成二十九年(2017)九月に建てられた、新しい石碑である。
 飯沼貞吉は、嘉永七年(1854)三月二十五日、会津藩主飯沼猪兵衛一正(禄四百五十石)の二男として誕生した。日新館では二経塾一番組に属した。父方の叔母に会津藩家老西郷頼母妻千重子、母方の従兄妹に山川浩、山川健次郎、大山捨松がいる。

(会津工業高校)


会津工業高校前
 町に歴史あり ~松江春次~


松江春次記念館

 会津工業高校の前に観光協会の建てた松江春次を紹介する説明板がある。
 松江春次は明治九年(1876)、会津藩士松江久平の次男に生まれた。苦学の末、東京高等工業学校(現・東京工業大学)を出て、大日本製糖に入社。その後、米国に留学し、帰国後日本で初めて角砂糖を製造した。第一次大戦後、南洋群島が日本の委任統治となると、国策会社南洋興発を設立してのちに社長となり、サイパン島での製糖事業に大変な苦労のうえに成功を収め、「南洋開発の父」と呼ばれた。昭和十四年(1939)、三十三万円を会津工業学校(現・会津工業高校)に寄付し、これによって機械科などが増設された。春次の功績に感謝し、工業高校の中庭には胸像が、正門近くには記念館が建てられている。先の大戦で南洋興発は壊滅的し、春次は全てを失った。昭和二十九年(1954)没。


松江春次翁(松江春次記念館)

(会津風雅堂)
 会津風雅堂は、座席数千七百五十八席を有する大ホールや会議室などを備えた多目的ホールである。
 最近になって風雅堂の前に松江豊寿の顕彰碑が建立された。顕彰文は作家中村彰彦氏の手による。


会津風雅堂


松江豊寿顕彰碑

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