(旧共栄倉庫)
大蔵喜八郎別邸跡
旧共栄倉庫の一角は、田沼意次に取り入り、養女を大奥に入れて権勢をほしいままにした中野碩翁の別邸跡で、隅田川に面して贅をこらしていた(墨田区堤通1‐1‐2)。維新後、政商大倉喜八郎が受け継ぎ別邸とした。邸内の川に面して建てられていた蔵春閣は、船橋のららぽーとに移築されたそうである(現在は解体され見ることはできない)。
なお、共栄倉庫は三和倉庫と合併してエスケーロジ株式会社と名を変え、本社を移転してしまったらしく、堤通のこの場所は、閉鎖されている。
(木母寺)
木母寺の本堂はコンクリート製に建て替えられ歴史を感じることはできないが、境内には興味深い石碑がある(墨田区堤通2‐16‐1)。

木母寺
三遊塚
三遊塚は、三遊亭円朝が初代円生の追福のために明治二十二年(1889)に建てた碑。題字は山岡鉄舟、銘文は高橋泥舟による。
題墨田堤桜花詩碑
亀田鵬斎の作ならびに書で「長堤十里 白にして痕なし 訝しむ澄江の月と共に渾(まじ)るに似たるを。飛蝶還り迷う三月の雪。香風吹き渡る水晶の村」と記される。文政十二年(1829)建立。
天下之糸平の碑
高さ五メートル、幅三メートルという都内一の巨碑。明治の初め貿易で成功を収めた田中平八(通称天下の糸平)の石碑である。親交のあった伊藤博文の書。

大蔵喜八郎別邸跡
旧共栄倉庫の一角は、田沼意次に取り入り、養女を大奥に入れて権勢をほしいままにした中野碩翁の別邸跡で、隅田川に面して贅をこらしていた(墨田区堤通1‐1‐2)。維新後、政商大倉喜八郎が受け継ぎ別邸とした。邸内の川に面して建てられていた蔵春閣は、船橋のららぽーとに移築されたそうである(現在は解体され見ることはできない)。
なお、共栄倉庫は三和倉庫と合併してエスケーロジ株式会社と名を変え、本社を移転してしまったらしく、堤通のこの場所は、閉鎖されている。
(木母寺)
木母寺の本堂はコンクリート製に建て替えられ歴史を感じることはできないが、境内には興味深い石碑がある(墨田区堤通2‐16‐1)。

木母寺

三遊塚
三遊塚は、三遊亭円朝が初代円生の追福のために明治二十二年(1889)に建てた碑。題字は山岡鉄舟、銘文は高橋泥舟による。

題墨田堤桜花詩碑
亀田鵬斎の作ならびに書で「長堤十里 白にして痕なし 訝しむ澄江の月と共に渾(まじ)るに似たるを。飛蝶還り迷う三月の雪。香風吹き渡る水晶の村」と記される。文政十二年(1829)建立。

天下之糸平の碑
高さ五メートル、幅三メートルという都内一の巨碑。明治の初め貿易で成功を収めた田中平八(通称天下の糸平)の石碑である。親交のあった伊藤博文の書。