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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

墨田 Ⅴ

2016年12月02日 | 東京都
(旧共栄倉庫)


大蔵喜八郎別邸跡

 旧共栄倉庫の一角は、田沼意次に取り入り、養女を大奥に入れて権勢をほしいままにした中野碩翁の別邸跡で、隅田川に面して贅をこらしていた(墨田区堤通1‐1‐2)。維新後、政商大倉喜八郎が受け継ぎ別邸とした。邸内の川に面して建てられていた蔵春閣は、船橋のららぽーとに移築されたそうである(現在は解体され見ることはできない)。
 なお、共栄倉庫は三和倉庫と合併してエスケーロジ株式会社と名を変え、本社を移転してしまったらしく、堤通のこの場所は、閉鎖されている。

(木母寺)
 木母寺の本堂はコンクリート製に建て替えられ歴史を感じることはできないが、境内には興味深い石碑がある(墨田区堤通2‐16‐1)。


木母寺


三遊塚

 三遊塚は、三遊亭円朝が初代円生の追福のために明治二十二年(1889)に建てた碑。題字は山岡鉄舟、銘文は高橋泥舟による。


題墨田堤桜花詩碑

 亀田鵬斎の作ならびに書で「長堤十里 白にして痕なし 訝しむ澄江の月と共に渾(まじ)るに似たるを。飛蝶還り迷う三月の雪。香風吹き渡る水晶の村」と記される。文政十二年(1829)建立。


天下之糸平の碑

 高さ五メートル、幅三メートルという都内一の巨碑。明治の初め貿易で成功を収めた田中平八(通称天下の糸平)の石碑である。親交のあった伊藤博文の書。

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浅草 Ⅵ

2016年12月02日 | 東京都
(本龍寺)


本龍寺

 今、「弾左衛門とその時代」(塩見鮮一郎著 河出文庫)を読み始めている。本書によれば、本龍寺は浅草弾左衛門の菩提寺で(台東区今戸1‐6‐18)、かつては相当な墓域を占めていたようだが、今は墓地の片隅に「矢野氏墓」が二つ並べられているのみである。司馬遼太郎の「胡蝶の夢」にも描かれているように、弾左衛門(直樹)は、松本良順を通じて被差別民の「身分引上」に努力した。


矢野氏墓(弾左衛門の墓)

 弾左衛門が本拠地とした浅草新町(別に「囲内」とも)は、山谷堀(さんやぼり)の北側に当たる。現在、山谷堀は埋め立てられ公園となっており、今戸橋の欄干だけが残されている。この辺りは今も二十余りの寺が集まる寺町となっているが、新町はその寺に囲まれていた。弾左衛門の屋敷跡地は、現在の浅草高校の一部という。


いまどはし 今戸橋欄干跡

(待乳山承天山)
 待乳山承天山(まつちやましょうてんざん)は、浅草寺の支院で正しくは本龍院という。その創建は、縁起によれば推古天皇九年(601)夏、旱魃のため人々が苦しみ喘いでいたとき、十一面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため「聖天さま」として祀ったといわれる(台東区浅草7‐4‐1)。
 境内に池波正太郎生誕の地モニュメントがある。大正十二年(1923)、池波正太郎が生まれたのは旧住所表記で浅草区聖天町61番地(現在住所でいえば台東区浅草7‐3付近)で、待乳山承天山のすぐ近くである。生家は関東大震災で焼失してしまったが、少年~青年期を台東区で過ごした。「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人・藤枝梅安」などの人気シリーズを始め、「人斬り半次郎」「幕末遊撃隊」「西郷隆盛」など幕末に題材をとった時代小説も多い。


待乳山承天山
本龍院


池波正太郎生誕の地

(西光寺)


西光寺


池波正太郎の墓

 西光寺に池波正太郎の墓を訪ねた(台東区西浅草1‐6‐2)。インタホーンを押すと寺の夫人が現れ、場所を教えていただいた。建物の裏が狭い墓地となっており、そこに池波家の墓がある。

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根津 Ⅱ

2016年12月02日 | 東京都
(玉林寺)
 玉林寺には横綱千代の富士像がある(台東区谷中1‐7‐15)。私の目的は、近藤重蔵や間宮林蔵らと北方探検に従事した秦檍丸(はたあわきまろ)こと村上島之允の墓である。


玉林寺


千代の富士像

 墓地に入ると、直ぐ右手に幕臣河津祐邦の墓がある。思わぬ収穫であった。本堂前には河津祐邦の娘婿河津祐之の顕彰碑も建てられている。篆額は西園寺公望。


河津祐邦墓

 河津祐邦は、安政元年(1854)徒目付をもって堀利熙に従って蝦夷地を巡回し、同年七月、箱館奉行支配調役に任じられ、ついで組頭に進んだ。安政三年(1856)、東蝦夷地を巡回して版図を松前藩より受領した。箱館奉行を援け蝦夷地弊政の改革、七飯薬園の開設、箱館近郷の開拓、五稜郭および弁天砲台の築造、北蝦夷地の開拓などは河津祐邦の功績に負うところが大きい。文久二年(1862)、江戸に帰って新徴組組頭となり、翌三年(1863)九月、外国奉行に任じられた。八一八政変が起こると、幕府は攘夷の体面を保つため横浜鎖港しようとする問題が生じた。同年十月、池田長発とともに仏公使と会見してこの問題の衝に立ち、さらに十一月欧米差遣を命じられ、副使として十二月出発した。パリにて談判したが、使命達成の不可能を知ると同時に開国の必要を痛感し、米国へ行く予定を切り上げて帰国した。元治元年(1864)七月、横浜に入り、正使池田長発とともに幕府に建議した。しかし、帰って忌諱に触れ、免職・小普請入り・逼塞を命じられた。その後、赦されて歩兵頭並となり、慶応二年(1866)八月、関東郡代、翌三年(1867)正月、勘定奉行並となり、八月には長崎奉行となった。さらに慶応四年(1868)正月、外国副総裁、二月、外国事務総裁、若年寄を歴任し、幕府瓦解期の整理、および徳川家護持のことに当たったが、同年三月、没した。


秦檍丸君墓(村上島之允の墓)

 村上島之允(1760~1808)の墓である。玉林寺墓地への階段を上って、そのまま直進して左手に墓がある。

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