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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

清澄白河 Ⅱ

2014年08月03日 | 東京都
(霊巌寺)

 松田東吉郎は、福井藩士。天保八年(1837)、福井藩士松田理兵衛和良の子に生まれた。幼時より学を好み、詩文を好くし、浅見絅斎の「靖献遺言」を愛誦し、文天祥に私淑していた。安政元年、品川湾の警備に加わり、その後、藩校明道館の助教となった。橋本左内と親交があり、日下部伊三治、久坂玄瑞、桜任蔵らと皇威回復のため奔走した。安政五年(1858)七月、藩主松平春嶽が隠居謹慎を命じられると、憤慨措くところを知らず、井伊直弼に上書しようとして果たせなかった。安政六年(1859)六月、江戸霊岸島藩邸にて屠腹して死んだ。年二十三。


旧福井藩士 贈正五位松田東吉郎之墓

 森陳明、松田東吉郎らの墓の側に、高田藩主榊原家や膳所藩主本多家、桑名藩松平家の墓が並んでいる。高田藩主榊原政敬も、ここに葬られているらしい。


舊高田藩主 榊原家墓

 榊原政敬は、文久元年(1861)家督を相続した。文久三年(1863)および元治元年(1864)の二回にわたって、将軍家茂の上洛に従って入京した。慶応二年(1866)には、長州再征の先鋒として参加した。戊辰戦争では勤王と決し、慶応四年(1868)四月には幕府歩兵隊(隊長古屋作左衛門)を討ち、継いで下越、会津にも兵を送った。戦後、功により賞典禄永世一万石を賜った。明治二年(1869)には高田藩知事となったが、明治四年(1871)、廃藩により免ぜられた。昭和二年(1927)、八十三歳にて没。

(浄心寺)


浄心寺

 黒川盛泰の墓を探して、浄心寺墓地を歩きまわった。しかし、黒川盛泰のものと確信できる墓は特定できなかった。墓地の中で唯一「黒川家之墓」と記された墓には、「越前堀 黒川家先祖代々菩提」と書かれているのみで、盛泰との関係は分からず仕舞いである。
 黒川盛泰は幕臣。西丸書院番士から小納戸に転じ、嘉永六年(1853)使番に進み、さらに西丸目付、目付に転じると、外国掛を兼ねた。安政六年(1859)には、外国奉行による横浜開港のための実地調査に参加した。ついで箱館に派遣され、万延元年(1860)閏三月には大阪、兵庫、堺海岸見分のため上阪し、同年十二月には日普修好通商条約調印に列席した。文久元年(1861)、五月、南町奉行に進み、このとき大橋訥庵逮捕を指揮した。また政治改革用掛などを命じられ、小姓組番頭に任じられたが、井伊大老追罰の一環として職を免じられた。しかし、元治元年(1864)七月、講武所奉行並として復職し、以後歩兵奉行、大目付と重職を歴任した。慶応三年(1867)八月、病気を理由に依願免職の末、隠居した。ところが、慶応四年(1868)正月、再度南町奉行に任命された。没年不明。

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市ヶ谷 Ⅱ

2014年08月03日 | 東京都
(長泰寺)


長泰寺

 市ヶ谷駅から左内坂を昇ると、その途中に長泰寺がある。墓地に、森田清行と松岡萬という二人の幕臣の墓がある。


森田清行之墓

 森田清行は、通称岡太郎、雅号を桂園と称した。天保九年(1838)、学問教授方出役となり、その後、学問所勤番、小普請方を経て、嘉永四年、出羽国代官、さらに甲斐国石和代官、市川代官などを務めた。万延元年(1860)、日米通商修好条約批准書交換のため渡米する新見正興一行に加わった。文久元年(1861)、年五十で没。


孤松院安息養氣不隣居士(松岡萬の墓)

 松岡萬の墓は谷中全生庵にもあるが、長泰寺は松岡家の菩提寺であり、こちらの墓が本墓であろう。
 松岡萬は講武所で中村敬宇に学び、山岡鉄舟らとも親交を持った。徳川家の駿河移封に従い、現地で民政に当たった。安倍川の架橋計画や大池開拓などに尽くした。明治二十四年(1891)、五十四歳にて死去。

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早稲田 Ⅳ

2014年08月03日 | 東京都
(済松寺)
 梅雨に入って連日の雨であった。この日の昼間は、少し雨が止むという予報だったので、都内(早稲田、飯田橋、四ツ谷、清澄白河)を歩くことにした。
 最初の訪問地は、済松寺である。門を入ると、自然林が拡がり、その奥に墓地がある。墓地に入ってすぐ左手に山口菅山の墓がある。


済松寺


菅山山口貞一郎

 山口菅山は、若狭小浜藩の儒者。祖父春水は若林強斎の門に入り、小野鶴山を招いて藩学に崎門学を導入したことで知られる。菅山は、父風簷を経て、その学統を継いだ。菅山は、幕府が皇室を粗略に扱うことを憤り、攘夷論を唱えた。門下には梅田雲浜、薩摩藩士有馬新七ら、のちに尊王活動の原動力となる志士を育成した。安政元年(1854)、八十三歳で没。墓の表面には、通称である貞一郎、側面には戒名「菅山休翁居士」が刻まれる。

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