(霊巌寺)
松田東吉郎は、福井藩士。天保八年(1837)、福井藩士松田理兵衛和良の子に生まれた。幼時より学を好み、詩文を好くし、浅見絅斎の「靖献遺言」を愛誦し、文天祥に私淑していた。安政元年、品川湾の警備に加わり、その後、藩校明道館の助教となった。橋本左内と親交があり、日下部伊三治、久坂玄瑞、桜任蔵らと皇威回復のため奔走した。安政五年(1858)七月、藩主松平春嶽が隠居謹慎を命じられると、憤慨措くところを知らず、井伊直弼に上書しようとして果たせなかった。安政六年(1859)六月、江戸霊岸島藩邸にて屠腹して死んだ。年二十三。
旧福井藩士 贈正五位松田東吉郎之墓
森陳明、松田東吉郎らの墓の側に、高田藩主榊原家や膳所藩主本多家、桑名藩松平家の墓が並んでいる。高田藩主榊原政敬も、ここに葬られているらしい。
舊高田藩主 榊原家墓
榊原政敬は、文久元年(1861)家督を相続した。文久三年(1863)および元治元年(1864)の二回にわたって、将軍家茂の上洛に従って入京した。慶応二年(1866)には、長州再征の先鋒として参加した。戊辰戦争では勤王と決し、慶応四年(1868)四月には幕府歩兵隊(隊長古屋作左衛門)を討ち、継いで下越、会津にも兵を送った。戦後、功により賞典禄永世一万石を賜った。明治二年(1869)には高田藩知事となったが、明治四年(1871)、廃藩により免ぜられた。昭和二年(1927)、八十三歳にて没。
(浄心寺)
浄心寺
黒川盛泰の墓を探して、浄心寺墓地を歩きまわった。しかし、黒川盛泰のものと確信できる墓は特定できなかった。墓地の中で唯一「黒川家之墓」と記された墓には、「越前堀 黒川家先祖代々菩提」と書かれているのみで、盛泰との関係は分からず仕舞いである。
黒川盛泰は幕臣。西丸書院番士から小納戸に転じ、嘉永六年(1853)使番に進み、さらに西丸目付、目付に転じると、外国掛を兼ねた。安政六年(1859)には、外国奉行による横浜開港のための実地調査に参加した。ついで箱館に派遣され、万延元年(1860)閏三月には大阪、兵庫、堺海岸見分のため上阪し、同年十二月には日普修好通商条約調印に列席した。文久元年(1861)、五月、南町奉行に進み、このとき大橋訥庵逮捕を指揮した。また政治改革用掛などを命じられ、小姓組番頭に任じられたが、井伊大老追罰の一環として職を免じられた。しかし、元治元年(1864)七月、講武所奉行並として復職し、以後歩兵奉行、大目付と重職を歴任した。慶応三年(1867)八月、病気を理由に依願免職の末、隠居した。ところが、慶応四年(1868)正月、再度南町奉行に任命された。没年不明。
松田東吉郎は、福井藩士。天保八年(1837)、福井藩士松田理兵衛和良の子に生まれた。幼時より学を好み、詩文を好くし、浅見絅斎の「靖献遺言」を愛誦し、文天祥に私淑していた。安政元年、品川湾の警備に加わり、その後、藩校明道館の助教となった。橋本左内と親交があり、日下部伊三治、久坂玄瑞、桜任蔵らと皇威回復のため奔走した。安政五年(1858)七月、藩主松平春嶽が隠居謹慎を命じられると、憤慨措くところを知らず、井伊直弼に上書しようとして果たせなかった。安政六年(1859)六月、江戸霊岸島藩邸にて屠腹して死んだ。年二十三。

旧福井藩士 贈正五位松田東吉郎之墓
森陳明、松田東吉郎らの墓の側に、高田藩主榊原家や膳所藩主本多家、桑名藩松平家の墓が並んでいる。高田藩主榊原政敬も、ここに葬られているらしい。

舊高田藩主 榊原家墓
榊原政敬は、文久元年(1861)家督を相続した。文久三年(1863)および元治元年(1864)の二回にわたって、将軍家茂の上洛に従って入京した。慶応二年(1866)には、長州再征の先鋒として参加した。戊辰戦争では勤王と決し、慶応四年(1868)四月には幕府歩兵隊(隊長古屋作左衛門)を討ち、継いで下越、会津にも兵を送った。戦後、功により賞典禄永世一万石を賜った。明治二年(1869)には高田藩知事となったが、明治四年(1871)、廃藩により免ぜられた。昭和二年(1927)、八十三歳にて没。
(浄心寺)

浄心寺
黒川盛泰の墓を探して、浄心寺墓地を歩きまわった。しかし、黒川盛泰のものと確信できる墓は特定できなかった。墓地の中で唯一「黒川家之墓」と記された墓には、「越前堀 黒川家先祖代々菩提」と書かれているのみで、盛泰との関係は分からず仕舞いである。
黒川盛泰は幕臣。西丸書院番士から小納戸に転じ、嘉永六年(1853)使番に進み、さらに西丸目付、目付に転じると、外国掛を兼ねた。安政六年(1859)には、外国奉行による横浜開港のための実地調査に参加した。ついで箱館に派遣され、万延元年(1860)閏三月には大阪、兵庫、堺海岸見分のため上阪し、同年十二月には日普修好通商条約調印に列席した。文久元年(1861)、五月、南町奉行に進み、このとき大橋訥庵逮捕を指揮した。また政治改革用掛などを命じられ、小姓組番頭に任じられたが、井伊大老追罰の一環として職を免じられた。しかし、元治元年(1864)七月、講武所奉行並として復職し、以後歩兵奉行、大目付と重職を歴任した。慶応三年(1867)八月、病気を理由に依願免職の末、隠居した。ところが、慶応四年(1868)正月、再度南町奉行に任命された。没年不明。