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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

世田谷 Ⅳ

2014年01月01日 | 東京都
(松陰神社)


吉田松陰先生像

 松陰神社で「幕末維新祭り」が開催され、一坂太郎氏の講演会が開かれることがHPで告知されていた。前日は台風により中止となってしまったので、講演は一日だけとなった。この日の演題は「奇兵隊あれこれ」であった。
 お祭りだから当然であるが、駅から松陰神社に向かう商店街は凄い人混みで、かき分けるようにして何とか会場に行き着いた。普段は閑散としている松陰神社の境内も、この日は異常に混みあっていた。社殿に参拝する人で長い行列ができていた。会場は用意された三百席ほどの椅子が満席で、立ち見も出るほどの盛況であった。私は講演会の三十分以上前に会場に行き着き、辛うじて座席を確保することができた。
一坂氏の語る奇兵隊のこぼれ話は、いずれも興味深いものばかりで、時の過ぎるのも忘れるくらいであった。一坂氏によれば「新選組がこれほどに人気が高いのは、個々の隊士のエピソードなどが世に紹介されるようになったから。奇兵隊にしても興味深いエピソードが発掘されれば、人気は高まるはず」という。一坂氏ならではの、知られざる奇兵隊士のエピソードを色々とご紹介いただいた。たとえば時山直八、三浦五楼、堀仙太郎、河上弥市ら。時山直八が、岩村精一郎が女中に給仕をさせながら呑気に食事をしているのを見て、怒りの余り食膳を蹴り上げたという話を紹介されていたが、私は食卓を蹴っ飛ばしたのはてっきり山縣有朋だと思っておりました。ま、どっちでも良いですが…。
 帰路、松陰神社で見慣れぬ松陰像に遭遇した。たぶん最近新しく建てられたものだろう。

コメント (2)
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武蔵小山

2014年01月01日 | 東京都
(京極稲荷神社)


京極稲荷神社

 武蔵小山の住宅街の中にある京極稲荷神社(品川区小山2‐15‐4)は、丸亀藩京極家の下屋敷の内社である。丸亀藩では下屋敷を二か所保有しており、こちらは戸越屋敷、もう一つは白金屋敷(現・港区)と呼び分けていた。この屋敷から野菜や薪を上屋敷に供給していたことから、地元住民と京極家とは結び付きが強かったといわれており、明治初年に屋敷が京極家から離れた後も、地元有志により稲荷神社が守られている。


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戸越公園

2014年01月01日 | 東京都
(戸越公園)
 戸越公園(品川区豊町2‐1‐30)はかつて肥後熊本藩の下屋敷であった。その後、松平雲州家、松平壱岐守家に引き継がれ、維新後は久松(伊予松山藩)家などの手を経て三井家の所有となった。昭和に入って東京市に寄贈され公園として整備された。公園の東門には薬医門が再建されている。


戸越公園


薬医門


(国文学研究資料館)
 戸越公園に隣接する国文学研究資料館(品川区豊町1‐16‐10)の南側に広い公園が広がる。池などは、戸越公園と同様、熊本藩の下屋敷の遺構と考えられる。


国文学研究資料館


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井土ヶ谷

2014年01月01日 | 神奈川県
(井土ヶ谷事件の地)


井土ヶ谷事件の地碑

 井土ヶ谷事件は、幕末の横浜近郊で発生した外国人殺傷事件である。同じように生麦で起きたイギリス商人殺傷事件は夙に有名だが、井土ヶ谷事件の方はほぼ無名の事件である。
 時は文久三年(1863)九月二日の昼頃のことである。フランス人士官カミュが浪人体の者に殺害された。神奈川奉行は徹底的に下手人を探したが、遂に探し出すことはできなかった。横浜在留の居住外人は幕府を非難し、碇泊の外国軍艦は乗組員の一部を上陸させ、警戒態勢を敷いた。幕府は、フランス公使ベルクールの示唆によって池田筑後守を謝罪使に任命し、フランスに派遣した。使節は謝罪の上、遺族に扶助料を支払った。正確な事件跡地は、庚申塔の立つ場所から東南に約一町(百メートル)ほど東南に離れた場所らしいが、その場所には事件を示すものは何もない。


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鴨居

2014年01月01日 | 神奈川県
謹賀新年

(林光寺)


林光寺

 鴨居の林光寺は箱館戦争後、桑名藩の松平定敬が宿泊した寺である。定敬は戦争終結の直前に箱館を脱出し、アメリカ飛脚船コステリーカに乗船して明治二年(1869)五月十八日、横浜に入港し、そのまま林光寺に入った。同月二十日の昼過ぎに尾張藩の護衛が到着し、定敬は翌二十一日暁に市ヶ谷の尾張藩邸に入った。これにより定敬の身柄が新政府の手に収まり、桑名藩としては宥免を得るための条件が整った(「朝敵」から見た戊辰戦争」(水谷憲二著 洋泉社新書)。


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