(宝泰寺)
宝泰寺
静岡駅からほど近い繁華街の中に宝泰寺がある。墓地に入ると、すぐ左手に古い墓石が集められている。
壮士之墓
壮士之墓には、美賀保丸の遭難者を弔うために建立されたものである。美賀保丸は、幕府艦隊に属し、榎本武揚が品川を脱して箱館を目指した折、暴風雨に遭遇して座礁沈没。乗組員のうち十三人が水死した。
柳斎戸家先生墓(右)
従七位戸塚積斎先生之墓
戸塚柳斎は、幕末の儒医。戸塚静海は実弟である。詩人としても名を成した。隣の戸塚積斎は、柳斎の養子で、海軍医となった。
(久能山東照宮)

久能山東照宮拝殿
静岡市駿河区と清水区の境界辺りに久能山がある。久能山は標高二百十六メートル。山という割には大きな隆起とはいえないが、実際に千百五十九段の急峻な階段を昇り切ると息が上がる。
久能山東照宮は、家康の遺言に従って遺体がこの地に葬られ、秀忠によって東照宮が造営された。
明治後、松平健雄(容保の次男)が久能山東照宮の宮司を務めたとき、外国からイチゴ苗を入手し、それが今日の「石垣イチゴ」の起源となったという。
(宝台院別院)
久能山麓の宝台院別院は、かつて照久寺と呼ばれる榊原氏(徳川四天王の一人、榊原康政の兄、清政の家系)ゆかりの寺院であった。今も墓地の片隅に榊原氏の墓地がある。
榊原家墓地の中に「戊辰戦争旧幕府歩兵隊戦没者慰霊碑」と説明の加えられた墓石がある。横長の長方形の墓石自体は、文字がほとんど読み取れない。
宝台院別院

戊辰戦争旧幕府歩兵隊戦没者慰霊碑
(臨済寺)
臨済寺山門の「大龍山」の扁額は、徳川慶喜の筆である。

大龍山
永峰彌吉墓
永峰(旧姓高橋)彌吉は幕臣出身で、箱館の榎本政権では、榎本対馬、川村録四郎のもとで会計奉行頭取を務めた。維新後は宮崎県知事、佐賀県知事などを歴任した。
東軍招魂之碑
山門をくぐって右手に東軍招魂之碑が建てられている。建立は明治十八年(1885)。

宝泰寺
静岡駅からほど近い繁華街の中に宝泰寺がある。墓地に入ると、すぐ左手に古い墓石が集められている。

壮士之墓
壮士之墓には、美賀保丸の遭難者を弔うために建立されたものである。美賀保丸は、幕府艦隊に属し、榎本武揚が品川を脱して箱館を目指した折、暴風雨に遭遇して座礁沈没。乗組員のうち十三人が水死した。

柳斎戸家先生墓(右)
従七位戸塚積斎先生之墓
戸塚柳斎は、幕末の儒医。戸塚静海は実弟である。詩人としても名を成した。隣の戸塚積斎は、柳斎の養子で、海軍医となった。
(久能山東照宮)

久能山東照宮拝殿
静岡市駿河区と清水区の境界辺りに久能山がある。久能山は標高二百十六メートル。山という割には大きな隆起とはいえないが、実際に千百五十九段の急峻な階段を昇り切ると息が上がる。
久能山東照宮は、家康の遺言に従って遺体がこの地に葬られ、秀忠によって東照宮が造営された。
明治後、松平健雄(容保の次男)が久能山東照宮の宮司を務めたとき、外国からイチゴ苗を入手し、それが今日の「石垣イチゴ」の起源となったという。
(宝台院別院)
久能山麓の宝台院別院は、かつて照久寺と呼ばれる榊原氏(徳川四天王の一人、榊原康政の兄、清政の家系)ゆかりの寺院であった。今も墓地の片隅に榊原氏の墓地がある。
榊原家墓地の中に「戊辰戦争旧幕府歩兵隊戦没者慰霊碑」と説明の加えられた墓石がある。横長の長方形の墓石自体は、文字がほとんど読み取れない。

宝台院別院

戊辰戦争旧幕府歩兵隊戦没者慰霊碑
(臨済寺)
臨済寺山門の「大龍山」の扁額は、徳川慶喜の筆である。

大龍山

永峰彌吉墓
永峰(旧姓高橋)彌吉は幕臣出身で、箱館の榎本政権では、榎本対馬、川村録四郎のもとで会計奉行頭取を務めた。維新後は宮崎県知事、佐賀県知事などを歴任した。

東軍招魂之碑
山門をくぐって右手に東軍招魂之碑が建てられている。建立は明治十八年(1885)。