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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

静岡 Ⅳ

2013年12月21日 | 静岡県
(宝泰寺)


宝泰寺

 静岡駅からほど近い繁華街の中に宝泰寺がある。墓地に入ると、すぐ左手に古い墓石が集められている。


壮士之墓

 壮士之墓には、美賀保丸の遭難者を弔うために建立されたものである。美賀保丸は、幕府艦隊に属し、榎本武揚が品川を脱して箱館を目指した折、暴風雨に遭遇して座礁沈没。乗組員のうち十三人が水死した。


柳斎戸家先生墓(右) 
従七位戸塚積斎先生之墓

 戸塚柳斎は、幕末の儒医。戸塚静海は実弟である。詩人としても名を成した。隣の戸塚積斎は、柳斎の養子で、海軍医となった。

(久能山東照宮)


久能山東照宮拝殿

 静岡市駿河区と清水区の境界辺りに久能山がある。久能山は標高二百十六メートル。山という割には大きな隆起とはいえないが、実際に千百五十九段の急峻な階段を昇り切ると息が上がる。
 久能山東照宮は、家康の遺言に従って遺体がこの地に葬られ、秀忠によって東照宮が造営された。
 明治後、松平健雄(容保の次男)が久能山東照宮の宮司を務めたとき、外国からイチゴ苗を入手し、それが今日の「石垣イチゴ」の起源となったという。

(宝台院別院)
 久能山麓の宝台院別院は、かつて照久寺と呼ばれる榊原氏(徳川四天王の一人、榊原康政の兄、清政の家系)ゆかりの寺院であった。今も墓地の片隅に榊原氏の墓地がある。
 榊原家墓地の中に「戊辰戦争旧幕府歩兵隊戦没者慰霊碑」と説明の加えられた墓石がある。横長の長方形の墓石自体は、文字がほとんど読み取れない。


宝台院別院


戊辰戦争旧幕府歩兵隊戦没者慰霊碑

(臨済寺)
臨済寺山門の「大龍山」の扁額は、徳川慶喜の筆である。


大龍山


永峰彌吉墓
 永峰(旧姓高橋)彌吉は幕臣出身で、箱館の榎本政権では、榎本対馬、川村録四郎のもとで会計奉行頭取を務めた。維新後は宮崎県知事、佐賀県知事などを歴任した。


東軍招魂之碑

 山門をくぐって右手に東軍招魂之碑が建てられている。建立は明治十八年(1885)。


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清水 Ⅱ

2013年12月21日 | 静岡県
(萬象寺)


萬象寺


窪田備前権守源鎮章之墓

 幕臣窪田泉太郎の墓である。備前守。諱は鎮章。神奈川奉行所定番役頭取から歩兵頭。慶応四年(1868)一月四日、鳥羽にて戦死。大阪で火葬され、清水の萬象寺に埋葬された。


克斎蒲池先生(治部右衛門)之墓

 泉太郎の墓に並んで葬られているのが、泉太郎の父、窪田治部右衛門である。晩年、本姓である蒲池姓に改め、号を克斎と称した。父は肥後熊本藩の柔術師範江口秀種で、秀種の父は高橋誠種という幕臣であった。因みに江口秀種の姉の夫が、川路聖謨、井上清直の父、内藤吉兵衛である。内藤吉兵衛の斡旋により窪田家を継いだという。窪田治部右衛門は、清河八郎の策動によって設立された浪士組の取締役に任じられたほか、神奈川奉行所定番役頭取、西国郡代などを務めた。維新後は静岡に移住し、七十歳で死去した。

(三保第一小学校)


太田健太郎藤原忠徳墓

 三保第一小学校の正門向いに小さな墓所があり、その中に太田健太郎の墓がある。
 太田健太郎は、弘化二年(1845)の生まれ。実穂神社の神主である。慶応四年(1868)二月、東征軍が近づくと、遠州報国隊の結成に呼応して、富士重本、森元温、鈴木楯雄らとともに赤心隊の結成に奔走した。赤心隊の従軍に当たっては留守部隊を担当し、三保海岸の警備や清水湊米蔵の警備を担った。幕兵を乗せた咸臨丸が清水湊に漂着すると、赤心隊は乗組員を次々と捕えて殺害した。しかも彼らの遺体は埋葬されることなく、放置された。恐らくこのことで赤心隊は旧幕軍の恨みを買ったのであろう。江戸城開城ののち、徳川家の駿府移住が決まると、明治元年(1868)十二月十八日、太田健太郎は兇徒に襲われて斬殺された。二十四歳であった。犯人は、徳川方の久能山警衛の士族ともいわれる。同じ頃、森元温(草薙神社神官)も襲われており、報国隊員、赤心隊員にとって駿遠は危険であることが明らかとなり、彼らは大村益次郎の計らいにより、一時靖国神社の社司に登用されることになった。

(御穂神社)


御穂神社

 太田健太郎が神官を務めた御穂神社である。鳥居の向い側から、「神の道」と称される松並木が真っ直ぐに伸びている。その先に有名な「羽衣の松」がある。


松の並木

(小島陣屋)


小島陣屋跡

 小島陣屋跡である。小島陣屋は、小島藩一万石の藩主松平(瀧脇)氏が宝永元年(1704)に構築した陣屋で、以来百六十年にわたって藩政の中心であった。現在、周囲は畑と民家に囲まれており、陣屋跡も半ば自然に返りつつある。石垣などが往時のまま残されており、わずかに昔日の姿を偲ぶことができる。陣屋は維新後、藩の学問所の後身である包蒙舎小学校の校舎として利用されたが、昭和三年(1928)、移転により取り壊された。


大手門付近の石垣

 幕末の藩主は、松平信敏(高遠内藤家の出身)といった。明治元年(1868)、徳川家が駿府に移されて静岡藩が成立すると、強制的に上総桜井に転封させられた。


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富士宮

2013年12月21日 | 静岡県
(富士山富士宮口五合目)


サー・ラザフォード・オールコック
富士登山記念碑

 富士山への登山口は、静岡県側から三ルート、山梨県側から一ルート、合わせて四ルートが存在する。このうち富士宮ルートは最も標高の高い二三八〇メートル地点まで自動車で昇ることができる。山頂までは五時間余りと最短ルートとなる。
 私が訪れた目的は、もちろん登山ではなくて、登山口にあるオールコックの記念碑を見ることにあった。登山客でごった返す夏場が過ぎ、秋が深まるのを待った。しかし、五合目にはこの日も多くの登山客が集まっていた。テレビの報道によれば、この日富士山は今季初冠雪が確認されたという。五合目から山頂を望むと、雪化粧した様子が見て取れる。五合目付近は小雨であった。私がオールコックの記念碑の写真を撮影している横を、次々と重装備した登山客が山頂を目指して通り過ぎて行った。
 オールコックが富士山を登ったのは、万延元年(1860)九月のことであった。オールコックは外交官が国内を自由に旅行できる権利を主張し、富士山の登山を強く要求した。旅行であれば特に富士山に固執する必然性はなかったと思うが、これまで外国人が富士山を登頂したことはなく、一番乗りの功名心もあったのであろう。
 オールコックは念願の富士登山を果たしたが、その反動は東禅寺襲撃事件として顕在化する。神聖なる富士山を外国人が穢したことは、攘夷派浪士を刺激したのである。オールコックの富士登山は、書記官オリファント、領事モリソンの負傷、さらに襲撃側、警護側双方に多くの死傷者を出した。結果的にオールコックの富士登山は多くの犠牲を伴うことになった。


富士宮登山口五合目からの眺め
静岡市方面を望む

(村山浅間神社)
 現在、五合目から山頂を目指すのが一般的となっているが、かつて富士登山といえば、当り前のことながら麓から歩いて昇るしかなかった。登山口の一つが村山口であり、村山浅間神社が起点であった。登山者は、神社で水垢離をして身を清め、道中の無事を祈った。さすがに現在ここで水垢離を行う人は見当たらないが、境内に水垢離場が残されている。


村山浅間神社


水垢離場


ラザフォード・オールコック
富士登山150周年記念碑

 村山浅間神社には、平成二十二年(2010)、オールコックの富士登山百五十年を記念して、記念碑が建てられた。


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箱根 Ⅲ

2013年12月21日 | 神奈川県
(桜井茶屋)
 八王子の自宅を出発したときは、まだ日の昇らない早朝であった。二時間足らずのドライブで元箱根に到着した。秋の行楽シーズンであっても、さすがにこの時間であれば渋滞に巻き込まれることはない。
 元箱根の桜井茶屋の建物は、奈良県五條市須恵の桜井寺の本堂を移築したものである。桜井寺は、文久三年(1863)八月、いわゆる天誅組の挙兵の際、本陣を置いた場所である。古写真そのままの建物が、箱根の観光地に現存していることは驚きである。しかし、残念なことに平成二十三年(2011)の東日本大震災以来、桜井茶屋は営業を停止しており、内部は荒れるに任されている。このままでは貴重な史跡が朽ち果ててしまう。営業再開は難しいかもしれないが、史跡の保存だけは何とかしてもらいたい。


桜井茶屋

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