史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

富津 Ⅱ

2013年04月07日 | 千葉県
(富津陣屋跡)
 富津陣屋跡を示す石碑は、富津市富津のまさに薮の中に置かれている。


富津陣屋跡(右)
白井宣左衛門自刃之地

 前橋藩は、慶應三年(1867)五月、二本松藩から富津台場の警備を引き継いだ。陣屋には陣屋支配白井宣左衛門以下九十名を派遣し、二本松藩から引き継いだ台場付足軽を含め総勢百十三名が駐屯した。江戸市中の治安が悪化すると、江戸藩邸にあった藩士の家族も難を避けて次々と富津に移住した。そこで慶應四年(1868)四月には、家老小河原多宮、大目付服部助左衛門らの重臣を富津に派遣した。四月に入ると、木更津にいた義軍から、再三にわたり圧力を受け、請西藩林忠崇の軍により陣屋が包囲されるに至った。陣屋では兵員を差し出しただけでなく、大砲、小銃、金子千両そして兵糧を提供した。
 小河原多宮は、陣屋を明け渡したことと、兵を差し出した責任を取って陣屋内で切腹して果てた。享年五十一。経書を学び、和歌、書道に優れた人物だったと言われる。
 また、六月には官軍が房総討伐のために佐貫に至ったが、前橋藩が請西藩に加担した責任を追求されると、陣屋支配の白井宣左衛門が一身に責を負って陣屋内で自刃した。享年五十八。


小河原多宮自刃之地

(富津市中央公民館)


小久保藩陣屋跡

 富津市中央公民館の敷地は、かつて小久保藩陣屋および藩校盈進館のあった場所である。小久保藩というのは、慶應四年(1868)五月、徳川宗家が駿府に移封されたことに伴い、遠江相良藩一万石が当地に移され成立した藩である。明治四年(1871)に廃藩置県によって廃止され消滅した。
 藩主田沼家は、有名な田沼意次の流れを汲み、幕末には意次から九代目の意尊が藩主となっていた。元治元年(1864)の天狗党の叛乱では、幕府の命により鎮圧に出向き、敦賀で三百五十二名を斬刑に処した。当然、強力な佐幕藩であったが、東征軍が東海道を進撃してくると恭順を表明した。小久保に移って明治二年(1869)十二月、当地で死去した。五十一歳。


小久保藩庁・藩主邸跡

 同じ中央公民館の敷地内に、藩庁・藩主邸跡がある。庭園らしきものが残されているが、もう少しそれらしく保存して欲しいものである。

(浄信寺)


浄信寺

 上総飯野藩(二万石)は、会津松平藩の末家である。容保が朝敵となった関係で、藩主保科正益(まさあり)は、京都で謹慎を命じられている。慶應四年(1868)閏四月、請西藩主林忠崇らと旧幕遊撃隊が富津陣屋を攻撃するに当たり、飯野藩に協力を求めた。藩では二十名を脱藩したことにして遊撃隊に参加させた。同年六月十二日、箱根戦役に参加した責任を問われ、飯野藩次席家老樋口盛秀が罪を負って切腹した。六十一歳。
 また、脱藩士を代表して野間銀治郎も罪をかぶって自刃(一説には斬首とも)した。二十六歳と伝えられる。


野間銀次郎君之碑


樋口盛秀之碑

 両名の墓とは別に二基の顕彰碑が、二代藩主保科正景の墓前に建立されている。飯野藩といい勝山藩といい、いずれも小藩ではあったが、藩の存続のために犠牲となった藩士がいたことは特記すべきであろう。同じようなことが全国あちらこちらで起きていた。


慈孝院淳譽義忠居士(野間銀次郎の墓)

 正面に戒名を刻んだ野間銀次郎の墓である。側面には、「野間銀次郎橘行信 行年二十有六」とある。


徳功院義譽忠純盛秀居士(樋口盛秀の墓)

 樋口盛秀の墓である。正面には、夫人と思われる女性の戒名が併記され、側面には漢文で事績が刻まれている。

(勝隆寺)


勝隆寺

 佐貫の三宝寺は廃寺となって、現在は勝隆寺と名前を変えている。慶應四年(1868)六月八日、新政府軍の軍監矢野安太夫らが、三宝寺を屯所とした。


超善院中覺理傳居士(福井小左衛門)(左)
月崇院忠岳清慧居士(楯石作之丞)墓

 勝山藩では請西藩林忠崇の要請を受け、三十一名を合流させた。彼らは箱根、山崎と転戦し、勝山藩兵は壊滅的損害を受けた。辛うじて帰還した勝山藩兵は、地蔵堂に監禁され謝罪した。新政府軍軍監矢野安太夫は、首謀者の処罰を命じた。勝山藩では、三宝寺にて福井小左衛門と楯石作之丞が切腹した。福井は二十六歳で独身。楯石は三十五歳で一人娘は四歳であった。本堂左手に二人の墓が並んで建てられている。

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鋸南

2013年04月07日 | 千葉県
(妙典寺)


妙典寺

 安房勝山藩は、一万二千石の小藩である。ときの藩主酒井忠美は安政五年(1858)生まれというから、未だ十歳にもならない少年であった。慶應四年(1868)四月、勤王証書を提出するために京都に上ったが、同じ頃、請西藩林忠崇が藩兵と遊撃隊を率いて南進し、勝山に入った。勝山藩の重臣たちは議論の結果、福井小左衛門、楯石作之丞ら三十一名が遊撃隊に合流した。彼らは、小田原から箱根と転戦し、新政府軍および小田原藩と戦火を交えた。特に山崎の戦いでは、戦死十七名、行方不明四名という全滅に近い犠牲を出した。辛うじて生き残った勝山藩兵十九名は、五月末、館山に戻ったが、新政府軍からの訊問に対し、福井、楯石両名が首謀者として切腹した。戦後、自己を犠牲にして藩を救った勝山藩士を顕彰するため妙典寺門前に「義士之碑」が建立された。書は、勝山藩士が所属した一番大砲隊長人見勝太郎(寧)。


視死如歸(勝山藩義士)碑

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館山 Ⅱ

2013年04月07日 | 千葉県
(旧長尾藩士八幡共同墓地)


旧長尾藩士八幡共同墓地

 八幡共同墓地には、旧長尾藩士の墓が五十基以上も建てられている。長尾藩は、慶應四年(1868)徳川家の駿府入封に伴い、駿河田中藩主であった本多家を移封して立藩されたもので、明治四年(1871)の廃藩置県まで存続した。

(長福寺)


長福寺

 長福寺の参道に寄子萬霊塔(よりこばんれいとう)がある。人宿相模屋妻吉が、戊辰戦争後、戦争から帰らなかった寄子三十一名を憐れんで建立したものと伝えられる。


寄子萬霊塔

 寄子萬霊塔の台座には「一番組人宿 相模屋妻吉」と大きな字で刻まれている。人宿とは、人手の仲介斡旋をする店である。主人である寄親の身元保証により奉公した人を寄子と呼ぶ。館山藩は、請西藩林忠崇からの要請を受け、家臣から五名派兵し、さらに不足した人数を相模屋妻吉に請け負わせた。彼らは遊撃隊に合流して相模国に向かった。出兵した寄子三十一人は、一人も帰ることがなかったという。
 寄子萬霊塔の背面には、「鐘の音の 落ち葉にさわる夕べかな」の一句が刻まれている。

(来福寺)


来福寺

 請西藩諏訪数馬は病身であったが、藩主林忠崇に従って長須賀村(現・館山市)まで随行してきた。しかし、衰弱が激しく、歩行も困難となり、足手まといになることを恐れて、この地で自害した。忠崇は、数馬のことを憐れに思い、自ら介錯した。このとき数馬は三十三歳であった。
 館山の図書館で調べれば諏訪数馬の墓が分かるのではないかと思い、図書館で調べてみた。幸い「視死如歸 史跡・文献からみた戊辰戦争と南総」(佐野邦雄著 ㈱集賛舎)を発見し、そこに来福寺の諏訪数馬の墓の写真が掲載されていた。早速、来福寺を訪ね、一時間以上にわたって墓地歩き回ったが、遂に行き着くことはできなかった。諦めきれずに本堂の呼び鈴を押してみたが、残念なことに応答がなく、空しく引き揚げることになった。

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