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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「明治の女子留学生 最初に海を渡った五人の少女」 寺沢龍著 平凡社新書

2011年12月07日 | 書評
先日、津田塾大学に津田梅子の墓を訪ねて以来、俄かに明治初年にアメリカに渡った五人の少女のことが知りたくなって、この本を手に取った。五人の数奇な人生に、時の経つのも忘れるほど引き込まれた。彼女らを取り巻く登場人物として、大山巌、伊藤博文、黒田清隆、森有礼、山川浩といった、役者としては申し分ない“ビッグネーム”が次々と登場する。
明治四年(1871)十一月、岩倉具視を大使、大久保利通、木戸孝允、伊東博文、山口尚芳の四名を副使とする岩倉遣外使節団四十八名が横浜港を出発した。このとき使節団は五十八名の留学生を帯同していた。その中に以下の五名の少女が含まれていた。

静岡県士族 永井久太郎養女 繁子(十歳)
東京府貫属士族 津田仙娘 梅子(六歳)
青森県士族 山川弥七郎(大蔵、明治後浩)妹 捨松(十一歳)
東京府貫属士族外務中録 上田畯女 悌子(十六歳)
東京府貫属士族同府出仕 吉益正雄女 亮子(十四歳)

いずれも幕末の戦争で賊軍とされた幕臣や佐幕藩の出身者の子女ばかりである。
津田塾大学を開いた津田梅子や元帥大山巌の後妻となった山川捨松は、夙に有名であるが、ほかの三名のことはあまり知られていない。
永井繁子は、同じ時期に米国に留学していた瓜生外吉(のちに男爵・海軍大将)と大恋愛の末、帰国後結婚している。
上田悌子と吉益亮子の二人は、留学一年後、病を得て急遽帰国することになった。その後の二人の運命について、この本で初めて知ることができた。
上田悌子は、医師桂川甫純に嫁ぎ、五名の中では一番長命し、昭和十四年(1939)八十五歳で世を去っている。なお、訳詩集「海潮音」で有名な上田敏は、悌子の姉、孝子の子である。つまり悌子と上田敏は、叔母、甥という間柄になる。
吉益亮子は米国で眼を患った。幸いにして帰国後、眼病は治癒したが、明治十九年(1886)、当時大流行したコレラに罹患して、二十九歳という若さで落命している。

津田梅子、大山捨松が十一年におよぶ留学から帰国したとき、彼女らはすっかり日本語を忘れてしまっていた。津田梅子は、「生涯、思考の言語手段は英語であり、書くこともほとんど英語であった。」(本書P.123)という。
当時の日本は、「女性は家庭に入って良妻賢母を心がけ、夫とその親につくして「家」を守り、子供を生して養育に専念することが務めとされた。」(P.162)翻って今日の日本は、先日発表された男女格差ランキングでは135カ国中98位と報道された。要するに明治の時代、もっといえばその昔からの男女格差を未だに引きずっているのである。
津田梅子には、縁談がいくつも持ち込まれたが、彼女はいずれも断り、生涯独身を貫いて、ひたすら女性のための学校設立という使命達成のために尽した。彼女の心の奥には、官費による永年の米国留学に対して、国家への借財意識が重くのしかかっていた。その責任感が自身の結婚とか幸福などの全てに優先したのである。何もそこまで思い詰めなくても…という気もするが、これも明治という時代の空気なのかもしれない。明治三十三年(1900)津田梅子は、遂に女子英学塾(のちの津田塾大学)を設立し、その塾長に就いた。そして六十四歳で死去するまで、学校の運営に生涯を捧げた。何と崇高な生涯だろうか。

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「岩倉具視 言葉の皮を剥ぎながら」 永井路子著 文春文庫

2011年12月07日 | 書評
今年は大正百年のメモリアルイヤーである。その大正生まれの作家、永井路子の描く「岩倉具視」が文庫化された。永井路子といえば、北条政子や細川ガラシャなど、室町時代や戦国時代の女性を好んで取り上げる作家である。私も学生時代には、永井氏の小説を何冊も読んだものである。本作は、永井氏が近代の、しかも男性を取り上げた作品を書いたということで発刊された当時から話題を呼んだ(本作の上梓は平成二十年)。
本作は単なる伝記小説というより、岩倉具視を題材にした評伝といった方が正確であろう。
副題に「言葉の皮を剥ぎながら」とある。「尊王攘夷」とか「佐幕」という言葉の表面的な意味合いと、実態との乖離を次々と暴いてゆく。「攘夷」の時代は、文久三年(1863)の薩英戦争と長州藩の四国連合艦隊との戦争をもって終焉したと指摘する。
岩倉具視といえば、孝明天皇毒殺の黒幕と言われているが、永井氏は明確に否定する。永井氏の言い分は、本書を一読いただくとして、素直に支持したい。
永井氏は岩倉具視をヒーローとして描くのではなく、生身の人間として扱う。岩倉の生涯を晴れやかな成功物語として描くのであれば、右大臣まで昇りつめた明治維新以降を無視するわけにはいかない。しかし、伝記としては王政復古で終わって、それ以降は「余白に…」と題して点描するにとどめている。岩倉具視をテーマにする構想を長年あたためてきたという作家にしては、意外なほどドライである。
岩倉具視が輝いていたのは王政復古までで、維新後は大久保や木戸に操られただけだと切り捨てる。有名な明治四年(1871)の岩倉遣外使節団についても「無意味愚挙と言わざるを得ない」と辛辣である(そこまで言わなくても…と思いますが)。
明治六年(1873)十月二十二日、西郷隆盛を使節として朝鮮に派遣することを決定した廟議に反対する意見を上奏しようという右大臣岩倉具視のところに、西郷隆盛、江藤新平、板垣退助、副島種臣といった遣韓使節派の参議が押し掛けた。岩倉は「わしのこの両眼の黒いうちは、おぬしたちが勝手なことをしたいと思うてもそうはさせんぞ」というヤクザの親分のような台詞を吐いて、四人の参議を退けた。これも大久保の書いたシナリオとおりに演じただけといってしまえば身も蓋もないが、岩倉の凄みを感じるシーンである。本書では明治六年政変のことが触れられていないが、個人的には、岩倉具視というとこの場面を抜きには語れない。

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「下野の戊辰戦争」 大嶽浩良著 下野新聞社

2011年12月07日 | 書評
本書の巻末近いところに掲載されている「下野戊辰戦争の特徴」に以下のように記載されている。
――― 従来、下野の戦争は研究者によってほとんど無視され、上野戦争から東北戦争へと説明されてきた。その傾向は今でも変わらないが、この点を大町雅美氏(昭和四十三年『戊辰戦争』(雄山閣)著者)は鋭く批判し、「宇都宮城をめぐる攻防戦は、以後の指導権をめぐる焦点となり(中略)、戊辰戦争の核心はこの宇都宮城をめぐって、ひいては下野全域の攻防戦によって位置づけられる」(『戊辰戦争』)とした。下野の攻防を、以後の指導権をめぐる戊辰戦争の核心と評価したのである。

確かに下野における攻防戦はもっと注目されてよい。特に宇都宮城をめぐる戦闘は、旧幕府軍と新政府軍ががっぷり四つに組んだ激戦であった。この戦闘を機に、白河緒戦での勝利を別にすれば、ほぼ旧幕府軍は負け続けることになった。
栃木県下には、小山、宇都宮、壬生、大田原、那須など、各地に戊辰戦争の傷跡が残る。戊辰戦争遺跡のガイドブックとしても、本書は有用である。栃木県下の戊辰戦争史跡は、それなりに回ってきたと自負していたが、この本でまだまだ足を運んでいない史跡があることを思い知った。しばらく栃木の史跡詣でを続けたい。

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