(能満寺)
再度浦賀を訪れて会津藩士と川越藩士の墓と対面できた。
会津藩士と川越藩士の墓
(鴨居三昧堂)
三昧堂(さめど) 会津藩士の墓
バスを腰越で降りて、観音崎の方向に少し歩くと、山の中腹に「会津藩士の墓」がある。ここには会津藩士およびその家族、合わせて二十三名が静かに眠る。
腰越のバス停辺りには、当時、会津藩が陣屋を置き、家老を常駐させていたという。この地に駐留する会津藩士は、ある者は単身赴任、ある者は家族を帯同していた。藩では、子弟のために藩校養正館を開き、約四十名の生徒がいたと記録されている。
(東林寺)
東林寺
東林寺には、浦賀奉行としてペリー来航時に最初に折衝に当たった中島三郎助の墓がある。
中島三郎助は、文政三年(1820)の生まれ、父の跡を襲って下田奉行与力となり、のちに浦賀奉行に属した。嘉永六年(1853)、ペリー艦隊が初めて浦賀に来航したときに、小舟で軍艦に乗り付け談判した。安政二年(1855)、長崎に派遣されて海軍伝習所に学んだ。文久二年(1862)、地方掛吟味役、元治元年(1864)、富士見宝蔵番格軍艦頭取出役等を歴任した。戊辰戦争では、榎本武揚艦隊と合流し、箱館戦争を戦った。明治二年(1869)五月十五日、千代ヶ岡台場にて二子とともに戦死した。享年四十九。文武に優れ、木鶏という俳号も持っていた。
中島三郎助墓(右)
中島英次郎墓(左)
三郎助に隣り合って建てられているのが、次男英次郎(ふさじろう)の墓である。父と同じく千代ヶ岡砲台戦にて戦死。十九歳であった。
長男中島恒太郎の墓は、三郎助の墓に向かい合って建てられている。やはり千代ヶ岡台場にて戦死。二十二歳。
中島恒太郎墓
忠魂碑
本堂前の忠魂碑は、陸軍大将大山巌の書。
(東叶神社)
東林寺の前の道をさらに南に歩くと、海外沿いにある大きな鳥居に出会う。応神天皇を祭神とする東叶神社である。神社の裏山を明神山というが、その山頂に奥宮があり、その左手に「勝海舟断食之跡」碑が建っている。
実は、初めて浦賀を訪問した十年くらい前のこと、勝海舟断食之跡碑があることは分かっていたが、体力、気力が尽きてしまい諦めたことがある。以来、十年越しでようやくここを訪れることができた。明神山は標高五十㍍。息を切らせて約二百五十段の石段を上りきると自然林に覆われた山頂に到達する。
東叶神社
勝海舟断食之跡碑
安政七年(1859)、咸臨丸で太平洋横断を前にした勝海舟は、ここで水垢離をしたあと、断食し座禅を組んで航海の安全を祈願したという。
浦賀城趾
明神山は、北条氏康が房総里見氏の進攻に備えて、三崎城の出城として築いた浦賀城の跡地である。嘉永六年(1853)、来航したペリー艦隊の四隻の黒船は、この沖合左手辺りに停泊した。
(浦賀ドック)
浦賀ドック
嘉永六年(1853)幕府が近代的造船所を浦賀に開設した。翌安政元年(1854)には、我が国最初の洋式軍艦である鳳凰丸が建造された。明治二十四年(1891)、中島三郎助の二十三回忌に当たり、箱館戦争の同志であった荒井郁之助が三郎助のためにこの地に造船所を作ることを提唱し、榎本武揚らの協力を得て、明治三十年(1897)、浦賀船渠が設立された。現在、住友重機械㈱の浦賀造船所に引き継がれているが、残念ながら勝手に中に入ることはできないので、塀越しに写真を撮るのが精一杯であった。
再度浦賀を訪れて会津藩士と川越藩士の墓と対面できた。

会津藩士と川越藩士の墓
(鴨居三昧堂)

三昧堂(さめど) 会津藩士の墓
バスを腰越で降りて、観音崎の方向に少し歩くと、山の中腹に「会津藩士の墓」がある。ここには会津藩士およびその家族、合わせて二十三名が静かに眠る。
腰越のバス停辺りには、当時、会津藩が陣屋を置き、家老を常駐させていたという。この地に駐留する会津藩士は、ある者は単身赴任、ある者は家族を帯同していた。藩では、子弟のために藩校養正館を開き、約四十名の生徒がいたと記録されている。
(東林寺)

東林寺
東林寺には、浦賀奉行としてペリー来航時に最初に折衝に当たった中島三郎助の墓がある。
中島三郎助は、文政三年(1820)の生まれ、父の跡を襲って下田奉行与力となり、のちに浦賀奉行に属した。嘉永六年(1853)、ペリー艦隊が初めて浦賀に来航したときに、小舟で軍艦に乗り付け談判した。安政二年(1855)、長崎に派遣されて海軍伝習所に学んだ。文久二年(1862)、地方掛吟味役、元治元年(1864)、富士見宝蔵番格軍艦頭取出役等を歴任した。戊辰戦争では、榎本武揚艦隊と合流し、箱館戦争を戦った。明治二年(1869)五月十五日、千代ヶ岡台場にて二子とともに戦死した。享年四十九。文武に優れ、木鶏という俳号も持っていた。

中島三郎助墓(右)
中島英次郎墓(左)
三郎助に隣り合って建てられているのが、次男英次郎(ふさじろう)の墓である。父と同じく千代ヶ岡砲台戦にて戦死。十九歳であった。
長男中島恒太郎の墓は、三郎助の墓に向かい合って建てられている。やはり千代ヶ岡台場にて戦死。二十二歳。

中島恒太郎墓

忠魂碑
本堂前の忠魂碑は、陸軍大将大山巌の書。
(東叶神社)
東林寺の前の道をさらに南に歩くと、海外沿いにある大きな鳥居に出会う。応神天皇を祭神とする東叶神社である。神社の裏山を明神山というが、その山頂に奥宮があり、その左手に「勝海舟断食之跡」碑が建っている。
実は、初めて浦賀を訪問した十年くらい前のこと、勝海舟断食之跡碑があることは分かっていたが、体力、気力が尽きてしまい諦めたことがある。以来、十年越しでようやくここを訪れることができた。明神山は標高五十㍍。息を切らせて約二百五十段の石段を上りきると自然林に覆われた山頂に到達する。

東叶神社

勝海舟断食之跡碑
安政七年(1859)、咸臨丸で太平洋横断を前にした勝海舟は、ここで水垢離をしたあと、断食し座禅を組んで航海の安全を祈願したという。

浦賀城趾
明神山は、北条氏康が房総里見氏の進攻に備えて、三崎城の出城として築いた浦賀城の跡地である。嘉永六年(1853)、来航したペリー艦隊の四隻の黒船は、この沖合左手辺りに停泊した。
(浦賀ドック)

浦賀ドック
嘉永六年(1853)幕府が近代的造船所を浦賀に開設した。翌安政元年(1854)には、我が国最初の洋式軍艦である鳳凰丸が建造された。明治二十四年(1891)、中島三郎助の二十三回忌に当たり、箱館戦争の同志であった荒井郁之助が三郎助のためにこの地に造船所を作ることを提唱し、榎本武揚らの協力を得て、明治三十年(1897)、浦賀船渠が設立された。現在、住友重機械㈱の浦賀造船所に引き継がれているが、残念ながら勝手に中に入ることはできないので、塀越しに写真を撮るのが精一杯であった。