史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

仙台 Ⅱ

2010年01月30日 | 宮城県
(日浄寺)


日浄寺


坂時秀之墓
(坂英力の墓)

 日浄寺は、JR仙山線の北仙台駅から徒歩五分ほどである。墓地の入口に近いところに坂(さか)家の墓域がある。坂時秀という名前の刻まれた墓石が、坂英力のものである。
 坂英力は、二十五歳で出仕し、藩の祭祀奉行、小姓頭を歴任した。元治元年(1864)以降、佐幕派の中枢として京都、江戸で活躍するようになった。奥羽越列藩同盟が結成されると、外交、軍事を担当した。会津藩寛典の嘆願書を携えて江戸に上ったが、上野戦争の混乱により目的を果たせなかった。最期まで抗戦を主張したため、戦後、藩の宿老但木土佐とともに東京に移送され斬罪。三十七歳であった。墓の前には、坂英力の辞世を刻んだ述懐碑が建てられている。

うきくもを 払ひかねたる 秋風の
今は我か身に しみぞ残れる
國のため捨つる命のかいあらば
身はよこしまの罪の朽つとも
危うきを見捨てぬ道の今ここに
ありて踏みゆく身こそ安けれ


仙臺藩国老坂英力君碑

 日浄寺本堂前には、坂英力の顕彰碑も建っている。

(飯沼貞吉終焉の地)


蘇生白虎隊士 飯沼貞吉終焉之地碑

 錦町光禅寺通りのアパートの一角に、ひっそりと飯沼貞吉終焉之地碑が建てられている。自刃した白虎隊士のうちただ一人生き残った飯沼貞吉は、電信技師として日本各地を転々としたが、最後の勤務地が仙台であった。貞吉は退職後も仙台に住み続け、昭和六年(1931)この地で没した。七十七歳であった。飯沼家は、平成三年(1991)までこの場所で光禅寺通幼稚園を経営していたという。

(東北大学金属材料研究所本多記念館)
 この日は、東北大学で仕事があった。片平キャンパスを訪れたところ、北門付近の金属材料研究所本多記念館の前に乃木将軍遺愛の松と書かれた石碑と、立派な松が立っているのを発見した。
 乃木希典は、日清戦争の直後の明治二十八年(1895)、第二師団長に任じられ仙台に赴任した。明治三十年(1897)、台湾総督として転出するまでの数年間をこの地で過ごした。昭和十一年(1936)、東北大学が金属材料研究所を拡張するために周辺の土地を買収した際、乃木希典の旧家も含まれており、その庭に松があったのを、現在地(金属材料研究所本多記念館前)に移植したものである。


乃木将軍遺愛の松

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「坂本龍馬を英雄にした男 大久保一翁」 古川愛哲著 講談社+α新書

2010年01月30日 | 書評
大久保一翁は、幕府の中枢にありながら、勝海舟とともに薩長両藩や尊攘派志士からも高い支持を受けた特異な幕臣であった。薩摩藩の小松帯刀は、
「一翁を老中にしなければ政治にならない」
といい、更に
「一翁と海舟が老中になれば、長州問題でも何も天下は鎮まる」
とまで断言した。
著者は、大久保一翁のことを「剛直」「無私」といった言葉で評するが、その一翁の面目が躍如としたのが、大開国論の主張であろう。慶喜による大政奉還の実に五年も前のことである。一翁の先見性、時代を見る目の鋭さに改めて驚くほかはない。
一翁が大開国論に至った一つの契機が、一橋慶喜の将軍後見職就任であった。慶喜を政治の表舞台に立たせることは、薩摩藩にとって斉彬以来の悲願であった。このとき大久保利通は
「数十年の苦心焦慮せき事、今更夢のようなる心持。皇国の大慶言語に尽くし難き次第なり」
と感慨を日記に記している。
薩摩藩が感慨に浸っている頃、一翁は勅使の待遇の改善を主張する。これに対し慶喜は、勅命で改正するのは面白くないと一蹴した。このとき一翁は、慶喜の本質を見抜いたのであろう。慶喜は、表面では尊皇を主張しながら、実質は幕権強化主義者であった。このことは時間の経過とともに誰もが認識することになるが、この時点で敏感に感じ取っていたのは一翁一人だったかもしれない。
朝廷を蔑ろにしようという慶喜の真意を知った一翁が、徳川家が朝敵となるのを回避するために思い至った思想が「大開国論」であった。
一翁の主張は、「飽くまで朝廷が攘夷を断行せよというのであれば、大政奉還するべきである。徳川家は駿遠三の一大名に身を引き、諸侯による公議会に諮って政事を行うべき。」
というものである。
当時としては突飛な発想であったが、国内に騒乱を引き起こすことなく、徳川家を朝敵の汚名から守るためには、この方法しかなかった。文久二年(1862)の段階では、一翁の主張は相手にされず、不快に感じた慶喜によって左遷の憂き目にあっただけであったが、一翁の思想の正しさは、その後の歴史が実証している。
本書のタイトルは、「坂本龍馬を英雄にした男」となっている。確かに、坂本龍馬の大政奉還論も船中八策も、大久保一翁の主張の焼き直しでしかない。一翁無くして坂本龍馬の活躍はあり得なかったというのは、著者のいうとおりと思う。しかし、一翁の偉大さを語るのに、何も龍馬の名前を本のタイトルにまで引っ張り出す必要もあるまい。龍馬ブームに便乗しようという出版社の意図かもしれないが、一過性のブームに振り回されるのではなく、大久保一翁という人物の大きさを広く知ってもらいたいと思う。

コメント (2)
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