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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「山県有朋 愚直な権力者の生涯」 伊藤之雄著 文春新書

2009年03月14日 | 書評
 筆者は「明治維新から現代までの政治家の伝記を執筆するのをライフワーク」としており、ほかにも西園寺公望や伊藤博文を取り上げた著作がある。四百七十頁を超えるこの本は新書としては異例のボリュームで、山県有朋の八十三年に及ぶ、起伏に富んだ人生を真正面から描いている。
 山県有朋というと、「陸軍と官僚を支配下において山県閥をつくり、デモクラシーに反対し、みんなに憎まれて世を去った」というイメージが定着している。山県は、元藩士としては伊藤博文、大山巌に継いで三人目となる国葬で送られた。国葬の当日は雨であった。参列者は千人にも満たず、国葬というにはあまりにも寂しい葬儀であった。山県の不人気は、彼の存命中から今日まで継続している。
 筆者は、山県のことを「愚直な権力者」と位置づけ、従来のイメージを覆すことに力を注いでいる。
 この本を読み終えて、ではイメージが変わったか、山県のことを好きになったかと問われると、正直なところそれほど印象が変わったとは言い難い。維新の動乱で若くして命を落とした人たちと比べると、山県は生き延びた勝者であり、挫折や苦悩を抱えながらも、一方では椿山荘や古希庵、無鄰庵などの別荘を所有した成功者である。昔から日本人には成功した権力者は人気がない。坂本龍馬や吉田松陰、西郷隆盛のように志半ばで非業に斃れる人物の方が好まれるのである。
 話が飛ぶが、先日、戦前の録音でカラヤンのブルックナーを聴く機会があった。日本ではブルックナーの人気が極めて高いが、その中にあってカラヤンのブルックナーに対する評価は著しく低い。しかし、この古い録音を指揮者を伏せて聴いてみて、「嫌い」と断定できる人がどれくらいいるだろうか。カラヤンが嫌われるのは、「帝王」と呼ばれ、自家用ジェットや高級車を乗り回していたから、つまり栄光を手にしたからではないのか。山県が日本人に人気がないのも、同様の「嫌われる理由」が背景にあるように思う。
 山県有朋は幼くして両親と死に別れた。このことが、「生真面目だが猜疑心の強い、少し暗い性格」の形成に影響しているという。陰気なキャラクターというのも日本人には受けない。豊臣秀吉は、権力の頂点に登りつめた者でありながら、日本人に非常に人気がある。秀吉の人気を支えているのは影のない陽気さにある。
 西南戦争以降の山県は、軍人から政治家へと脱皮した。日清戦争に出征したことが唯一の軍人らしい履歴である。明治二十年代からあとの記述は、個人的にはあまり馴染みがない時期なので、理解するのに骨が折れた。山県が、陸軍元帥、元老筆頭として、時の総理大臣や内閣の人事に絶対的な影響を及ぼし続けるのは、現代の民主主義社会の常識から見ると、違和感を禁じ得ない。晩年には、皇太子(のちの昭和天皇)妃の“人事”にまで介入し、さすがに轟々たる非難を集めている。
 権力を欲しいままにした山県であるが、一貫しているのは、郷里の同胞が多くの血を流した末に生まれた明治国家を絶対に守り抜こうという強力な意思である。そこには国を私物化しようという意識は全くない。批判の多い軍の独走と許す組織・体制を作ったのは山県であるが、山県が存命中は問題がなかったのだろう。彼の死後、この仕組みを悪用した昭和の軍人が国を滅ぼしたのは周知のとおりである。
 筆者は、山県のことを手放しで褒め称えているわけではない。欠点は欠点としてありのままに指摘している。例えば、
① 欧州留学中に外国語の修得をあきらめ見聞が表面的なものになってしまったこと
② 背景となる欧州各国の立憲制発達の歴史を含めて、各国と日本を比較し深く考えるという志向が弱かったこと
③ 原敬や加藤高明のような、政党政治への理想を持って骨のある優秀な人材は、山県の下に参じなかったこと
④ 日露戦争のあと詠んだ和歌には、犠牲となった多くの将兵に対する心の痛みが全く表れてこないこと、即ち普通の人間が持つ感受性を失いつつあるということ
⑤ 山県は後継者育成に励んだが、結局は能吏ばかりで、真に気骨があり頼りになる者は育成できなかったこと
などなど、いずれも山県への辛辣な批評であるが、こういった姿勢がこの本の奥行きを深いものにしていると思う。

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