夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

「置かれた場所で・・・」

2012-10-12 15:21:23 | こころに残る言葉
「置かれた場所で咲きなさい」

学校法人ノートルダム清心学園の理事長 渡辺和子。
85歳の著者は現役の教育者であり、ノートルダム清心学園理事長を務める。陸軍教育総監で二・二六事件の犠牲者、渡辺錠太郎(1874~1936年)の次女として生まれ、上智大大学院を修了。29歳でノートルダム修道女会に入り、米国で修練を積んだ。

 そんな才女も、30代半ばという若さでノートルダム清心女子大(岡山市)の学長に任命された際は、困惑し自信を喪失してしまったという。そんなとき、ある宣教師が手渡してくれた英詩にこんなフレーズがあった。

 「Bloom where God has planted you.
(神が植えたところで咲きなさい)」

 置かれた場に不平不満を抱えていては“環境の奴隷”でしかない。“環境の主人”となり自分の花を咲かせるには、「自分が変わるしかない」と、著者はそのとき改心したそうだ。

 人生は望んだ通りにはいかない。勉強にしろ仕事にしろ、家庭生活にしろ、「不本意だ」「こんなはずじゃなかった」と思うことばかり。それでもどこかで折り合いをつけ、前向きに生きたいと願う人が多いからこそ、この本が支持されているのだろう。著者いわく「境遇は選ぶことはできないが、生き方を選ぶことはできる」。そして、「どうしても咲けない時は、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです」。


故くまがいあさこさん

2012-10-08 22:20:36 | 私と福祉とであいの旅
【自然を大事にして、この海を守っていけば、将来どんなことがあっても生活できるべ。大金なんかいらない】


 故熊谷あさ子さんは大間原発建設に反対し、最後まで自分の土地を売らず、一人になってもあさ子さんは自分の土地を離れなかった。
 その他の土地の共有権を放棄するよう電源開発が提訴すると、あさ子さんは原発工事差し止めを求めて電源開発を提訴し返した。
 家族を巻き込みたくないと、熊谷あさ子さんは最初、お子様達に何もお話にならなかったらしい。
 自然の中で働き、生きてきたあさ子さんは、臆することなく一人で国と電力会社を相手取る。原発と生きることは問題外だった。お金では買えない、売れない、自然の恵みを選択した熊谷あさ子さんの選択は4人のお子様たちに引き継がれ、土地はあさ子さんの死後も売却されていない。

 「あさこはうす」は脱原発の生きた証となった。
 「大間原発訴訟の会 http://ameblo.jp/ooma/」の原告の一人である長女の小笠原厚子さんは、月の半分を「あさこはうす」で過ごし、「手紙を送って!」と呼びかける。

 039-4601
 青森県下北郡大間町大字大間字小奥戸396
 あさこはうす内 小笠原厚子様

 おはがきを出しましょう!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
http://www.47news.jp/CN/200605/CN2006052001005816.html
熊谷あさ子さん死去 大間原発建設予定地の地権者


 熊谷あさ子さん(くまがい・あさこ=大間原発建設予定地の地権者)19日午後10時29分、青森県むつ市の病院で死去、68歳。死因は不明。
 青森県出身。自宅は青森県大間町大間細間10の4。葬儀・告別式は23日午前11時から大間町大間大間98、福蔵寺で。喪主は二男正彦(まさひこ)氏。  

 「大間にはマグロやコンブがとれる宝の海がある」と、電源開発(東京都)が計画している大間原発に反対。半農半漁の暮らしを続けながら土地買収を拒否し続け、電源開発は炉心の位置をずらすなど異例の対応を迫られた。
 電源開発は土地の明け渡しを求め、熊谷さんを提訴。熊谷さんも工事差し止めを求め電源開発を提訴し、訴訟合戦を繰り広げていた。
2006/05/20 13:18 【共同通信】



【小笠原厚子さん】
熊谷あさ子さんの4人の子どもたちの長女。2002年から母とともに大間原発の反対運動に関わる。現在は函館の隣の北斗市に住みながら月の半分を大間で過ごし、あさこはうすのまわりの畑で野菜や花を育てている。「大間原発訴訟の会」の原告の一人。あさ子さんとは違う方法で土地を守り続けている。その一つが「あさこはうすに手紙を送って!」で、「郵便物があれば配達の人が出入りし、ここに人の暮らしがあることを示せ る」ということだ。
039-4601 青森県下北郡大間町大字大間字小奥戸396 あさこはうす内 小笠原厚子


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

北海道新聞 現代かわら版
【プルサーマルの現場を歩く】上.大間原発と函館市民 高まる不安に応えぬ国 (2009/05/19)

 建設中の電源開発・大間原発。手前の赤白のクレーンの付近に原子炉建屋が造られる。緑色のフェンスの敷地境界のすぐそばに民家がある。
 原発の炉心から約250メートルにある故熊谷あさ子さんのログハウス。今は長女の小笠原厚子さん(中央)が守る。

 原子力発電所の使用済み核燃料からプルトニウムを取り出して燃料に使うプルサーマルが、来年度にも北電泊原発3号機(後志管内泊村)で実施される。ただ、安全性や経済性への懸念は残り、使用済み核燃料再処理施設や大間原発など、プルサーマル関連施設が集まる青森県下北半島周辺の函館や岩手県からも不安の声が上がる。(川村史子)



 直線わずか18キロ 「初めて尽くし」注目度高く

 マグロ漁で知られる下北半島北端の町、青森県大間町。函館市戸井とは津軽海峡を挟んで直線距離で十八キロしか離れていない。晴れた日には、函館の市街がくっきりと見える。

 函館からフェリーで大間港に入る直前、海に面した丘に電源開発(東京)の大間原発(出力百三十八万三千キロワット)の建設現場が見えた。工事は昨年五月に始まり、現在は地盤工事の最中だ。五年後の二〇一四年十一月の運転開始を予定する。

 大間原発は「初めて尽くし」といわれる。水力や火力発電が主力の電源開発が建設・運転する初の原発であり、普通の原発では世界で初めてプルトニウムとウランの混合燃料(MOX燃料)100%で運転する。国のプルサーマル計画を支える原発として注目度は高い。

「炉心そばに民家」

 約百三十ヘクタールの原発敷地のほぼ中央にある約一ヘクタール(300坪)の民有地に、小さなログハウスが立つ。原発の炉心からわずか二百五十メートル。原発建設に反対し、三年前に六十八歳で亡くなった故熊谷あさ子さん名義の土地だ。今は函館に住む長女の小笠原厚子さん(54)が月の半分をここで暮らし、母の愛した家と畑を守る。

 「海の恵みがあれば生きていける」。地元の漁師の家に生まれた熊谷さんは、がんとして用地買収に応じなかった。そのほかにも熊谷さんは建設現場に通じる道路上にある土地も共有しており、電源開発は〇三年、共有権を明け渡すように熊谷さんを訴えた。

 熊谷さんは青森地裁、仙台高裁で敗訴し、〇六年四月に最高裁に上告した。だが、それから間もなくツツガムシ病で急死。同年秋に敗訴が確定した。五月十九日は熊谷さんの命日だ。

 ログハウス周辺では建設工事のつち音が響く。稼働すれば、炉心の至近距離に民家があるのは世界的にも異例となる。「ここで暮らすからこそ、物を言う権利もあるはず」。母の遺志を継いだ小笠原さんは年数回、ログハウスでの暮らしや大間原発の建設状況についてまとめたミニコミ紙を発行している。

隣でも「対象外」 電源開発 住民向け説明会「予定ない」

 大間町の対岸の函館市では、市民の間で大間原発への不安が高まりつつある。

 大間原発で使うMOX燃料は、放射能が強いプルトニウムを多く含む。脱原発を目指す市民団体「原子力資料情報室」(東京)は「重大な事故が起きれば、通常の原発の二倍の距離まで放射能の影響が及ぶ可能性がある」と警告する。函館海洋気象台によると、五月から九月にかけて大間方面からの東南東の風がよく吹く。

 市民団体「大間原発訴訟の会」(事務局・函館)は、大間原発の設置許可を取り消す異議申し立てを昨年六月、経済産業省に行った。申立人には全国から約四千五百人が参加、うち二千百五十四人を函館市民が占めた。

 同会代表で、函館市内の商店経営竹田とし子さん(60)は電源開発に、住民向け説明会の開催を粘り強く訴え続けている。「事故があれば函館にも被害が及ぶのは明らか。最も甚大な影響を受けるのは若者や子供たちです」

 これに対し、国は「防災対策を重点的に充実すべき範囲」(EPZ)の基準を、原発の周囲8~10㎞としており、函館はEPZの対象外とする。電源開発は「今後も函館の市民向けに説明会を開く予定はない」(本社広報室)という。



「プルサーマル 北電は来年度実施」

 日本政府はエネルギーの自給率を高める目的で、原発から出る使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを取り出し、燃料として利用する「核燃料サイクル」を国策とする。

 プルトニウムをウラン酸化物と混ぜて作ったMOX(モックス)燃料を、普通の原発で使うのがプルサーマルだ。18日現在、地元了解を得て2010年度の実施を予定する原発は、北電泊原発3号機など7社9基ある。

 国がプルサーマルとともに目指すのが、消費した燃料以上のプルトニウムができるとされる特殊な原子炉「高速増殖炉」の開発。しかし原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)は1995年に事故を起こして長期停止中で、実用化のめどは立っていない。

 米国ではオバマ政権が、コストや安全保障の観点から、使用済み核燃料の再処理施設と高速炉の建設中止を決めている。

 日本では、電力会社が主要株主の日本原燃が青森県六ケ所村に、建設費2兆1930億円をかけて使用済み核燃料再処理工場を建設、06年3月に試運転を始めた。同工場の今後40年間の再処理にかかる費用は約19兆円と試算され、電気料金に上積みされる。


(鳥取共生動物市民連絡協議会ブログ「鳥の広場」からこの記事を転用させていただきました。)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
http://ameblo.jp/ooma/

「小笠原厚子さん講演会」

2012-10-08 16:32:34 | 私と福祉とであいの旅
10月8日(月)快晴

 お休みを頂いて「小笠原厚子さん講演会」に参加してきました。大間原発の炉心から250メートルしか離れていない土地を盾に、孤立無援の戦いを続けて来られた「故熊谷あさこさん」とその意志を継承して今も「くまがいああさこはうす」を中心に、「原発はいらない」ことを明確に主張し続ける小笠原厚子さんのお話はとても心を揺さぶりました。
 
 20人ほどの学生さんから年配の方々、特に女性層が多い講演会でした。
 昨年「札幌レラの会」の紹介でくまがいあさこさんと、この絵本の存在を知り、その内容を地域交流祭りでスライド上映をしたのがきっかけです。
 その絵本の作者(絵画と文章)のお二人にもお会いし、お話しをすることができました。そして何よりも、くまがいあさこさんの娘さんの小笠原あさこさんが私の目の前でお話をされることの臨場感が一番の感動でした。
 くまがいあさこさんは、町議会や商工会議所など町民のほとんどが東電の側につくことが町の発展につながると、賛成派に回って彼女を村八分にして行ったそうです。
 そのような中、彼女はその間一貫して最後まで、人間の本当の豊かさはお金や便利な生活ではなく、大間の豊かな自然を将来の遺産として子や孫にそのまま残したいという主張でした。
 
 おがさわらさんの講演の後で、あさこはうすの現状の写真を見せてもらいましたが、土地や建物がフェンスで囲まれて、まるでオリの中に閉じ込められているかのようでした。更に驚くことには、あさこはうすと原発の炉心までの距離がわずかに250メートルしか離れていないことが、大きなショックでした。

 小笠原さんは月の半分を函館からあさこハウスに通ってきており、更に見学者があるときはまた函館から来て説明対応をしているとのことでした。

 政府は福島原発事故が起きた後、2030年までに原発ゼロにすると宣言しながら、先日はそれを撤回するかのように、大間原発は別と工事を再開しているのだそうです。

 小笠原さんは最後に、この大間原発を廃炉に持ち込むことを最終目標と同時に、この場所を子供たちのために動物や昆虫、豊かな自然を残す楽園にしてゆきたいと結んでいました。

 広島・長崎への原爆投下を受けた世界の中でも唯一の被爆国日本が、全国に52機もの原発をアメリカなどの言いなりになって、それが豊かさと便利さの象徴として整備し続けて来たのです。福島原発事故はその結果として、一瞬にして多くのいのちと人々の故郷を失うことになったのです。それでもまだ、日本政府は青森県の大間原発の工事をやめようとしないのは、許されない暴挙です。

 大間だけの問題ではなく、また青森県だけの問題でもない。対岸の函館・北海道はもとより、地球規模のこの災禍をまた再び人間が起こそうとしていることを、許してはならないのです。大間を始めとする下北半島のみの問題ではないことを、もう一度青森県民は自覚するべきです。食糧自給率120%以上を確保している東北は、日本の台所なのに、今またさらにその汚染が広がれば何処から調達するというのでしょうか。

 そういう思いを抱く講演会でした。そしてこの「あさこはうす」の使用頻度が生活権を問われ、土地の強制収容につながらないためにも、あさこハウスへの葉書や手紙を出し続けようという運動が続いています。
 
 関心のある方、応援したいという方は、ぜひインターネットであさこはうすの記事を見るなり、はがきなどを出していただければ幸いです。カンパも受け付けています。

 「あさこはうすのかい」
 代表(地権者) 小笠原 厚子(おがさわらあつこ)
〒039-4601 青森県下北郡大間町字小奥戸396 あさこはうす
郵便振替 番号【02760-3-66063】 加入者名【あさこはうすの会】
 

 
 
 【参考】大間町の原発建設予定地に畑を持ち、一人だけ土地売却拒否を貫いた同町の漁業、熊谷あさ子さん(昨年死去)をモデルにした絵本「風の中を今日も行く-ハルコおばさんの願い」が出版された。

 文は、つがる市の小学校教師、前原あやさん、絵は弘前市のYOSHIKOさんが担当した。

 大間原発計画に対し、漁民や地権者が次々と容認に転じる中、熊谷さんは「大間の海と自然を子どもたちに残したい」との信念で土地を明け渡さなかった。絵本は、生前の熊谷さんからの聞き取りなどを基に構成。熊谷さん(ハルコおばさん)の“反原発”をめぐるさまざまな出来事を、熊谷さんの視点でつづった。

 絵本づくりのきっかけについて、前原さんは「彼女の姿にひかれ、その感動を子どもたちにも伝えたかった」、YOSHIKOさんは「大間の自然を守ろうとした彼女の生き方に感動した」と話している。「風の中を…」はB5判三十ページ、千五百円。太陽への道社発行。
(東奥日報社記事から掲載)
 

 

「弘前マルシェ・・・弘前中央食品市場・・・2013年の手帳」」

2012-10-07 16:59:21 | 一歩二歩、散歩~横道
10月7日(日)
 
 弘前駅前から土手町へつながる散歩道に、わが法人の事業所「ゆいまある」が出店している。農家の野菜、果物、りんごジュースやスープ、食べ物など「FOREST・弘前マルシェ」の出店テントが立ち並んでいた。

 お天気もよく家族連れが散歩しながら買い物を楽しんでいた。

 

「ゆいまある」のパンが「弘前医療福祉大」の学生とのコラボで、このマルシェ市場に出店計画を進めて、今週が3日目?かな・・。

 
 家内と二人で見にゆくと、写真のようにお客さんが次々と訪れていた。


 隣のお店では野菜やかぼちゃスープが売られていたので、飲んでみたがシンプルでうまかった。 この弘前マルシェは日曜日のみの出店なので少し残念な気がしたが、何事も継続こそ力だと思う。

 店の場所を固定しない方法で商売をする可能性を様々な形で展開できるということは、いろんなヒントがそこに詰まっているわけだ。コンシューマーの気持を探るにはいい機会だと思う。
 わが法人のパン部門はこのところの暑さも手伝って苦戦してきたが、間もなく移動販売車を導入して行こうということになっている。そういう意味ではこの方法は刺激的である。

 私は同じ旧岩木町でお花屋さんをしている店があり、そこで秋のお花を楽しんだ

 金木犀の花はさすがに久しぶりのご対面でいい香りを出していた。この香りを例えるのは難しい。

 これは「ワレモコウ」の花で、家内はこの花を気にいって買って帰った。

 この後土手ブラをしながら、昼食時間となって「弘前中央食品市場」へと足を向けた。

 


 この日は「のっけ丼」と言って、並んでいる店の惣菜とご飯を購入して丼に乗せてもらい食事をするというスタイルの食事を楽しんだ。私は煮干し出汁でしょうゆのシンプル半ラーメンとヒラマサ・マグロ・イクラのお刺身を乗せてもらった。

 家内はご飯とイカメンチ・ごぼう味噌である。青森市の駅前の地下市場でもこれをやっているのは知っていたが、弘前市で体験できるとは知らなかった。でも見ていると結構家族連れや恋人同士?で楽しんでいた。

 

 「ボヌール」とはどういう意味か知らないが、わが法人のパンの事業所「cona」と同時にグッドデザイン賞とかをもらっている場所のようだ。古い市場もデザイン一つで、観光客のみならず地元のお客を集めたりもできる可能性を示している。

 食後はまたブラブラと土手町を歩きながら、「紀伊国屋」書店に足を踏み入れる。しばらくこの店に来なかったので、読みたい本がたくさんあって、衝動買いをしている。
 浅田次郎著「赤猫異聞」と藤沢周平著「「海坂藩大全」上下巻、そして2013年のスケジュール帳を今年は1ヶ月早く購入している。

 食欲の後は読書の秋というところか・・・本を読む気分が暑さも収まってようやく湧いてきたのも事実という実感である。

 一日スライドしての娘たちの週末の帰宅時間が近づき、帰途についた。


 

弘前市サイクリング協会主催「ちょっとラン」参加

2012-10-07 09:53:13 | サイクリング
10月6日(土)

 昨日は久しぶりのサイクリングの予定で出発の午後1時を待った。しかし、朝から度々雨が降って、こりゃダメかと思ったのが1時15分前。事務局に電話で聞くと、きょうはサイクリングは中止で、宿泊所で宴会をするので午後4時に集合とのこと。がっくりして、会長宅へ向かう。80歳を過ぎたサイクリング協会会長と奥さんを乗せて、岩木山東山麓にある「北小苑」を目指した。
 畑のりんごも色づいて、美しい季節である。空はもう晴れ上がって、悔しいくらいにお山も輪郭がすっきりして美しい。
 目的地につくと既に先行の3名が、バーベキュー棟で炭を起こして待っていた。
 この宿泊所はコテージ3棟があり、温泉も同じ敷地にある。概観からは今までわからなかったが、中に入ってみるとなかなか素晴らしい建物であった。
 ワイワイとサイクリングの話から、中国と韓国、果てはロシアとの北方領土問題にまで話題は発展する。
 私はひたすらバーベキューの焼き方に専念する。何しろ60歳のワタシと55歳の方が一番若いほうで、会長は80歳で、皆先輩である。結局バーベキューの場所から宿舎に場所を移して、12時までワイワイと酒を飲み、会長から「若者(ワゲモノ)はやぐ寝ろ、騒がしい(さしねぐて)眠れねえ!とお叱りを受けて寝た。
 写真は朝食会場に活けられてあった「フォックスフェース」という果実である。
 外に出ると池にはアイガモが数羽飼育されていて、面白い看板があったので撮影する。


 アイ。カモるな!(ワタシを構うな)というジョークでの津軽弁であった。

 再来週の20日は、市役所から岩木山岳温泉青少年スポーツセンターまでのサイクリングと、キャンプが予定されている。

 帰宅の途空は晴れ上がり、道路は「アップルマラソン」の大会関係者が交差点などで、コース案内の準備をしている姿があった。昨日これくらい晴れていたらどんなに気持ちが良かったかと、二日酔いの残る頭の中で思っていた。

~ホップ・ステップ・ジャンプ~飛翔

2012-10-05 06:25:22 | 私と福祉とであいの旅
10月5日(金)

 標題の「ホップ・ステップ・ジャンプ」は三段跳びの時に用いる言葉ではあるが、わが法人の三題噺によく私は使用している。

 パン工房「ゆいまある」(就労継続支援B型)がスタートする前に、障害者自立支援法の事業移行が求められた。いわゆる旧法(知的障害者福祉法)上の旧体系施設から新体系施設への移行を25年3月までに終了しなければならないことになった。わが法人は既にパンでのB型移行を決めていたことから、5年前に移行を済ませるために動いた。それは県の新体系移行の準備金として基盤整備事業の費用20,000,000円を申請することだった。しかし私達がそれを行うためには土地、建物、資金の3本がなければならなかった。
 結局これまで付き合いのあった銀行に、融資をお願いして見ることにしたのだ。それまでの店舗はバイパスの反対側にあるために、旧道(バス通り)は人通りが少ない上に、目立たないことから、パンは美味いと評判は得ていたが売上が低迷していた。
 そこで旧JA支所がバイパスと求道の合流地点にあり、その店舗を取得して県の補助金をいただくことで計画を進めたのだ。
 しかし銀行側としては20,000,00円を配送ですかとかしてくれるわけではない。担保物件はありますか?ということが最初の壁である。社会福祉法人が施設の不動産を担保にしてはいけないことになっている以上、希望は絶たれるかと言う寸前まで行った。当時の支店長さんが私のこれまでの法人の歩んできた歴史とこれまでの実績、今後の方向性として厚生労働省が進めている方策(制度)と我々の進む方向は一致していることによる将来性を熱を入れて説いた。
 このことがあって初めて銀行側がわが法人の将来性を担保に16,000,000円を貸してくれることが決まった。JA側への交渉も土地建物合わせて16,000,000で売ってくれることが決まったのである。そして件の県が基盤整備事業補助金交付を決めてくれた。これが三段跳び伝説である。
 そして今回はまたそれに近いというのか、それを超えたといえるのかもしれないお話。
 小学ではあるが社会福祉法人 抱民舎にエールを送ってくれる団体が2団体寄付金を申込をしてくれた先週、そして昨日は県から基盤整備事業(10分の10補助)が採択内示の通知が来たのである。
 生活介護「であいの家あうん」の生産活動をしているグループ(広汎性発達障害のメンバー等14名)の作業棟増築計画である。申請までに2週間を切っていたので、担当のH課長は苦しんだかもしれない。図面を書いていただく設計屋さんも、これまでのわが法人の経過を長年理解してくれている方である。市の意見書を書いていただいて、ようやく県への提出が間に合ったのである。
 しかし、以前に一度頂いていることもあり、優先順位からは遠いと思われた。それがこの内実裡である。思わずH課長は狐に化かされたような表情で、「ウッソー?!」とのたまう始末。
 来年度からの新事業がこうして決まったのである。
 まだまだ私達が準備しなければならない仕事が山積みである。重度障害のメンバーに月3,000円の賃金を14名に支払うことをまず最初の目標に掲げているのである。しかし私は目標が決まってさえ入れば、どんなことでも怖いものはないと思っている。如何にチームが一丸となって役割を果たすかということが大切なのである。
 目標を明確に持つこと。これが私達の法人のこれまでの実績につながっているのである。恐れることはない、社会的なマイナス評価こそ、わが法人のプラスステップの前段のである。ピンチの後のチャンスを私たちはものにして今日はある。

ブログの開設~2100日目

2012-10-02 06:26:32 | つれづれなるままに
10月2日(火)

 一昨日横浜市のすずき画伯からお電話をいただき、その話の中で画伯はブログ開設から2500日目ということだった。私はどうかと思って見なおしてみたら、きょうがちょうど2100日目と記されていた。計算すると6年近くもこの「夢発電所」は続いたことになる。画伯は私よりもさらに7年近い間継続されているのだ。
 そして画伯とはこのブログを通じて言葉を交わすようになって、3年ほど前にお目にかかることができた。ご縁で弘前で個展も開いていただき、ご夫妻でおいでいただくことができた。2年前には私たち夫婦が横浜に出かけて、画伯とお目にかかることができた。
 いつも画伯の温厚な姿勢に敬服し、画伯の描かれた油絵に心癒されている。
 長い人生の中では、神様がこんなあったかな出会いを準備してくださることもあるのだと感謝している。

 ところで写真のナスはどういう意味かといえば、「秋ナスは嫁に食わすな」という諺があるが、「秋です」と言いたかっただけなのです。

 このナスは長いナスで、一番上の丸まっているナスは、腕に絡まってアクセサリーにもなりそうなナスでした。

 蒸かしても焼いて煮てよし秋茄子(なすび)

 

10月・October・神無月

2012-10-01 07:01:28 | つれづれなるままに
10月1日(月)

 台風17号が強風を伴って日本列島を縦断していった。収穫前の作物(稲・りんご)は大丈夫だったのだろうか・・・?
 隣の町会長宅では、りんごを手広く行なっている。家族総出でりんご・つがるなどを台風が来る前に収穫しようと忙しそうだった。
 昨日は十五夜だったが結局お月様は雲の中で、拝むような雰囲気でもなかった。町会の十五夜の行事が集会所で開催されたはずだが、多分獅子踊保存会が中心になって、宴会だったろう。私は法人事業所全体の「総合防災訓練」で、夕方4時から7時まであうんに詰めた。
 それにしても、もう10月である。あと2ヶ月もすれば雪景色が広がっているはずなのだから、何となくうら寂しい気分も何処かにある。
 今月は地域生活支援棟の改修工事が終了予定であり、県に申請した「基盤整備事業」の採択結果が出る予定で、それなりに気分忙しい。