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生きる価値観について

2007-01-02 18:19:05 | 福祉について
 「生きる」という語彙を「生きている」という生命反応をも含めた概念で捉えきれないでいる。しかし、具体的なイメージとして、現状の社会生活上のマイナスエリアに位置されるものの対象に、「障害者(重症心身障害児)」「ハンセン病」「HIV」などが仮にあるとすれば、「生きる」ということの定義は何かということを考えないわけには行かない。「生きる」ということと、「生きている」ということ、そして「生かされている」ということには、それぞれ微妙に相違点がある。いや微妙などというべき表現では足りない何かがそこには存在している。
 「生きる」ということはそこにはその生命体の意志が存在している。
 「生きている」ということは、自分の意志に関わらず、他者の意志(介入)によって呼吸をしている状態をも含まれるということだ。
 「生かされている」という状態は更に深刻で、人間としての尊厳をもある場合否定された状態をも含まれてしまう。
 ハンセン病やHIV患者にとって、社会の無理解によって遺棄(ネグレクト)され、社会全体に影響のないエリアに隔離される可能性を持っている。
 重症心身障害児の場合は、本人の意志表現能力の限界がある(重度の知的障害によるコミュニケーション困難)ために、ケアする側の価値観によっては、その生活の主体が大いに犯され、ある場合にはそのものの生活が「生かされている状態」に制約される可能性を持っているのだ。
 私はこの重症心身障害児の生活環境として、国策である旧国立療養所の重症心身障害児病棟の中に、その価値観を見ることができると考えている。医療的な人件費をはじめとする費用効果は在宅生活をする重症心身障害児の費用効果と比べれば格段の差になるほどの高額が支払われながら、実態としての個々の重症児への生活対価がどれほどのものかは見学すれば一目で誰にでもわかるであろう。
 私は成人した重症児への取り扱いの価値観の低さに驚愕しないわけには行かない。そしてそれを奇異として捉える人がどれだけいるのかを思うとき、思わずその人々の前で涙するしかなかった。そしてその保護者が、是としないまでも、否としないでそこに委託せざるを得ない状態を悲しまざるを得ない。
 ・高いベッドの柵の中に寝かされ、鍵をかけられている。
 ・毎日寝ている場所が変わってしまう。
 ・一つの空間に80人近い人が過ごしている。
 ・一人一人の欲求のうめき声が終日すべての人の耳に届いている環境。
 ・その人の能力に関わらずに、オムツを当てられ、決められた時間におむつ交換をする。(他人の眼などお構いなく裸体を曝け出している)
 ・名前は呼び捨てで、子ども扱いしている。
 ・パジャマなど看護する側の都合で「重心」などと書かれたものを着せられている。
 ・何よりも個別の生活環境(プライバシーも含めた)がここには何もない。
 ・保護者が本当の思いを看護者、介護者に言える状況がここにはない。

 私は今福祉の先進国というこの日本で、この重症心身障害児の笑顔の中身がこの「生きる」をイメージする為のスケールといわざるを得ない。そして、親達をはじめとする保護者と第三者期間が入り込める環境を早期に設定しなければ、この人たちの人生の質や生命の質は限りなく辛い位置に制約されるのではないかと危惧する。
 重症児を守る会や親の会があっても、ここにはそれらを改革するエネルギーが感じられない。

 

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