夢発電所

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小さな旅3「義経寺・竜飛岬」

2011-12-03 11:19:27 | つれづれなるままに
12月2日(金)晴れ 気温1℃
 浅虫温泉を9時に出て、真冬の竜飛岬を目指して移動した。途中蓬田村の道の駅に立ち寄り、海沿いの店らしく魚が並んでいたり、海産物が珍しかった。カワハギ、イナダ、イカ、鮭、アジ、クロソイなどが並んでおり、目を楽しませてくれた。驚いたものはおにぎりで、普通のおにぎりの二倍はあろうかというサイズが4種類ほど並んで150円以内で購入できるのである。
 野菜もとれたてのものが多く、お客たちもそれを知ってか結構な出入りであった。食堂もあり、ラーメンを食べればライスは無料で、おかわり自由でもある。この魅力に勝てずに、少し我慢をしても龍飛岬の帰りの昼食をここで摂りたいと思ったのである。
 この日は時折小雪がぱらつきはしたが、海は穏やかでマグロ釣りの船だろうか出漁している姿が何艘も見えていた。

 竜飛岬に行こうと思ったのは、義経寺を訪れたいという思いがあったからである。そして来年はいよいよ私の干支である「辰年」でもあり、義経寺を詣でるのもそのことに拠る。
 それにしてもこの日の天候のせいだろうか、津軽半島は薄暗く寒さが身に染むという感じがぴったりのエリアである。

 2015年いよいよ北海道へと新幹線を走らせようと、着々と工事が進んでいた。「奥津軽駅」という看板が掲げられているのだから、そういう名の停車駅ができるらしい。4年間でできるのであればそんなに先の話でもないのだ。また青森は通過駅になるのだろうか。


 
 ※竜飛崎(たっぴざき、たっぴさき)は、青森県東津軽郡外ヶ浜町三厩龍浜にある、津軽半島の最北端、津軽海峡に突き出た岬である。

 「竜馬山観世音縁起」は、以下のように伝える。
義経は、日頃身につけていた観音像を波打ちぎわの岩の上に置き、海上平安の祈願を込めた。こうして三日三晩一心に普門品経を唱え続けると、暁の頃、長い杖を手にした白衣白髪の老人が姿を現し義経に告げた。
「汝の願いを聞き届け、三頭の神通力を備えし竜馬をつかわそう。これに乗り海を渡るべし」
これぞ観世音のお告げと義経は感涙し、感謝の祈りを捧げた。
やがて岩から降り、近くの岩窟の近くへ来ると馬のいななきが聞こえた。中を覗くとそこには見事な駿馬が三頭つながれていた。ふり返って海を眺めると、あの荒れくるっていた海がいつのまにか嘘のように静かになっていた。
こうして義経一行はこの駿馬にまたがり、無事に海峡を渡ることが出来たと…。この岩窟は、馬一頭が十分入れる大きさであり、丁度三つ並んでいる。三厩の地名の由来と云う。
三厩岩(みんまやいわ)

 義経寺観音堂

一方、義経が岩の上に残したとされる観音像は、寛文7(1667)年、当地を訪れた諸国行脚の僧円空により発見された。円空は新たに観音像を彫り、発見した義経の持佛とされる観音像をその体内に納め、一草庵を営んだ。義経寺の起こりである。又、この観音像は、現在青森県重宝として文化財の指定を受けている。
義経一行が、観世音から授かった駿馬に乗って津軽海峡を渡ったとは、いくら伝承でも荒唐無稽に過ぎる。一方、伝承通り(?)に観音像が発見されたという話しも無視できない。
この伝承は、義経一行が海上平安を祈願した後、三艘の船に乗って津軽の海を渡ったと解するべきか…。
津軽半島の対岸下北半島にも、義経北行伝説は残されている。
曰く、北海道へ渡ろうとした義経一行が、潮の流れで下北半島は脇ノ沢村に流れ着いた。その際、常陸坊海尊が義経を案内したことに因んで常陸石、並びに海尊社があると…。




又、江戸時代の紀行家、菅江真澄の紀行文「遊覧記」にも、義経北行伝説が取り上げられている。即ち、下北半島の北端佐井村の海岸から、義経は夷狄島へ橋をかけようと材木を牛に引かせて集めさせた。あまりにもたくさんの大きな材木を集めさせられたので、牛は疲れて倒れてしまった。この牛が倒れた所が牛滝であり、材木が石になって材木石になったと…。佐井村の景勝地「仏ヶ浦」に伝わる義経北行伝説である。
一見他愛もないこれらの伝承は、鎌倉時代に北海道へ渡ることは容易なことではなく、それ故に寧ろ、三厩から北海道へ渡ったとされる義経北行伝説を裏付けているとは考えられまいか?

 義経北行伝説の足跡を追う!(青森県編)よりコピーする

 十三湊を後にした義経一行は、夷狄島(北海道)の山々が目前に見える津軽半島の三厩へとたどり着いた。そこは人を吹き飛ばさんばかりの強い風が吹き荒れ、津軽海峡の潮の流れが恐ろしい勢いで流れる海の難所であったと云う。

 

 記憶というものは曖昧なものだと思う。竜飛岬には少なくとも5回は足を運んでいるが、今回車を走らせてみれば全く記憶にない風景が多かった。 それにこんなにも道が狭かったのかすら、記憶になかった。

 冒頭の船は三厩漁港のイカ釣り船である。
 伝説とはいえ、三厩石のそばには義経渡道記念碑が建立されていた。


 180段の階段を登って、義経寺に到着した。山門をくぐると、左手にはユーモラスな龍の口から水が流れ出ていた。

 

 この義経寺は高台に建っているが、遠く北海道/松前町の白神岬も眺めることができた。


 義経伝説は夢と浪漫のある話ではあるが、私は円空そのものに興味と関心があった。
 しらとり農場と縁のある市浦村の大工さんが、未発見だったという円空が彫ったという仏様を発見した人だったからである。
 東京・上野国立博物館で阿修羅像を見たおり、円空作仏像を見たが、時代を超えて円空の技量を知識などなくても分かる作品であった。

 寒さと180段の階段はきついものがあるが、観光客など姿も見えない小寒村の旅は心地よいものがある。 
 
 三厩村の義経寺を後にして、この旅の最終目的地「龍飛岬」に向かった。この時期の県内の道路は至る所舗装工事や、法面道路工事などが行われているために、片側通行でたびたび信号待ちしなければならない。出稼ぎをする必要がある人々にとっては、寒さはあっても遠隔の地まで働きに出なくても良いということは何よりかも知れない。
 
 お昼を過ぎて竜飛岬の頂上駐車場に車を滑り込ませた。一瞬だったのかも知れないが、日本海、津軽海峡にお日様が差して凪いだ海に漁船が20隻くらいだろうか、無線を使って走りまわているのが見えた。大間のマグロだけがすっかり有名になっているが、こちら外ヶ浜のまぐろだって同じエリアの海に生きているのだ。大間原発などを考えれば、むしろ安全性はこちらのほうがあるのかも知れないなど思いながら、冬の美しい日本海を眺めていた。

 

 龍飛といえば「強風」なのだが、この日は以外にも風は弱くウインドパークに見える風力発電のプロペラも回りはするも、少しゆっくりと感じた。

 来年の干支はといえば、そうです私の干支でもある「龍」です。いよいよ還暦ですな・・・。22歳の別れという歌はありますが、59歳の別れもなんだかうーんと年取った感じがしますなあ。伊能忠敬の56歳からの16年間を思うと、少しだけ勇気がわきます。
 私も新たな目標を見出して、何とか親父の行年を超えてみたいと思う年の瀬です。

 義経寺の高台に立ち見下ろせば寒村の中海猫のみぞ鳴く

 

 


 






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