音楽は語るなかれ

音楽に関する戯れ言です。

アーク・オブ・ア・ダイバー (スティーヴ・ウィンウッド/1981年)

2010-11-04 | ロック (イギリス)


スティーヴ・ウィンウッドは音楽界の中にあって、所謂、玄人好みのいうなればいぶし銀的存在である。イギリスのミュージシャンで1940年代後半に生まれたポジション的には可なり微妙なところにいながら、常にその存在感は大きく、大スタアという訳ではないのだが、常にその近隣に居て、まさにプロのミュージシャンという言い方がピッタリの人である。ホピュラー音楽が英米共にヒットチャートの中心となって来たのが1960年代中盤である。ビートルズの「サージェント・ペパーズ~」や、ストーンズの渡米、そしてアメリカでもワイド島を始めとした新しいムーブメントが動きつつあった頃、彼は10代そこそこで数々のバンドに参加。兄であるマフ・ウィンウッドがジャズ・ミュージシャンという追い風もあったが、彼はそんな中でルックスも併せて何処か象徴的な存在だったという。今でいうアイドルだったのかもしれない。多くの大物ミュージシャンにも可愛がられ、B・Bキング、チャック・ペリー、ジョン・リー・フッカーなど錚々たる大御所ミュージシャンに可愛がられバック演奏を務めた。彼が表舞台に出てきたのはトラフィックの結成と、その途中であのエリック・クラブトンとセッションしたブラインド・フェイスである。ブラインド・フェイスは、彼ら以外に、ジンジャー・ベイカー(d)、リック・グレッチ(b)に、エリックのギターとスティーヴのキーボードで、彼はヴォーカルも務めた所謂当時のスーパー・バンドであったが残念なことにアルバム1枚の発表で解散。しかし、このバンドの名声を携え、再びトラフィックに戻り、このバンドもスティーヴが在籍しているということで話題になった。

トラフィックを解散したのが1974年で、その後はセッション・ミュージシャンや音楽プロデュースを行ったり、あのロックオペラアルバム「トミー」にも参加。また、ツトム・ヤマシタとも共演し、音楽的な実績を積んで、いよいよ1977年にデビューアルバムを発表。当時はパンクブームで、音楽的に質は高くとも、刺激的な部分が少なかったこのアルバムは余り話題にならなかったが、彼の知名度は高く、イギリスよりもアメリカではそこそこ話題になりヒットチャートも上がった。そして、この1981年に発表された作品でその名声が一挙に花開く大ヒットに繋がるのである。この作品は、まずシングルカットされた「ユー・シー・ア・チャンス」が話題となったが、当時ムーブメントでもあった二ューウェープ的な要素も取り入れてあり、また、スティーヴ特有のキーボードサウンドは当世の音楽を象徴している様なサウンドと、独特な彼のヴォーカルは新しい刺激としても全米に伝わった。今まで、なんでこんな凄い人が前面に出で来なかったのだろうていう感想も多かったが、一方で私的には当時、余り商業音楽に乗っかってしまい、この後の彼の音楽活動に影響するのを恐れていた部分もあった。しかし、さすがにこのくらいのミュージシャンになるとその辺りは落ち着いていて、この作品のヒット云々で彼の本質的な音楽は変わることがなく、逆に時代がその時々で彼の音を求めた際にはしっかりと受け入れてくれる度量の大きさとでも言うのであろうか。そういう部分がこの人にはあり、この後もヒットチャートを賑わしたり、そうではなかったりを繰り返すが、彼自身の音楽指向は全く変わることはなかった。

こういうミュージシャンは本物だと思う。そして、時にはプロモーターの思惑ほはずして、こういう人がとんでもなく売れていまうというのは大物ミュージシャンにも多く、実はその先駆けとなったのも事実で、1990年以降、メジャー音楽が方向性を失いつつある度にビッグアーティストが突如再起したりする、それで音楽産業を保つということが可能であるというヒントをこの時点で業界に与えてしまったことも大きい。こういうプロ中のプロにポピュラー音楽産業は支えられているのである。


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