世界は苦しんでいる。ウクライナで、ソマリアで、パキスタンで、アフガニスタンで、人々は戦争で殺され、飢えと栄養失調で死に、洪水に続く疫病に倒れ、人間として生きる権利と自由を奪われて苦しんでいる。そしてこれだけでなく世界中いたるところに、貧困や差別や暴力は蔓延している。
ブリジット・フォンテーヌはすでに1969年に代表作「ラジオのように」で歌っている:
・・・この瞬間に、何千匹もの猫が道路で引き裂かれている。この瞬間にアル中の医者が若い娘の上に屈みこんで「くたばるんじゃないだろうな、このアバズレめ」と罵っている。・・・この瞬間に何万人もの人が「生きることは耐え難い」と思って泣いている。この瞬間に二人の警官が救急車に乗り込み、頭に怪我をした若い男を川に放り込んでいる。・・・
・・・世界は寒い。人々は気付き始めた。世界があまりに寒いので、あちこちで火災が発生している。・・・
あの頃ぼくはこれを聴いていて、世界全体が夜の闇に包まれ、その中で音もなく燃え広がっている真っ赤な炎を、ありありと思い浮かべたものだ。
宮沢賢治は宣言している:
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(「農民芸術概論綱要」)
それならば、世界が苦しんでいる今、ぼくたちの個人の幸福はあり得ないのではないか? ぼくたちも苦しまなければならないのではないか? 少なくとも、世界の苦しみを自分自身の苦悩として引き受けるべきではないか?(賢治は引き受けようとした。)
これが、ここのところずっと、ぼくの心に棘のように刺さっている問題だ。