すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

ヴォイス・トレーニング

2018-12-20 20:42:31 | 音楽の楽しみー歌
 半年ぶりに先生のところに行った。「人前で歌うのをやめたし、歌うのを楽しむというだけなら、もう自己流でいいかな」と思っていたのだが、この頃ちゃんと練習しなかったせいか、自分の声がどんどん出なくなってきているのが自分でわかった。このまま衰えていってしまうのは、まだちょっと残念な気がした。
 先日、広瀬敏郎さんにお会いした時に、「練習してますか? 5日練習しないと声は落ちますよ。続けた方がいいですよ」と言われたのが心に懸かってもいた。
 今は、フルパワーでの練習が、少ししにくい環境で暮らしている。以前、保土ヶ谷の林の中の一軒家に住んでいた時は、声は出し放題にしていたのだが。(林の中、と言ってもお隣さんはいるわけで、何時だったかバス停で会ったときに、「ご迷惑をおかけしていませんか?」と訊いたら、ケラケラと笑って、「あら、いいのよ。犬の散歩に行くから」と言われた。「そうか、ぼくが練習を始めると犬の散歩なのか」と思った。)
 今の所は、小さい防音室を作ってもらったはずなのに、構造上ドアはスライド式ではなく開き戸で、したがって上下に隙間があって、ご近所よりは家族に気を使わねばならない。隙間テープをびっしり張っているが、それでも気になる。ぼくだけそういう部屋を作ってもらっているのだけでもありがたい限りなのだが。
 というわけで、いつの間にかだんだん声を出すのが少なくなっている。ある日、自分の声が響きが豊かではなく、固く痩せてしまっていることに気づく。またすぐ嗄れもする。 
 先生のところで声を出してみたら、うちで出すのよりはずっと楽に出る。ぼくの先生はご自身は声楽家ではないが、素晴らしい音感の持ち主で、生徒の声をひとつひとつ正しい出し方の方へ誘導してくれる。
 また、先生はいわゆる“褒めて伸ばす”タイプで、今日も「全然落ちてないよ」と言ってくれるが、その言葉とは裏腹に、今日は特に丁寧に根気よく直される。これだけ根気よく直されるということは、実際にはかなり落ちているということだ。
 それでも、先生のところでなら声が出る、ということは、まだ、声を出すための筋肉自体が衰えてしまった段階までは行っていなくて、その筋肉をコントロールして声を出すやり方を忘れてしまっている、ということだろう。まだ、間に合うかもしれない。
 「曲を出してごらん」と言われたが、いまさらオペラのアリアやフランス歌曲を練習しても仕方がないので、ニューミュージック系の「時代」と「いい日旅立ち」と「群青」と「島唄」を見てもらった。前の二つは、とても声が出しにくい。あとの二つの方が、ずっと楽に歌える。先生にもそう言われるし、それは自分でもはっきりとそう感じる。前の二つは、気持ちを入れようとすると、息を無意識にコントロールして押さえてしまおうとするのだろう。
 半年ぶり、でなく、月一回ぐらいは見てもらって、前の二つもちゃんと思う存分に体を使って、しかも優しさをこめて、歌えるようになりたいものだ。
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