すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

トーナメント、やめませんか?

2018-08-22 08:43:15 | 偏屈老人申す
 甲子園が終わった。ここ数日、新聞もTVも、マスコミはことごとく、金足農業ひいきだったように思う。身内が、「そりゃそうさ。大阪桐蔭が勝っても当たり前で話題性無いものな」と言っていた。
 金足の吉田君は甲子園に来てから881球投げたのだそうだ。驚異と賛嘆の目で声援を送りながら、いつ力尽きるのかハラハラしながら見ていた人も多いのではないか。
 と、ここまでは誰でも思うことを書いたが、ここから先は顰蹙を買うかもしれない。
 野球というのは、トーナメントになじまないスポーツだ。勝ったり負けたりするのが当たり前なのだ。プロ野球で独走を続けている広島の現在の成績は62勝42敗、勝率0.596だ。長いシーズンを戦って6割勝てばよいのだ。日本シリーズだって先に4勝すれば、3敗まではしても良いのだ。国際試合ならば、敗者復活戦というのがある。
 トーナメントだけが、すべて勝ち続けなければならない無茶な方式なのだ。目の前に来る試合をすべて勝たなければいけないから、どうしても最も確実に勝てそうな選手を毎回戦わせることになってしまう。その結果が881球なのだ。
 彼は完全に体力を回復できるのだろうか? そのように一人で投げぬいて、肩を壊したり肘を壊したりしてしまった選手は、過去にたくさんいるのではないか?
 トーナメントにこだわらない方法を考えた方が良い。リーグ戦形式にしたら、夏休みだけでは時間が足りないだろう。だったらいっそ、優勝というものにこだわらなければよい。
 ぼくは、甲子園は、高校スポーツの祭典であって、祭典には必ずしも優勝者は必要ないと思う。そこにこだわらなくても、精神も肉体も最高に高揚する祭典というものはできるはずだ。
 56校が参加して優勝を決めるのなら、55試合が行われる。これに対して、例えば、一回戦28試合のあとで勝った者同士、負けた者同士でもう一度くじを引いて対戦相手を決めれば、すべてのチームが2回ずつ戦うことができて、56試合になる。一回戦と二回戦の間には、56校全ての校歌斉唱とブラスバンドの演奏ないし応援のパフォーマンスをする日を設ける。すべてのチームが、自分たちの校歌を甲子園で歌うことができる。閉会式は、オリンピックで行われるように、チームの垣根なしで自由参加でやる。
 甲子園は参加することに意義がある、という意識が定着すればよいのだ。
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