すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

霧ヶ峰(2)

2018-08-06 20:43:20 | 山歩き
 ヒュッテについてお風呂を浴びてから夕方の散歩に出かけた。
 沢渡から喋々深山に向かう、ほとんど人の知らないと思われる(今まで一度もこの道で人に会ったことがない)なだらかな草の丘の道をゆっくり登っていたらふと、「幸福だなあ」と思った。それからすぐ思い直した。幸福というのとは違う。もっと単純な、大きな喜びに、あるいは快楽に近いものだ。
 ぼくは、どちらを向いてもあたりいちめんなだらかな緑の起伏の続く、しかし人っ子ひとり見えない、つまり空に浮かぶ白い雲と草地の間にぼく一人しかいない道を登りながら、喜びがこみ上げるのを感じていたのだ。
 歩くための筋肉以外は体のどこにも力が入っていなくて、気持ちもすっかりくつろいで、肌には高原を渡る微風を感じて、草の間に咲く桃色のハクサンフウロや紅色のエゾカワラナデシコや黄色のコウゾリナや灰色のウスユキソウや白いヨツバヒヨドリを次々に認めながら、アサギマダラの青い透明な羽根を目で追いながら、胸には若い頃読んだ詩の断片などが浮かんでは消えて、ぼくはうれしくてうれしくてワクワクしていたのだ。

 人はある時、自分が今「幸福」だと感じることがある。でも、幸福というのは、その状態に自分を在らしめている諸条件の積み重なりの方を言うのであって、その瞬間に感じているもの自体は、喜びなのだ。
 気持ちの負担だった仕事をやめたこと。夏の数日を涼しい場所でのんびりと過ごすことくらいはできるということ。そうやって歩き回るくらいの体力はまだ残っていること。野の花や草や雲や風を愛する心を若い頃も今も、失くしてはいないこと。どうやら、それをこれからも失くさずにいられるらしいこと。ぼくが地上を離れる前に、これからも繰り返しここに来るだろうということ。
 これまでの人生の大部分を、試行錯誤や迷いや過ちの中で過ごしてしまった、ということ。10歳のぼくからもう一度やり直すことができたら、と何度も思った、ということ。にもかかわらず今は、まあ、これでいいか、と思える、ということ。
 一緒に暮らしている家族のことや、話をしたり山登りをしたりする友人たちのことや、読む本や聴く音楽などのこと。
 そうしたすべてをいわばぼくの現在の地(じ)の部分として、ぼくは喜びを感じながらひとり草の丘を歩く。
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