すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

墓参り

2021-09-27 21:36:30 | 老いを生きる

 足元がふらついて山登りに行けないので、思いついて墓参りに行った。駅から寺まではタクシーで行けるので、用心のためにストックさえあれば大丈夫だ。そう遠くはないのだが、コロナ禍で一昨年の秋以来の墓参だ。
 菩提寺は、武田信玄の墓と夢窓国師の庭があるので今ではすっかり観光寺になってしまった、山梨県の塩山の恵林寺というところ。信玄にも夢窓国師にも関心はないのだが、墓地に行く道の杉木立の間から真正面に乾徳山が見える。ここから見る乾徳山はスッキリと三角に高く、まことに美しい。山号が「乾徳山恵林寺」というのが肯ける。乾徳山はぼくの「ふるさとの山」だ。
 墓地は奥の中央部が石段で小高い平地になっていて、その正面に歴代の住職の墓(「無縫塔」という玉子型の墓)が並び、その左手が樋口の墓。場所だけはなかなか格式のある墓なのだ、エヘン。昔はここはぐるりと林に囲まれていてうっそうと暗く、夏の夜には子供たちの「キモ試し」に最適の場所だった(と思う。臆病なぼくはいちども参加しなかったから)。寺が林を切り払って墓地を拡大してしまったので、昔の森閑とした雰囲気は全く失われ、明るい平凡な場所になった。山が見えるのを良しとしよう。
 墓は二年間ほったらかしになっていたので、前半分はセイタカアワダチソウなどの雑草が茂り放題になっている。そんなことになっているとは知らず、鎌など持って行かなかったので、軍手をはめて引き抜こうとしたら、しっかり根が大きくなっていて、小石を敷いた上に薄くコンクリートを流しているそのコンクリごと抜けてしまう。仕方がないので枯れ茎をなるべく根元から折りとった。後ろ半分は納骨室の平石の後ろに戦国時代からの小さな石塔がごちゃごちゃあるのだが、隣の墓地から侵入した蔓草で地面はすっかり覆われ、蔓は平石にも石塔にも這い登ろうとしている。剝がせるだけは剝がした。年明けには母の七回忌なので、それまでに改めて来て手入れをしなければな。
 うちの墓は、正面中央に明治時代、日本での飛行機の開発期にテスト飛行中に墜落死した大叔父のための大きな石塔が立っている。明治天皇からの下賜金で建てたのだそうだ。「樋口家先祖代々の墓」のほうはその左に小さくなっている。
 右には大きな切り株がある。半分以上はウロになってコンクリが詰めてある。大きな桜の切り株だ。ぼくが子供の頃はこの木はまだ生きていて、といってもさらにずっと前に落雷に遭って幹の半分以上が焼けこげてなくなり、残りの部分でかろうじて生きていて、それでも毎年季節になると花を咲かせていた。その半分だけの姿が無惨で、でも子供心にもけなげに思えて美しかった。
 しかしさすがにだんだん生命力は衰え、枯れ枝が落ちてきて危ないというので、寺からの要請もあって20年ほど前に根元から切ってしまった。そのあと、ぼくはここに来て切り株を見て、故郷との縁が終わってしまったように感じたものだ。
 …さて、うちの墓はぼくの兄弟たちがみんな死んでしまったら跡を継ぐ人はいない。だからまた雑草や蔓草に覆われるだろう。その先は、掘り返されて遺骨は永代供養塔に収められて、土地は更地になってまたどこかの家の墓になることだろう。それを残念なこととは思わない。ただ、骨壺からは出して欲しいな。永遠に閉じ込められるのは嫌だ。
 「死んだらぼくという存在の一切は終わりになる」とふだん思っているぼくの、これは不合理なセンチメンタリズムだろうか? 人は生きている限り、さまざま矛盾した感情を持つ。自分の死のことなどを考えるときは、ますます矛盾した感情を待つ。
 フランス東部のいくつかの礼拝堂の地下墓地で、ペストで死んだ中世の人々の無数の骸骨が積み上げられているのを見た。あれはあれで良い。あれの方が、壺に閉じ込められているのよりは小気味よい。せめてそれくらいは思っても良いだろう。
 境内の池のほとりの精進料理屋でお昼にしたかったが、閉まっていた。この店の売店の草餅はでかくてうまいのだが、そこも閉まっていた。昔はここは寺の経営する幼稚園で、朝は厨子から出された観音様に手を合わせることから始まった。ぼくは胃腸が弱くて町の病院に通わねばならないので中退した。池はその頃は冬には氷が張って、靴でスケートをした。
 タクシーを待つ間、ベンチに腰かけて物思いをした。腹が悪いので十分に食べられず、この寺の参道で祖母に手を引かれて、食べ物のことばかり考えていたのを思い出した。

 

コメント
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