すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

舞岡散策

2019-04-10 22:47:14 | 自然・季節
 最近どうもぼくは鬱々している。
 TVではここ数日、「5Gで私たちの暮らしはどう変わるか」などと言っているが、ぼくたちが加速度的に技術革新を続けて物を売り続けなければ崩壊してしまうような社会・時代にいることは確かだ。
 自分自身のことはともかく(それは、たかが知れているから)、この国の将来、世界の将来、人類の将来のことを思うと鬱々せずにはいられない。
 ぼくにはそういう事柄について自分なりの展望を切り開くことができるような力はないから(まあ、たいてい誰もがないだろうが)、このブログも、すごく中途半端に思えて、そういう鬱々した状態の時には書く意欲がなかなか出ない。
 ぼくがこの頃、この鬱っぽい状態から抜け出せるのは、山を歩いているとき、自然の中を歩いているときだけだ。
 ぼくはそれを、「ふだん運動不足気味で、そういう時だけ体が活性化するのだな」、と思っていたのだが、実はそういう時だけ気分が晴れ晴れするから、体も楽になる、ということなのだろう。

 昨日はぼくの人生の先達のUさんと戸塚区の舞岡の尾根と谷戸をのんびり散策した。
 地下鉄舞岡駅を出て、オオイヌノフグリやタンポポやヒメオドリコソウの咲く田んぼの脇の道を行くと舞岡八幡宮がある。その先を右に折れ、畑の横を通って山道を上がるとすぐ、尾根上の、良く整備された散歩道にでる。真っ青に晴れた空に富士山が優美に輝いている。思わず感嘆の声をあげる。
 道は前夜の雨で桜の花が散って、花びらのカーペット・ロードだ。ウグイスが鳴いている。ウグイスは、行く先々でずっと鳴いていた。声は聞こえど姿は見えないのが常だが、珍しく、枝に止まっている姿が見えた。すぐに飛んで藪に隠れていった。
 いったん畑地に出て、久しぶりなので道を間違えて、引き返してまた山道を辿って、途中で左手の谷戸の方に降りる丘の途中でお昼を食べた。
 ぼくもUさんもおにぎりとサンドイッチとフルーツを持ってきていて、おしゃべりしながらシェアして食べた。Uさんとのおしゃべりは本当に楽しい。ぼくは会うたびにいつも彼女に元気をもらう。
 Uさんの枝豆とゆかりのおにぎりとママレードのサンドイッチ、とてもおいしかった。ぼくのブルーチーズのサンドイッチとチーズおかかのおにぎりは、どちらも本来予定のチーズではないのを使ったため、やや気の抜けた味だった。
 食後は谷戸に降りて散策を続けた。むかし自分が関わった田んぼの跡とか、かつて作業小屋があった丘の傍らに新たに作られた活動センターや、移設された古民家を見て回った。古民家の庭には鯉のぼりが泳ぎ、中には武者人形が飾られ、子供の頃にタイムスリップしたような気持ちになった。
 帰り道の途中の池で、チュウサギが食餌するのを見た。写真を撮る人がいるので人慣れしているのか、歩きながら首をのばしたり縮めたりして、悠然とドジョウ(らしきもの)を咥えて呑み込んでいた。美しかった。
 でも、昨日いちばん心に留まったのは、自然そのものより、そこにいる人間、畑仕事をしている人の姿、谷戸の自然を保つために作業をしているボランティアの人たちの姿、八幡様の前の田んぼ道で遊んでいた3人の幼児とお母さんの姿だった。
 ここには、自然と触れ合って過ごしている、あるいは生活している、そうして充足している人たちがまだいる。

 この社会の行く末を考えて過度に鬱々するのは止そう。
 「暗い予想は暗い現実を実現させる」という。ぼくたちが明るく過ごす方が、未来が少しでも明るくなる、かもしれない。
コメント
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