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東京教組(東京都公立学校教職員組合)

教職員のセーフティーネット“東京教組”

介護保険制度が大きく変わります!

2016年03月21日 | 日記

 保険という字は、危険と保障を合成した言葉とも言われている。介護を受けなければならなくなる危険に対して社会的に保障するのが介護保険制度だ。
 40歳になると結構高額の介護保険料が給料からひかれるが、元気な時は保険料を取られるだけでピンとこない。でも親の介護などを体験すると、この制度の重要性がよく分かる。
 この10年で、国民の3人に1人が高齢者の時代になり、介護が必要な人も75歳以上では30%以上になるため介護保険は年金同様に財政的に厳しくなっている。そのため、介護保険制度も財政的理由から見直され
①給付の重点化と効率化、
②費用負担の公平化(自己負担増)、
③地域包括ケアシステムの構築
が法改正で行われることになりました。

 どのように変わるのか、どんな問題があるのか?
①予防給付(要支援)が廃止されて、市区町村事業に移行される。
 市町村の財政状況や事業方針によって訪問介護やディケア(通所介護)に格差が生じるおそれがある。
 また、市町村の窓口で25項目のチェックリストによるサービスの振り分けが行われ、認知症等の初期診断が困難になる。(窓口に行くときは、必ず近親者が同行して実情を話した方がいいです。)
②給付の重点化と効率化は、負担増と給付抑制につながる。
 特別養護老人ホーム(特養)への入所基準が原則要介護3以上となり、今以上に入所が困難になる。
 収入・資産調査を行い、所得によるサービス利用時の負担率引き上げ(合計所得280万円以上で自己負担1割→2割)、補助対象除外者が増える。
などの問題が指摘されています。
 親などの介護に直面している人は、地元の自治体に予防介護(地域包括ケアシステム)をどのように行うか、地域包括センターはどこにあるのかを問い合わせてみましょう。


原発のない福島を取り戻そう!

2016年03月18日 | 日記

 東京電力福島第一原子力発電所の事故から丸五年が経過する3月12日、五回目となる「原発のない福島を!県民大集会」が開催されました。東京教祖は、第一回目から「福島連帯行動」として、チャーターバスによる参加を続けています。年度末の多忙な時期ですが、今回もOBを中心に25名が参加しました。
 午前8時、新宿西口に集合した参加者を乗せたバスは、一路、会場となる開成山競技場を目指しました。車内では、「チェルノブイリ28年目の子供たち2」と「放射能から子供たちを守れ~福島の闘い」のDVDを見て、福島の現実についての学習をしました。12時前に、郡山市の開成山競技場に到着し、集会に臨みました。
 実行委員長の角田政志県平和フォーラム代表は「本県の原発事故の責任を認め、原子力政策を見直すよう政府に求めていく」と主張した。挨拶にたった「さようなら原発1千万人署名市民の会」の呼びかけ人のひとりである鎌田慧さんは「福島の人々の悲しさ苦しさを自分のものとしてやっていきたい。今は時代の転機です。金とか利潤とか儲けとかそういったものが最大の価値観ではない。そうした集会であり、今日の集会のあと3月26日の東京を目指す『押し出し』です。それは足尾鉱毒事件の歴史に習うものです。県民が社会に向かって訴える。福島の人々の苦しい思いを共有し少しの時間でも参加して欲しい。」と述べました。集会では、被災者や高校生平和大使の発言のあと、東京電力福島第一原発事故を教訓に、県内で原子力発電を将来にわたり実施しないことや福島第二原発の即時廃炉などを訴える集会アピールを採択しました。今回の集会には、県平和フォーラム、県漁連、県女性団体連絡協議会、県森林組合連合会など県内の各種団体で構成する実行委員会の主催。今年で5回目で、県内外から約6千人が参加しました。集会の最後には、「原発NO!」のアピールカードを参加者が一斉に掲げ、「原発いらない!原発なくそう!ふるさと返せ!健康守れ!」などとコールを行いました。集会終了後、参加者は、開成山公園の周回道路をデモ行進しました。


ちょっとお奨め

2016年03月14日 | 日記

最近読んだ本から、ちょっとお奨め本を4冊

街場の戦争論(内田樹、ミシマ社)
 内田が語る、想像力の使い方は、政治、経済、組織論に及ぶ。違う視点で世界を見たとき目が開かれるとは、まさにこのことだと納得する。
 各章は、・過去についての想像力(1942年に降伏・講和していたら…)、・ほんとうの日本人(敗戦を受け止めること、次は勝つ気概)、・株式会社化する日本政治(民主性も立憲主義も意思決定を遅らせるためのシステム)・働くこと、学ぶこと(キャリアのドアにはノブがついていない、ドアが空いたら働く、請われること)・インテリジェンスとは(経済成長は戦争、日本は豊かな国民資源の活用を。スパイの暗躍は平和をもたらす。命より金が大事は平時モードの発想、それこそ平和ボケ)など至言の数々に出会った。
もう一つ、内田の著作。

憲法の「空語」を充たすために(内田樹、かもがわ出版)
 2014年5月3日の兵庫県憲法会議の講演会だ。まさしく、憲法の落とし穴をわかりやすく、目からうろこの論理もまじえて論じた講演。
 のっけから、憲法制定時に日本国民はいなかった。という立論から始まる。確かにそうだ。
 そして、今や日本は安倍政権によって「法治国家から人治国家へ」移行しつつあり、排外主義的傾向、強権的体質、非寛容、暴力性だけを抽出した畸形的なイデオロギーとしてのナショナリズムが、グローバル資本主義を補完している構造だと説く。明快ではないか。

バカになったか、日本人(橋本治、集英社)。
 文学者の時事放談エッセイをまとめたものだが、率直に大震災から憲法改正までに至る危機意識を述べている。誰も望んでいない方向に、議論の仕方を忘れた日本人を導く政治の有り様に警鐘を鳴らす一冊になっている。「私たちに任せておけばいいんです。国民は余分な心配をしなくてもいいのです」という国家秘密法に対する指摘は分かりやすい。

社会を変えるには(小熊英二、講談社現代新書)
 社会変革の良き教科書であり、歴史書でもある。その上で脱原発運動を新しい日本の社会運動の萌芽ととらえ、日本社会を変える鍵の一つがこの運動にあることを解き明かしている。ベック(独)の「リスク社会」を下敷にリスク(人災)に対し責任追及と避難行動に立ち上がる。ドイツでは、緑の党の躍進に繋がったと述べている。「教師の役割は、教師を必要としない人間をつくることだ」は明言である。6章で様々な運動のあり方を紹介しているが、保護から活性化、自発的結社の活用など興味深い。「君たちは自由にやってくれ、お金とチャンスは用意する」という上司は好かれる。「私の仕事は大変だから下働きをしてくれ。だけど勝手なことはするな」という上司は嫌われる。分権を進めて参加をうながしたほうが、正統性が増し、かえって中枢の権威を強める。役に立たない余計者がいて組織は活性化する。効率化し、無駄や異論を排除した組織は、環境の変化や想定外の事態に弱い子とは組織論の常識。世の中にむだな人間はいないのは、プラトン(統治、戦士、生産者それぞれの階級は、その魂がそれぞれの形で現れたものであり、どれも国家に必要で、その調和が正義・イデアの実現)以来の常識でもある。「われわれ」は崩壊し、また創造される。これから社会を変える「われわれ」をどう形成するかを問う力作である。
(オオバギボウシ)


被災者の誰もが取り残されないようなとりくみを続けよう

2016年03月11日 | 日記

3.11東日本大震災から5年が過ぎようとしています。被災地では、防潮堤建設やかさ上げ工事などはある程度進み、新しい街のかたちが見えてきたところもあります。しかし、未だに多くの問題が山積みとなっているのが現状です。特に福島第一原子力発電所の事故のあった福島県では、復興のめどが立っていないのが現実です。避難者数は、昨年9月時点でも23万人といわれ、県外避難者数は、岩手県1,452人、宮城県7,009人、福島県45,735人となっています。今後も継続した支援、とりわけ福島を支援する活動と事業をすすめるとともに、東日本大震災を忘れない・風化させないとりくみをすすめていかなければなりません。東日本大震災の支援では、「被災者の誰もが取り残されない」よう、地域の実情と被災地の要請に合わせた支援が大切です。

私たち東京教組は、「東北を忘れない、忘れさせない!」を合い言葉に、この5年間様々なとりくみを続けてきました。福島については、脱原発に向けた学習会をくり返し行い、さらに福島県民集会には、毎年貸し切りバスで多くの組合員が参加してきました。今年も明日12日の集会に向けて朝8時に新宿をバスで出発します。

 東京教組は、ギリギリまで頑張っている方たちに対して、「がんばれ!」ではなく、私たち一人ひとりの被災地を思う気持ちを届けたいと思っています。今年も昨年に引き続き東京都学校生活協同組合のご協力で、「東北支援企画」を行いました。東北の商品を購入することで、東北の復興を支援する。そして、「お米券」を購入してもらい、福島県の仮設住宅の方たちにお米を届ける。今年も多くの組合員の皆さんにご協力をいただきました。

 東日本大震災は、けして過去の災害ではありません。被災者・被災地は未だ多くの困難を抱え、苦闘中です。被災地を忘れない、東日本大震災を忘れないことが被災地の方たちにとって大きな励ましとなります。これからも一緒に歩んでいきたいと思います。


暴走、迷走、暴言、妄言

2016年03月11日 | 日記

 島尻沖縄・北方担当相が「歯舞群島」を読めず、高木復興担当相が疑惑追及されても閣僚のまま、甘利経済再生相が「口利き」で大臣辞任、宮崎衆院議員が女性問題で辞職など迷走する安倍政権だが、暴走する発言もすごいのでまとめてみた。

・原発事故によって死亡者が出ている状況ではない(高市政調会長、13年6月)
・ある日、気づいたらナチス憲法に変わっていたんですよ。誰も気づかないで変わった。あの手口を学んだらどうかね(麻生副総理、13年7月)
・最後は金目でしょ(汚染土の中間貯蔵施設建設をめぐって石原環境相、14年6月)
・現在の憲法をいかにこの法案に適応させていけばいいのか(中谷防衛相、14年6月)
・マスコミを懲らしめるには広告収入がなくなることが一番、(大西衆議院議員、15年6月)
・沖縄の特殊なメディア構造を作ってしまったのは戦後保守の堕落(長尾衆議院議員、15年6月)
・「だって戦争に行きたくないじゃん」という自己中心、極端に利己的考えに基づく。利己個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせい(武藤衆議院議員、15年7月)
・我が国を守るために必要な措置かどうかで法的安定性は関係ない(磯崎首相補佐官、15年7月)
・年間1ミリシーベルト以下は、何の科学的根拠もなく時の環境相が決めた(丸川環境相、16年2月)
・行政が何度要請しても全く改善しない放送局に何も対応しないとは約束できない、と電波停止命令の・可能性を示唆(高市総務相、16年2月)
・今、黒人の血を引く人が大統領になっている。これは奴隷ですよ、はっきり言って。(丸山衆議院議員、16年3月)
・日教組は本当に日本のがん。南京大虐殺はなく、従軍慰安婦はうそ(百田NHK経営委員)
・全く違憲でないという著名な憲法学者もたくさんいる…(追及されて)…数じゃないと思いますよ(菅官房長官、15年6月)
・弾薬は武器ではありません。弾薬は弾薬です。手りゅう弾、クラスター爆弾、劣化ウラン弾、大砲弾、ミサイル弾は武器でないから米軍に運搬。(中谷防衛相15年8月)
・中谷防衛相の答弁の間違いをめぐって「まあ、いいじゃん、そんなこと」「早く質問しろよ」「日教組どうすんだ日教組!」などの国会議場のヤジ(安倍首相、15年8月)

(イイギリ)


ゆっくり、ゆったり、身体も心もストレッチ!

2016年03月07日 | 日記

「ビギナーズヨガ教室講座」

 東京の教職員・OB/OGを対象にビギナーズヨガを企画しました。
 巷で大人気のヨガ。昨年に引き続き、今回講師として、お越し頂いたのは、ヨガインストラクターのRitsukoさん。Ritsukoさんのヨガとの出会いは、カナダでのワーキングホリデー中。ある時、腰を壊し、リハビリ目的でヨガを始めたことが、ヨガにはまったきっかけだったそうです。
日本に帰国後の現在、人生を変えたヨガの素晴らしさを伝えるために、ヨガインストラクターとして活動中です。
 さて、ヨガ教室の様子ですが、昨年は、一つ一つにもう少し動きがあったそうですが、今年は、幅広い年齢の人が出来る、ゆっくり、ゆったりとした動きを教えて頂きました。それは、『インドの伝統的ヨーガ』と呼ばれているものだそうです。この伝統的ヨーガでは、人格の最適化というものを実現することが出来るそうです。それは、つまり、どんな状況にもとらわれずに、最適な自己決定が出来る、ということです。
 人は、どうしても、物事に反応してしまい、心が波立つこともあります。その波立った心を穏やかにすると、物事をありのままに見て、最適な自己決定が出来るようになってくると言われているそうです。ヨガは、呼吸と共にゆっくり動くことで、体と心を観察し、沈静化させていきます。心を穏やかにし、最適な自己決定ができる状態を実現するのに、まさにぴったりな活動です。
 今回の講座では、体の声に耳を傾けることで、自分の癖に気づくことも出来ました。また、ゆったりとした時間の中で、自分の体と心に向き合うことも体験させてもらいました。こうすることで、深層意識に働きかけ、行動を変えることにも繋がっていくそうです。実際、ただの身体のストレッチではなく、心のストレッチにもなりました。参加者からも、「頭がすっきりした」「身も心も軽くなった」「気持ちよく眠れそう」など、大好評のビギナーズヨガでした。
 皆さんも、時には、自分自身の心と体の声に耳を傾け、日頃の様々なストレスから解放させてあげませんか。次回を、乞う期待!


税金で国家を養う国民

2016年03月04日 | 日記

 中学生も高校生も主権者として「憲法を守れ」「集団的自衛権はいらない」「戦争をしたがる総理はいらない」と声をあげている。
 2月21日、「T-ns SOWL」の一斉デモが全国10か所で開催され、「野党は共闘!選挙に行こうよ!」等と呼びかけた。
 昨年5月、「憲法のつどい2015鎌倉」が開催され、その時の浜矩子さん(マクロ経済分析、同志社大学教授)の講演が「民主主義をあきらめない」(岩波ブックレット)にまとめられている。浜さんは「グローバル時代の救世主、それが日本国憲法」と次のように、論じている。

 国家あるいは政府というものは、国民に奉仕するために存在する機関、仕組みであるということです。まともな国民国家において、国家というものは、国民を唯一にして最大の顧客、お客さまとするサービス事業者であるわけです。
 それが国家というものの役割であって、その最大のお客さまに対して、どれだけの顧客満足度を提供することができるか否かによって、国家というものの存在意義が決まります。われわれは、彼らがレベルの高いサービスをわれわれに提供してくれるということを前提に、税金を払って、国家というものを養っている。それが、近代的民主主義的な国民国家における、国民と国家の契約関係であると言えるのです。
 けれども、この関係を完全に逆転させて、国家のために国民が奉仕する、強い日本国を作るために国民がお国のために頑張らなければいけない、しかもアメリカに従属したかたちでそういう構図を彼らは作り上げようとしているのです。

 こうした構図に、主権者としてNOをつきつける若者たちを心強く思う。


「国民を守る」ための武力って何?

2016年02月29日 | 日記

 集団的自衛権行使の安全保障法が成立した。
 周りの国の中にはいつ攻めてくるかわからない国もあるから、「国民を守る」ための武力行使を米軍などと一緒にできるようにした。使って良いときといけないときの「条件」をはっきりさせているから心配ないということらしいが、憲法ですら、あってなきがごとくに勝手に解釈しようとしている人たちが、いくら細かい「条件」をあげたって次々拡大解釈していくことは目に見えている。憲法で禁じられている武力行使を、できるようにしさえすればあとはやりたいだけやるようになるだろうという、私にはそれが心配でたまらない。
 「力の均衡」で平和が保たれるという考え方は、それもひとつの考え方だとは思うが、それが戦争につながっていくということは、歴史が証明している。
 「戦争は人の心を変える」という言葉を被爆された方から聞いた。
 目の前で死にそうな人がいたら、なんとかその人の命を助けようとするのは人の自然な感情だ。何かの災害があったり、大きな事故があったとき、国や民族に関係なくその人たちの命を救おうと、世界中の人たちは協力する。
 それが、戦争となると全く逆になる。「戦争は最大の人権侵害」と言った人がいたが、戦争では、あれほど大切にされていたはずの人の命を奪うことが正当化される。東京大空襲、沖縄戦、広島、長崎の原爆・・・たくさんの罪のない人たちの命が奪われた。そのとき、多<の人たちは考えた。アメリカが悪いとか日本が悪いとかいう問題ではない。戦争が悪いんだと。
 靖国神社参拝をした安倍首相は、「国に殉じた人に尊崇の念を」と言ったそうだが、「国民を守る」ために死んでもいい「国民」がいるということがまずはおかしい。いくら「尊崇の念」をもたれても。その人の命は、奪われた人生は、返ってこない。ひとつでも奪われた命があるならば、「あなたの命を守れなくて申しわけなかった。」が指導者の言葉であるだろうし、自分が直接の責任者でないなら「二度とこういうことはおこしません」とその人に言うのが筋ではないのか。戦争で亡くなった人に「尊崇の念」を言うことは。どんなに口で「平和」を言っても実は「国のために戦争する」ことを美化していることになる。
 武力行使は、決してそれだけですまない。当然相手も武力行使をするだろう。武力行使の結果は、確実に戦争につながる。その結果は太平洋戦争を振り返れば明らかである。そのときになって、戦争は間違っていたと言ってももう遅い。
 武力をもって、武力に対応することでの平和はありえない。アフガンで人道支援を続ける中村哲さんは、「9条に守られていたからこそ、私たちの活動も続けてこられた」と述べている。
 武力を行使しないということで、お互いの信頼関係は生まれる。一歩間違えば人類破滅という今のこの世界で、武力を行使しないという日本国憲法が、実は「国民を守る」最大の武器ではないのかと、私は思っている。


学校を「プラットフォーム」に

2016年02月26日 | 日記

「子どもと女性の人権を考える東京の会」の1/31(土)に行われた学習交流会で「子どもの貧困にどう取り組んでいくか~学校を「プラットフォーム」に~」末冨芳さん(日本大学准教授)のお話を伺った。

末冨さんは内閣府の子どもの貧困対策検討会の委員をしていて、セーフティネットが子どもに届いていない実態と、貧困の多元的な捉え方(①所得が貧困線を下回ること②高卒未満の教育にとどまっていること③公的年金などに非加入であること④日常生活に支障を来すほど健康に問題があること)や、貧困の連鎖を断ち切るためのプラットフォームとしての学校の位置付け=「学校プラットフォーム化」について、行政の施策や海外でのとりくみにもふれながら、詳しく話してくれた。
 
印象的だったのは、イギリスの学校を視察したときのお話。貧困地区に建てられた立派な学校の写真に、参加者からは感嘆の声が上がった。学校は格差をうめる場所でなければならないという考えに基づき、最先端の物を子どもたちに与えるそうだ。TVゲームのソフトまで用意するのは、子どもが子どもの社会から排除されないようにという配慮。
またこの地区には、養育の不十分さに起因すると思われる発達の遅れのある子どもが多く、授業中の飛び出しもよくあるそうだ。だが仮に飛び出しても、ぐるぐる回ってクールダウンして教室に戻ってこられるように校庭を作ってあるので、自ら戻るというソーシャルスキルを身に付けられるようになっているという。貧困層だからこそ豊かな体験をさせるという理念のもと、様々な取り組みが成されていた。

末冨さんは学校プラットフォーム化を進める手立ての一つとして、スクール・ソーシャル・ワーカー(SSW)の配置を挙げている。学校は子どもに寄り添い、ケースワーカーや児童相談所などの関係機関は保護者に寄り添い、互いに協働できるようSSWが調整をして、子どもの貧困問題を改善していく仕組みを早く作っていくべきだと説明してくださった。学校が全てを担わされていることが多いが、教員が弱ると子どもも弱るので、役割分担をして長く続けることが大切なのだという。

先日、市教委の指導主事と話をする機会があり、SSWの設置について聞いたところ、市役所内に部署を作ったり予算配分を始めていたりと、思っていた以上に進んでいることが分かった。

末冨さんは「最低でも全国の中学校区に一人のSSWを政府は早急に実現すべきだ。テストのスコアを上げることが大切なのではなく、教わったことが分かることが大切。夢がもてれば自分を大切にするようになり、そうなればいわゆる「学力」も向上する」と力強く話していた。力になる言葉をもらった学習会だった。

 末冨さんのお話を聞き、私は不登校学級にいた一人の女子生徒を思い浮かべた。彼女-A子は朗らかで絵を描くのが得意、そして勉強熱心な生徒だった。友達を作るのも早いので、一体なぜ不登校に?と不思議だった。ある日、穴の空いた上履きを窮屈そうに履いていたので買い換えを勧めたところ、「お給料日がきたら…」とうつむいた。たった数百円の上履きが今買えないなんて。しかし、それくらい経済的に厳しい家庭だとしたら、A子が学校に通えなくなった理由に説明がつくように思えた。学年が上がり交友関係が広がってきたとき、「遊びに行こうよ」と誘われても家にはお金がない。友人を作るのにも不安で仕方がなかったのではないか。高校進学の時期になり、面談でA子の母親は開口一番、「中学校を出たら働いて、家にお金を入れてもらいたい」と言った。隣に座ったA子は目を潤ませながらも無言。ちょうどA子が進学する年から高等学校の授業料が無償化されることになっていたのでそのことを伝え、在学中にお金がかかっても、生涯賃金は高卒の方が上であるからと進学
を勧めた。無償化を知らなかった母親は少し乗り気になったが、やはり収入を優先したい様子。そこで昼間働ける定時制高校の話をしたところ、そんな学校があることも知らなかったということで、A子は自宅に近い高校の定時制に進学することができた。あの時授業料が無償化されていなかったら。近所に定時制高校がなかったら。と思うと今でも胸が痛くなる。セーフティネットの大切さを実感したできごとだった。


人類の一員だから

2016年02月26日 | 日記

 今は亡きロビン・ウィリアムズがジョン・キーティングという国語教師を演じている『いまを生きる』という映画を見た。
 授業で詩に対して形式的な説明がつづく教科書に対し、ジョン・キーティングは生徒に、その教科書を破るように指示を出す有名な場面がある。
 今の日本の教育現場では「教科書を教えるのではなく、教科書で教えるのだから、教科書の内容に不足があったら事前に準備しておくのが当然であろう」といわれ、教科書を破らせる行為に対して非難が集中することだろう。破る行為の是非はともかくジョン・キーティングはその時「私たちが詩を読み書くのは、人類の一員だからだ」と生徒たちに丁寧に説明している。この台詞は、数年前の某コンピュータの宣伝で放送されたこともあるので、ご存知の方も多いかも知れない。架空の人物ながら詩を読み書く理由を「人類の一員だから」と言い切ってしまうジョン・キーティングのすさまじさと『いまを生きる』の制作スタッフの感性に深い感銘を受けた。「人類の一員だから」という言葉は、まさにこのように使うものなのだとも思った。
 最近、誰かが「国際社会の一員としての貢献」と演説で使っているが、それはどうも違うような気がする。


「あなたが生まれてきて良かった」と言える世の中に

2016年02月22日 | 日記

 昨年1 1月1 8日に開かれた茨城県総合教育会議で、県教育委員の長谷川智恵子氏は、特別支援学校2校の視察に触れながら、「妊娠初期に障害の有無が分かるようにできないのか。特別支援学校には多<の方が従事し、県としては大変な予算と思う」「生まれてきてからでは大変」「減らしていける方向になったらいい」と発言した。またその場にいた橋本茨城県知事も「産むかどうかの判断の機会を得られるのは悪いことではない」と発言を「問題ない」とした。
 この発言には、全国から抗議が殺到、長谷川氏は結局委員を辞任、橋本知事も「問題ない」という発言を撤回した。
 この長谷川氏の発想は、特別支援学校の予算がかかりすぎることから、障害児が減れば予算も少なくてすむという。子どもの命とお金のどちらが大切かというきわめて基本的なことが抜けている。しかもそれが「障害」児なら生まれて来なくてよいという「障害」児・者の存在を否定するものになっている。
 ここで気になるのは、発言した長谷川氏のこともそうであるが、その発言を擁護した知事のことだ。橋本知事は、長谷川氏の発言についてその場では何も感じていなかった。知事ともあろう人が、長谷川氏の差別的発言に何も疑問を感じなかった。もっと言えば。その場にいたどれほどの人が長谷川氏の発言をおかしいと思ったのか。あるいは、そういった話を仮りに聞いた人のどれだけが、その発言を「間違っている」と感じたのか。
 今回の教育委員の発言がこれだけ大きく取り上げられたことはよかったとは思うが、この問題はとりあげられて、学校でおきる差別事件のほとんどが問題にされないことには、ものすごいいらだちを感じている。確かに「発言」は問題であるが、「実際」に、就学を拒否されたり、宿泊行事に参加させられない子どもたち、付き添いを強要される親たちのことはどうなのだろうか。
 現実に出生前診断なるものが技術を高め。生まれるはずの命が絶たれてしまうケ-スは増えている。その子が生まれ、育って、大変な思いもするけれど、「この子が生まれてきて良かった」と、私の出会った多くの親たちは感じている。ただその子が生まれる前に、この子が生まれたらどうなるかと不安を感じる多くの親がいるのも事実だ。
 障害があってもなくても、当たり前に生き合える世の中でありたい。この子が生まれたら苦労するのではと、心配させるようであってはいけない。「あなたが生まれてきて良かった」と誰もが自然に言える世の中にしなくてはいけない。
 先の二人、委員をやめたり、発言を撤回したりすれぱすむという問題ではない。もっとやることはあるだろう。みんなが地域の学校に通うようになったら、教育予算はずっと少なくてすむ。普通学校での人手も確保できる。ちょっとした工夫と努力で分けない教育は実現できる。どの子にも保証される学校教育を実現することこそが必要なことだと思う。
(アンズを啄むヒヨドリ)


高齢化、そして改憲

2016年02月19日 | 日記

 学生だった頃、先輩に「どうせ、あと四半世紀もすれば、大学何て選り好みしなければ、みんな入れるよ」という言葉を聞いた。「へー、どうしてですか?」と私。「子どもの数が減っていくからさ」という答え。と同時に高齢者も増加すると。かれこれ15年くらい前になるだろうか。
 街を歩いていてふと気づいた。「道行く人が高齢化したな」と。杖を突く人、手押し車を押す人、道端の花壇の縁で休息をとる人など、これまで見かけなかった光景が目の前に・・・でも巷ではワールドカップ日韓開催が決まり、両国民が手を取り合って喜んでいたのが思い出される。
 ところが時が過ぎ、アベノミクスという大嘘がまかり通り、政府が国民をまるで当たり前のごとく騙すようになった今、教職員の中にも中国、韓国に対する敵対心がふつふつと湧き上がっているのが感じられる。ふとした言葉の中に・・・新宿大久保でヘイトスピーチをしながらデモ行進をしている人たちだけではなしに、教職員の意識の中にも「韓国怖い、朝鮮嫌だ」がじわりじわりと広がっている。そして、昨年9月19日、憲法違反の戦争法の可決成立。九条改悪のための外堀の埋め方に一段と拍車がかかっている。道徳の教科化ももうすぐ!!学校現場は上意下達、安倍総理はもう御免。一票を大切に、当たり前に選挙権行使をしましょう!
(ウバユリ)


神様と仏様

2016年02月17日 | 日記

 東京新聞の心のコーナーを読んでいたら、「神様と仏様」の違いについて書いてあった。
 日本人は、12月25日にはクリスマスを祝い、一週間もたたないうちに、初詣に出かける。宗教に関して「融通無碍だ」とはよく言われることである。
 さらに、このごろは、商売とタイアップする形で、様々な宗教的行事が世の中にあふれるようになった気がする。たとえば「ハロウィン」や「恵方巻き」のように。
 で、「神様と仏様」の話である。以下は、東京新聞1月16日朝刊の「現代日本人の神仏観(上)木村文輝さん)にによる。

 「神も仏もないものか」とか、「神様、仏様、稲尾様」(古い!わかる年代はかなり限定されることだろう)なんて、神と仏を一緒にしがちだが、実は、微妙な使い分けをしているというのである。元々、神様(特に神道としての)と仏様を分けるようになったのは、明治以降であり、それまでの日本人はいわゆる「神仏習合」で神と仏の存在を明確に区別せずに崇拝するのが、伝統的な姿勢であったという。しかし、両者を全く同じものととらえているわけではないそうだ。それが神と仏という言葉を使い分けている事実である。たとえば、「野球の神様」や外科医の名手を「神の手を持つ」という。また、「神業」や「神懸かり」こうした言葉は、神を仏に置き換えることはできない。逆に、優しく慈悲深い人を「仏の○○」といい、心穏やかな状態を「仏の境地」といったりする。(「まぁしょうがない今回は許してあげよう」というときは、「仏心」ともいうなあ。と納得)というように、日本人は、「神」を特別な技術や力エネルギーの持ち主で、それを人々に分け与える存在とみなし、「仏」は、欲望をはじめとする様々な力やエネルギーを鎮める存在、あるいは慈悲深い存在だと見なしている。

 というのである。木村さんはこれを「仮説」といっているが。
 これを読んで、長く疑問に思っていたことが少し納得できたような気がした。それは、新美南吉の「ごんぎつね」にでてくる兵十と加助の会話である。ごんが、栗や松茸を兵十に届けていることを知らない兵十は、加助に、「このごろ不思議なことがある」と話す。それに対して加助が「そりゃあ、神様の仕業だぞ」と答えるのである。二人は、この話をする直前に村人の家で行われた「お念仏」に参加したばかりなのに、なぜ、「仏様」でなく「神様」だったのだろうと、不思議に思っていたのである。さらにいえば、こんなことを疑問に思うという人にも出会ったことがないのだが、、、。しかし、木村さんの「仮説」による「神」と「仏」の違い(役割分担)を考えると、合点が行った次第である。


西・Nishi(北・North)?

2016年02月15日 | 日記

 先日、辺野古のキャンプシュワブ前の座り込み行動に参加してきた。
 正門からは、米軍の大型車両が兵隊をたくさん載せて出入りする。運転しているのは年端もいかない若い兵士。私たちの背丈の2倍もある車両を運転している。それだけで恐怖を覚えるが、基地の中には機動隊や警備会社の人たちが沢山いて、米兵の通行を助けている。機動隊の車両の下には座り込みをしている人々を潜り込ませないために鉄条網が張り付けてあるものもある。沖縄の人々を痛めつけ、米兵の安全を守る警察ってなんなんだろうと思ってしまう。
 話しは変わるが、帰路、那覇の街でおもしろい信号表示(写真)を見た。西(北)と書いてあって、下にはNishi(North)と表示がある。沖縄出身の友人が笑いながら教えてくれたのは、ウチナーグチ(沖縄方言)で、北のことをニシというそうだ。それならば、「西」と書かずに「ニシ」と書けばいいのだろうが、そこは愛嬌で愉快な標識になっているところがいい。
 ちなみに、南はフェー、東はアガリ、西はイリ。だから西表島はイリオモテジマ。また海洋国家だった琉球は風にも敏感で、南風はハエで、南風原は「ハエバル」、東風はコチで東風平は「コチンダ」、梅雨明けに南南西に吹く風を「夏至南風(カーチベイ)」、夏が過ぎ北東から吹く風を「新北風(ミーニシ)」というそうだ。菅原道真の「東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」にあるとおり、コチは日本の古語でもある。


子どもを追い出すことで問題は解決しない!

2016年02月12日 | 日記

 「大阪の現状を見てください。実際に問題行動をする子どもたちのせいで学級崩壊しているクラスもある」。これは、大阪市が「個別指導教室」を作ろうということについての記者の質問に答えた橋下市長の言葉だ。要するに問題行動をおこす子どもは、授業を乱して他の「まじめ」に勉強したい子どもたちの迷惑になるから、特別教室へ送った方がよいという。では、いったいどんな子が「特別教室」に送られるのか。
 授業のじやまをする子? 残念だがほとんど、どの子も授業のじゃまをする。先生の話などそっちのけで勝手にわいわいがやがやしゃべりだす。じゃまをしているなんて思っていないでじゃまをする。調子にのってふざけ出す子もいる。自分一人でふざけていればいいのに、周りをまきこむ。
 こういう子たちをみんな特別教室に送ったら、静かでいい。でも教室にはだれもいなくなってしまうかもしれない。そして特別教室が「普通」の教室になり、そこでまたじゃまをする子がいたら特別教室の特別教室が必要になる。
 もっとすごい「問題行動の子」を送るのだと言うかもしれない。でもそれよりもすごい問題行動って何だろう。授業中立ち歩く、大声を出す。友だちをつつく・・・ひとりのそういう子がいなくなれば、教室は落ち着くか。というとそうはいかない。必ず、残された子たちの中から代わりの子がでてくる。
 だいたい、まじめに勉強したい子っているのだろうか? おもしろい勉強なら、子どもたちは、まじめになろうとかそんなことを考えないでも真剣に学ぶ。つまらない勉強なら、騒いだり。いたずらを始めたりする。「学級崩壊」というのは、だれか一人が学級を乱しているのではなくて、みんなが何かに不満を感じて騒ぎ出すからおきる。教員の立場からすればおきてほしくないが、ある意味それは子どもたちの自己主張なのかもしれない。
 「学級崩壊」をおこさせないとかおこることはよくないと言うよりは、学級崩壊がおきたときに子どもたちは何を考え、何を求めているかを考え、そこを追求していったら、子どもたちが抱えている本質的な問題に出会い、教員も子どもも学び合えるかもしれない。
 本来、子どもたちは、枠からはみ出すものなのだと思う。騒いだり、暴れたり、いたずらをいっぱいしながら自分を表現し、成長していく、それが子どもなのだと思う。しょっちゅうもめごとをおこす子がいて、その子のことを個人面談で母親に伝えたら、その母親は涙を流してr先生、この子は大きくなったらどんな悪い人になるんでしょう」と言い始めた。ただありのままを伝えただけだった私はびっくりして「お母さん、ちがうんです。こういう子だから何の心配もいらないんです。無理していい子にしている子のほうが実はずっと心配です。」
 「特別教室」にその子を送ることでの教育的意味は見いだせない。子どもを追い出すところに教育はない。それで根本の問題は解決しないだろう。
(おかのとらのお)