秩父事件に繋がる原点
=蚕=
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生糸
「貧乏人は死ねばよい」とした、
時の明治政府に、
一泡吹かせておれなかった面々、、およそ1万余人。
その鬨(とき)の声は、秩父の山と谷にこだました。
「鉄砲、刀、竹槍、を持って、椋神社に集合しろい!」
『秩父事件』は映画になった
東京・有楽町で封切になった時、われ先にとはせ参じた。
『草の乱』神山征二郎監督
この事件は
ちっぽけな山村(秩父郡吉田村)に起きた、
日本を揺るがす
大きな大きな事件であった。
極貧にあって、なお
生きる権利を訴え
自由民権を叫び、死をかけて
たたかった
名もない悲劇のドキメントである
秩父郡野上町遍照寺近くにて
↓
明治17年
日本全土は政府のデフレ政策と増税により
深刻な経済不況にあった。
困窮にあえぎ高利貸の横暴に
打ちひしがれた 農民たちは
もはや
生きるすべてがなかったーー
折も折生糸(繭)の国際相場の
急激な暴落は
養蚕地帯の秩父農民を致命的な大打撃を
もたらしたのである
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今日のメモ
母屋を樹木で覆われた農家の庭先で、
見つけた蚕様、
おばさんに許しを得て見せてもらいました。(遍照寺に行く途中)
おばあさん 「蚕なんか飼ったって 金にゃぁならねんだがね・・・・。
昔しから爺さん婆さんが苦労しながら飼ってきたのう見てきたから・・・
絶やすと気が引けてねぇー・・・・飼っているだがね・・・・
お蚕さんがいねえと寂しんだがムシ」
おばさん良くやってるねぇ~感心してしまいます。と、問いかけると
おばあさん 「息子は町に勤めに出てるが、止めろ!止めろ!と言うが・・・年寄もやる
ことがないと、つまんねんだがねぇ・・・・・。
もうこのへんじゃぁ誰ぁ~れもやる家がなくて、俺んちだけになってしまった
んだよ~~~・・・・・・・・・・。」
山峡秩父では、ほとんど蚕を飼う農家はいなくなった。
急傾斜の桑畑で桑ををとり、しょいこで背負い運び深夜も寝る目も寝ないで食わずに働き給桑をして育てた。
農家の現金収入と言えば、繭にして製糸会社に出荷しそれによってお金を得ていた。
「蚕と秩父事件(暴徒)」、短略的に結びつけるのは早計ですが、
虫に様を付けて呼んでいたので,如何に大事に育ててきたかが伺え知れる。
会話がよどみなく続き、キレる間がなかった。
お蚕さんの話をもっといっぱいしたかったのであろう・・・・・・・・・・・。
埼玉のヒキノさんから
宝玉なBLOGが届きました。
併せてご高覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/e/665778cce634fa63dbb4af801554501f
寺巡りの途中、ビニールトンネルの中で飼育している蚕を発見。
懐かしさも手伝ってつい近寄っておばさんに話しかけた。
私でさえ、都会生活が長いが、蚕を飼ってお金を得るなどということは繭を現金化したところで赤字。
j「農家の方は労動力を換算しない、労働時間も夜働くのに換算しない。
そんなこんな考えたら、蚕が好きでなければ飼育することはできない。
おふくろの後ろ姿を見ているようでいつまでも話を聞いていたかった。
最後の一言
「金にゃあならねいが、俺の代で絶やしてしまった。。。そう思うと切なくて・・・・・年寄りの遊びさ…」ジーンと胸に来た。
長野は山地、日本でも有数の繭算出県、それに平行して製糸工場も盛んであったことでしょう。
女工哀史・野麦峠・・・・・・話せば長い物語、この辺で。
製糸一筋だった母が生きていれば108歳ですが、それより16年前の事件だったんですね!ヒノキさんのブログも拝見して、その頃の様子に思いをはせることが出来ました。
歴史があって今がある。富国強兵政策の大きな犠牲!
これを忘れてはいけませんね。
感動の素晴らしいレポートをありがとうございました。
私も蚕さんを久しぶりに拝見、ついカメラを向けました。
それよりもまだこのような長瀞といった観光地の片隅で飼育されているのにびっくりです。
秩父事件と結び付けて綴ってみました。
124年月日が経ちました。
時が経過しますと、時代は変わり何でも美化しますのが人間の考え方の常道でしょうか…?
縄文人の幼きころは祖母も建材、竹槍を持った集団が高利貸の家をぶち壊すために向かうのを見た。あるいは学校であの家は暴徒が出た家だから…と後ろ指をさされたり困民党はあまり良いものと思われていなかったようです。
現在は、歴史的にも貴重なもの、宝物と言ってあちこちに事件を掘り起こすための研究会があるようです。
明治から大正、昭和初期にかけて、飛騨の農家の娘(多くは10代)たちが、野麦峠を越え て諏訪、岡谷の製糸工場へ働きに出た、親と子の別れの野麦峠。
長野、群馬、埼玉はやはり山峡地帯の多いところ、蚕の飼育が盛んであったことがうなずけます。
あちこちに繰り広げられた女工哀史、
それらの富岡製糸工場も世界遺産に候補として申請、隔世の感があります。
久しぶりに、見ました。
素敵なショットでいろいろ見て、感動しました。
珍しい話、・・・。
ありがとうございました。
いまでも、頑張っておられるおばあちゃんとの会話にジーンときました。
「秩父困民党」の本を昔よみました。埼玉の誇りですね。父は明治22年生まれでしたが、私が勤め人になることに反対だったらしい。過酷な製糸工場とダブルものがあったのでしょう。後年になって母から聞きました。あの頃は畑から武甲山が見えてたし・・・
とにかく秩父にはロマンがいっぱいです。
祖母がこんなことを囲炉裏を囲みながら幼少のころはなしてくれた。
すぐ近くの道路を白い鉢巻きにむしろ旗を持ち、皆々が竹槍を抱えて隣村に群衆となって駆け参じた。
高利貸の家を焼き払うために向かったのだろう・・・・。
これを暴徒と呼び、若い血気盛んな自由民権運動にかぶれた面々が世直しのために身を賭して参加した。
縄文人もそんな血が流れているのであろうか、
正義を助け悪を駆逐する、秩父事件の当時の原点、蚕と農民を見たらテンションが上がってきてしまった。
どん子さんの家でも蚕を・・・・、やはり昔は貿易の最大の輸出品であったようですから、日本全国どこでも飼育されたのでしょう。
時代は当の昔に終わっていますが、
そんな時代を考察、思索しながら行く縄文人です。
馬鹿な奴だとお思いでしょうが、よろしくお願いいたします。
蚕を飼うお婆さんがまだ観光地長瀞にあったということで驚きました。
一人で飛び込んで行き、おばあさんに一部始終を聞きました。それはまさしく、実母のような顔達で一心に答えてくれました。
「年をとると昔から伝えられてきたものが消えていく・・・・これがさびしんです・・・・」といった言葉が胸にズシリと食い込んだ。
かやぶき屋根の二階で飼われていた・・・・何だかその言葉を聞いただけで身体がぞくぞくします。
福島のほうで今でも飼われていますか?
群馬県にあった富岡製糸工場は、日本の産業革命と言われた製糸工場、現在はその役目を終えて、世界遺産に登録し何とか生き残りを果たそうと申請なされたようですが、登録に至らなかった。
縄文人は古い奴だとお思いでしょうが、古い昔の文化を見ますと身体が奮い立ちます。
農耕民族の血が脈々と流れているのだろうか・・・・?
どうもこのような農に関する具材を目にすると心が引きつけられてしまう。
蚕を取り上げましたが、小さい時これによって生計を立て育てられた、生きながらえてきたといっても過言ではない。
現在はサラリ-マンとして継がれている。
縄文人さんにもこの血が
流れているのでしょうか・・・。
もう半世紀以上も蚕を見たことがありません。
前にも書きましたが、どんこの家も
かつては養蚕農家でした。座敷まで蚕様に占領されていましたよ。
いいお話ですね。
もう、お金の為ではないんですよね。
このおばあちゃんの代で終わってしまうんですね。
昔藁ぶき屋根の二階にお蚕様を飼育していた。
そんな話を良く耳にしていました。
今でもその名残が、福島県の村にも残されています。
今も蚕を飼っている所が有りましたか。
貴重な存在です。
ありがたい努力ですね。
神奈川には信州などから横浜に絹を運んだ街道が残っていて、我が家の近くも養蚕をしていたようですが今は絶えました。
子供が小さい頃、蚕を飼ったことがあり繭から糸を紡ぐのを近所のおばあさんが教えてくれました。
そんな人もいまは少なくなりました。
「秩父事件と竜勢会館」ありがとうございました。
さっそく本blog「お蚕様・七草寺まわり余話」に追加upいたしました。
これによりなお一層迫力が出てきました。
やはりヒキノさんの奥さんの家でも蚕を飼われた、昔は人間が寝る場所がないほど広げて買われました…ね。
私も蚕業試験場に2年ほど奉職したことがありますので、それなりに理解しているつもりです。しかし時代の移り変わりは速く、蚕を飼わなくなったころから農業の衰退がはじまったような気がしてなりません。
またよきニュースがありましたら教えてください。
奥さんも、この蚕の飼育状況を見たら「ナツカシ・・・・」の声が上がったのではないでしょうか。
そうですか、自然さんのお宅の歴史まで振り返りそれはそれは恐縮です。
農家であれば田園地帯の栽培農家と違い、やはり蚕を飼育したのでしょう。
やはり、ここにお越しの皆さんは農耕民族の原点に何らしかにかかわっていたのでしょう。
中国にシルクロードがあるように、
絹織物、生糸によって世界の経済が動いていたといっても過言ではないでしょう。ちょっとオーバーすぎました。
横浜市中区本牧三之谷にあり、実業家で茶人の原三溪によって作られた日本庭園 三溪園があります。
ここも原三渓が生糸貿易によって大きな利益を得て作られたものと聞いたことがあります。
1906年(明治39)5月1日公開。
↑でも書きましたが、
やはり和三郎さんがおっしゃるように、科学技術の進歩、国際交易の発達が大きな要因となっていることは間違いないでしょう。
家内の在所では50年代までやってました。最後は座敷ではなく写真と同じくビニールハウスです。貴重な現金収入でした。いまはハウスも取り壊しています。
「秩父事件と龍勢会館」の拙ブログ、今もyahooやgoogleの検索から訪問者があります。
http://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/e/665778cce634fa63dbb4af801554501f
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龍勢会館に興味があるのか秩父騒動に興味があるのかわかりませんが今も読者がいるのです。
はじめて知りましたが生糸の暴落があっテ農家は大きな痛手を負ったとか!
たぶん私の先祖もこの痛手により、蚕飼育を止め薄荷の栽培に転向したのでしょう。
おかげで我が家の歴に触れさせてもらえました。
今でも絹の単位は、日本語の匁で取引されているから、そのころから、日本の貴重な輸出品だったのであろう。
化学繊維が横行する現在。絹の肌触りを知らない若者も多いのではないでしょうか?