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トロルお爺の”Satoyaman”林住記

生物生産緑地にて里山栗栄太が記す尻まくりワールド戯作帳

70mmほど、これはおっかない!

2021-05-23 | 小父のお隣さん
 水見回りの畔でぶち当たってしまった。畔だからそもそも幅は無いし踏み分け痕の両側はミソハギが茂っている。引き返すのも面倒だし撮影して万歳しつつカニ歩きで抜けた。
 ヘビトンボと思っているがともかく大きくて飛翔しているクロスジギンヤンマに近い体長、指4本分はある。毒も無く咬まれも刺されも無いだろうと理解していてもやはり恐ろしい。
 自宅で図鑑対象してみたがヘビトンボは45mm程度とある。となるとほぼ倍近い体長のこれは何なんだ。やはり恐ろしい。

             

※ 久しぶりにフイールドに見えたS先生に疑問をぶつけたらあっけない答えだった。「体長・全長・開帳とそれぞれ表現する内容が異なり全長は必ずしも体長と一致しない」との事だった。図鑑を見たらさらに混乱する。甲虫の仲間は「体長」で表してもクワガタムシは大あごの長さも含めた「全長」と例示されている。セミの仲間は尻より翅が後方に突き出ているから「全長」で表示と、まあ、素人にはよく判らん。基準があるのだろうがS先生もおっしゃるように「厄介」なのだった。
 今回の写真も裏側から見れば体長45mm程度だったか、それとも小生の図鑑に載っていない別種だったかプリントを出さなかったから断定不能だ。

キジョランの播種は悩みの種

2021-05-22 | 今日は真面目に
 キジョランを増殖したくて採種しては播種を繰り返すのだが播種したほどの定植苗は得られていないのが現実だ。とにもかくにも発芽までの期間が長く40~50日は当たり前で「発芽しないだろう」と忘れた頃に萌えだすのだ。そんな事からS先生のやり方を今回は模倣した。だからと言って発芽が早くなるなんて事も無いのだが、少なくとも吸水し膨れて発根までは確認できるからだ。

 トレイにキッチンペーパーを2枚敷いて、その上に種子を並べキッチンペーパーで覆い水を切らさないように管理する事50日、ようやく発根して種子の片側が持ち上がってきたのだった。今回も「発芽しないかもしれない」と思い始めた矢先のことで、取るものもとりあえずポットに上げたのだ。
 ポットも今回はロングポット使用して1本植えでなく発根した苗を各ポットに均等に分け、更に未発根の種子も分け1ポット当たり複数の蔓が伸びるようにしたのだ。これもS先生の方法を踏襲した。今までは貴重な苗だからと単独で植栽していたのだが定植地点で消える事も育たない事も多々あって、まあ、危機管理の方法論とでも言えるのだろう。

 今回、播種した種は食草園で初めて結実した物だったのだが昨年の九月には蔓が枯れてしまい種子の充実は無理だろうと思っていた種で、それでも11月ころには莢が開いて大冠毛を付けた種子が望まれたので採種したものである。どうせ駄目だろうと思っては見たもののS先生に伺うと「親蔓が枯れても残った養分で充実に近づける場合もあるから」と言われ、それならと播種した結果だ。
 とにもかくにもロングポット8個に種子を10粒程度並べ、半分は未発根だけれど3~4本の蔓の苗は出来そうかも・・・。

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苦渋ら、苦渋ら、身から出る錆

2021-05-22 | 小人閑居して憮然
 操作棒が出来上がってガシャガシャと動きの確認をしていたのだが、跳ねあがらせてそのまま停止させると腰砕けの姿勢をとってしまう。これはいかにも情けない。これを防ぐには最上段での姿勢を留めおく事が必要なのだが「釣り方式」ではないから無理がある。「釣り方式」に変更すればしたで釣り糸が煩くなるだろう。考えあぐねて出した答えは「カム」を付け加える事だった。まあ、カムと言うより腰痛防止の枕を入れるそれに近いか、それとも偏平足緩和の中敷きだろうか、どっちにしても正しいアーチが大切なのである。

 ヒゲクジラ型とマッコウクジラ型双方の型どりをして駒を接着して万歳三唱中にあーあっ、いつもの持病がビビビと来たのだった。爺爺身中の虫とでも言おうか、それとも爺爺心中の虫と言って良いのか分からんけれど発作に同じく経緯をたどらないと収まらないのである。結局、操作棒は新しく作り直さねばならなかったのだが、結果としてみれば格段に遊びの域から芸術の域に昇華したのだった。まさしく「芸術は爆発だ!」である。
 富士山を遠景に大波の上をクジラが跳躍する構図になって、まさしく伝統名作「浪間の富士」になった。モチーフは「躍動」なので「私は阿呆で人でなしです」を断言するに足るバケツの水を捨てる舟等の低次元かつ情けない引用改作如きの冒涜はしない。

 さて、この設計の元になったカムの付け足し式は現物合わせで微妙に曲線が異なっていたものの「クジラの関節設計図」は同一だから同じ操作棒で良いはずだと考え直して同一物を切り出して装着したらうまく収まってくれた。ただ、この方法でも最大限に跳ね上がった地点で停止は不可能なのだが、腰砕けの姿勢は解消したから「良し」とせねばならないだろう。
 写真でアップしてみたが操作棒が最終的に決まるまでにウンザリするほどの試行錯誤をしたのだ。試作品である事もあって多少の覚悟はしたつもりでも現実は厳しく能力は不足だ。機能にしても見かけにしても線の一本で雰囲気や効果が変わる。どう作ろうとも自己内差の問題だから気にする事は無い、と考えても身から出る錆は留まるところも無いのだった。

 ほんと、眼が窪んでしまいそう。自分で自分にいい子いい子してみたが結局のところ家に居ても姥捨て山と同じセルフデイサービスでしかないのだったぜぃ…。ゼイゼイげっそりお粗末様。

             

環境植生としての水稲

2021-05-21 | 水辺環境の保全
 代表が苗を作ったのを棚田部用に分けてもらう。大半は旧フイールドでの棚田に植えるのだがお裾分けみたいなものだ。フイールドの棚田部での植え付けは稲作ではなく環境植生として水稲の役割を果たしてもらう事にある。穂が出るお盆の頃には威之志士様の跋扈蹂躙に遭うからその前に青刈りして注連縄用に青干しする、でお終い。

 田植えをしてもしなくても水域で作業をしていると「田圃ですか?」と尋ねられる事が多かったのは一昔前で、この頃は「田圃ですか?」なんて声をかける他人も居なくなった。破壊行為が後を絶たず「煩い爺さん」と煙ったがられているに違いない。
 それはともかく今期もそそくさと植え付けを済ました。トレイの苗そのものは先に田んぼに運んでもらったのだけれど一日二日の間にカルガモに荒らされて次のトレイを運んでもらっての植え付けになった。今年は暖かかったせいか徒長気味でピンとした苗など無かったものの、水中に在れば浮力で腰も砕けない。お爺の腰の方が砕けそうなだけなのだ。

 カルガモの悪戯に逢って多少はばらけて植え付けできなかったものの過不足などは無い植え付けなので、後は放置で青刈りまでしばし環境植生として育ってもらうのである。
 ホトトギスの初鳴きを聞きながらサンコウチョウが奥手から聞かせてくるしオオルリは元気いっぱいでウグイスにはがっくりするけれど、これを極楽と言わずして何と言おう。四つ這いで痛む腰を伸ばしている時にこんな情景に当たると昇天してしまいそう…クワバラクワバラ。昇天より腰痛がイーデスハンソン。

  

打ち出の小槌か忍者屋敷の隠し戸か…

2021-05-20 | 小父のお隣さん
 庭のウマノスズクサが繁茂するとジャコウアゲハの幼虫が湧く。結局は地際まで食い尽くして両者とも庭の露とばかり消え失せるけれどまた一月もすればウマノスズクサは蔓を伸ばし幼虫が湧くサイクルを11月ころまで3~4回ほど繰り返している。
 ウマノスズクサは花を見たくて土手より移植したのだが花を堪能出来たのはその年限りで、種子もつかないのにそれ以来増殖しているのだ。

 このことがどうにも不可解でS先生に尋ねた事があったが、その時の答えは「地下茎で繁殖もしますから」という事だった。思わず「エー?」と思った事を憶えている。掘り上げればほとんどがゴボウ根で地中深く入っていたからだ。横に走るなんて思いもよらなかった。それはともかく手入れなどしないウマノスズクサであるけれど、まあ、支柱くらいは添えるけれど今期も繁って消えて湧いては消える両者なのだろう。

  何匹いる?

苦渋ら、苦渋ら、もう嫌じゃ!

2021-05-20 | 何よりの楽しみ
 午前は姥捨て山、帰宅して工作を何日か続けたが進み方がかったるい。そこで思い切って姥捨て山セルフデイサービスは返上し木製玩具作りに怨念を込めてみた。モデルが無いので無駄な手間暇が増大するのは覚悟していたものの、やはり半端ではなかった。
 前回は支持方法をどうするかで四苦八苦して、其の結果がクジラ本体のあちこちに痕跡となって傷を晒している。二作目以降は試作品に学んで見た目も良くなるように加工方法を変えるつもりだけれど、試作品の切り取ってしまった部分を埋める算段はしないでおく。

 その支持方法が決まり動きを与える機構で更に酢多悶太してしまった。回転運動で尾びれを動かそうとしたものの、動きの軌跡が円弧の一部と言うような動きではなく関数のグラフのような軌跡になるからクランクやピストン、はてまたリンクやカムなどで動かせる対象ではなかった。
 そこでシーソー式跳ね上げ方法に落ち着いたのだが、この材の形状を決めるまでに4作も作り替えねばならなかった。3作目で満足のいく形状を出すことが出来たものの、指で下げる方法なので顎のあたりが窮屈に感じるし、この時、口パクするのでダイオウイカでも口元に置こうと思ってしまい4作目になったのだ。
 4作目はイカを取り付けるスペースと指を掛ける部分を加えたから形状は大きく異なってしまったが、動かしやすいのは明白!。

 偶然の産物なのだが口をパクッとさせるとイカは逃げてしまう。開口している時は口の前に有るけれど、まあ、爺我自賛で意外と良く出来たと言える。しかしもう工作はしたくない。だが、荏胡麻油が乾いたら目玉を取り付け軸を接着しなければ終わらない。
 縁台工作実演中に夕刊配達でしばし雑談していく兄さんに「ギャラリーのお礼」と先日サケの1台を送呈したら翌日に仕事仲間のおばちゃんがお孫さんに送りたいととかで会心の作「ブダイ」を千円で譲る羽目になった。後輩の出世祝い品が減ってしまったからクジラを加えねばならなくなりそう。
 配達員のお兄ちゃんにやったサケは郊外山間地の地元カフェに展示したとの事。姉がやっている地産地商のお店で家族連れが多いので子どもが喜びそうだから一時展示するのだとか。パンフレットまで頂いたので「これ、小生が作りました!」で一食ただ飯にありつけるかも、かもかも
  


  

モリアオガエル産卵

2021-05-19 | 小父のお隣さん
 上の池コナラの樹上にモリアオガエルの卵塊が見えた。周囲では今期初の卵塊なのだがニュース記事などでは近隣の地域から10日も前から産卵を報じている。フイールドの産卵は他地域に先駆けて行われるという事も無いので例年通りの産卵なのだろうが水見回りする身としてはついつい下を見ないで見上げてしまう時期でもある。下を見ればたまにはシュレーゲルアオガエルの卵塊はあるものの大きく立派な卵塊に目が行く。
 水中には既にヒキガエルのオタマジャクシは居らず単独で泳いでいるのはニホンアカガエルなのかアマガエルなのか判別は出来ない。ヌマガエルもツチガエルも水際に飛び出すけれど浮遊卵は久しく見ていない。

刈り払いの季節はストレスの季節

2021-05-19 | 感じるままの回り道
 ようやく刈り払いに入れた。既に日当たり良好、野草の花畑は全面刈り払いされていて砂漠状態になっている。誘導してきた長い年月、選択的に刈り続ける必要のある食料と住処を提供するべきエリアが失われてしまった。昨年も一昨年も刈り払い開始時には伝えた事柄なのだが「草は伸びたら刈るものだ」と言う認識には勝てない。刈り払う労力があるなら被害を与えず全面刈り払いOKのエリアもあるものの目につかない場所なので食指も伸びないのだろうと推察している。
 そちらの区域を刈り払えば「育林」に寄与するに間違いないけれど「やったぜ気持ちいい‼」となるには「雑草繁茂の場所」を根絶した満足感が必要で麻薬みたいなもんなのだろう。農地や公園ではない保全活動しているエリアなので「選択的放置こそ」が環境向上になるし支障が無いのを敢て砂漠化で環境破壊に邁進する。

 それはともかく今回の林床の刈り払いは全面刈り払いでも許容範囲なのだが、ヒヨドリソウ、ミツバ、カモヅルやどうしても名前が出ず図鑑でも出せなかった食草等々は刈り残した。だもんで作業後を眺めてみても「すっきり」とは言い難い虎刈り林床だけれどタイワンアザミやヤマフジ、ヤブジラミなどの忌避草本は刈り払ってある。
 作業や活動で何時も思う事なのだが共通理解やビジョンが共有出来ない以上、会友から「まるで正反対の事をやっている」などと言われる現実になってしまうのである。刈り払いは雑草なんで「全草刈り払い」一色で、他の選択肢など毛頭ありえないのが摺り込まれた農耕民族の境地と言え、食料と住処を提供させる野草の花畑を出現させるなんて取り組みはネイティブな位置にしかありえないのが現実である。まあ、「変わりもんの範疇」でしかないのだろうな。

 「環境保全」と一口で言えても保全の中身は多様でその上、動植物や環境との相互関係は動的で、いきおい作業者には俯瞰的・総合的等々の思慮分滅が求められよう。その先にはビジョンも無くてはならない。そう考えると保全活動や環境教育に携わるそれぞれはそれなりの学習は必須だろう。しかしながら現実は「活動に入る」意思のレベルだけのようにしか見えないのが大半、そんなところではないかと常日頃感じる現実である。

 破壊と寄与、このバランスで寄与が勝ってくれれば多少はストレス緩和に役立つものの現実は厳しく学ぶことは強要出来ぬ。度々伝えれば角が立つ。自分に置き換えても配慮しつつの刈り払でさえ一木一草「あーあ、やっちまったぁー!」は無くならんのだ。

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ホトトギス鳴いた

2021-05-18 | 小父のお隣さん
 棚田で田植えをしていたら背後の林内でホトトギスが鳴いている。昨日は小雨模様でフイールドには出なかったし一昨日は「からくりクジラ」の締めで休んだから、この数日のうちに飛来していたのだろう。田植えを済ませ譲ってしまった「泳ぐ魚」の欠損分の材料を物色している間も鳴き声が続く。
 現役の頃、職場の桜に良く飛来して鳴いていたのを思い出したのだが、姥捨て山ではホトトギスの姿を見たことが無い。一方、サンコウチョウは近くに現れるようになり増えたのか生息圏広げたのか定かではないけれど広葉樹の森が育ったことと無縁ではないだろう。

今日のエッ!品「蘇を粕漬けにして食べたーい!」

2021-05-18 | 何よりの楽しみ
 粕床には水分を吸わせた取りこぼしの昆布しか入っていない。継ぎ足し用の粕床の熟成は1カ月先になる。そこで今までは動物性食品は別の容器に入れて粕で包んで漬けていたのだが、今回の「蘇」は直接入れてみる。まあ、床に対する影響は不明なものの試してみるしかない。

 その蘇は店頭にも我が家にも在庫などは無いので牛乳から作らねばならない。2リットルの牛乳をホットプレートに注ぎ2時間30分かけて容積370mlの容器に収まる量に出来た。容器は成形だけの利用で、最初は茶巾絞りで成形するつもりだったのだが横着こいて1回で済む方を選んだ。
 粕床に埋めてしまってから「ガーゼで包んだ方が崩れずに済むのだった…」と思ったものの後悔先に立たず。粕床に入れるとほとんどが軟化してしまうので、特に蘇は結合力が弱そうで漬け上がりの取りだす際、崩れる心配があるのだ。もういれてしまった以上は「いい子にして10日ほど待つのだよ!」と自分に言い聞かせてお終い。
 2ℓ入った  ➡   出来上がり  ➡   成型し粕床に埋める

 たまたま読んだ新聞に「たべる」と言う日本語の語源に触れている記事があった。要は「賜る」が語源で「いただく」も同じなのだとか。英語圏にはこの感覚が無く「くう」に近いとあった。だから「いただきます」から食事が始まる習慣は無いのも同じで主に祈りをささげて食事を始めるシーンは映画などで多々見てはいるけれど「食べ物を粗末にするな」と小生、幼い頃から言われ続けた食物に対する感謝や敬いは無いように思える。
 そう、食べ物は粗末に扱ってはいけない。粗相も避けねばならない神事がルーツなのである。貧しかったから「ご飯粒を残すな。こぼしたら拾って食べよ」では無いのであった・・・。
 目下、今回の関心事は「蘇がどんな食品に変じるか…」で蘇れ行けどんどん。出来上がれば「ハハァ、蘇唸るか・・・」と蘇々喰さ蘇々喰さ喰らうのだ、お粗末。

出来たかどうだか動かした。まだできない!…

2021-05-17 | 何よりの楽しみ
 マッコウククジラ形         ヒゲクジラ形
 切り出したパーツを繋ぐ心棒を中心に動きを出すための削りを行った。「削ってははめ込み動かし具合を見る」を一つのパーツ毎どれだけ繰り返しただろうか。それでも数年前に「動く魚」を試作した当時に比べれば加減が観易くなったので時間的には早くなったが粉塵の量は変わらない。

 上下の動きが見えてきたところで支持方法も見えてきて、支持棒を取り付けるためのスペースを頭部に切り込んだのだが、マッコウクジラ型では下顎も組み合わせての同軸で動きに余裕が出てこない。想いアグネス、いいえ思いあぐねて下顎は幅を広くした結果、更に頭部に切込みを入れる羽目になった。まあ、斯様に次から次へと修正変更を加えるから、ほとんど組木細工みたいになった。それも全て廃材端材の類なので「どこを用いるか?」と脱毛は進む。

 ヒゲクジラ形の下顎関節は外側なので同一軸であるけれど干渉しない。けれど古材端材の泣き所、顎関節の軸周りが割れてしまった。最初から腐食していた部分で強化のためにボンド液を塗布し強度を保つようにケアしたものの我が頭部と同じく「101」に始まりどれも効き目が無かったに同じ類「まあ、試作品だから…」と再度接着し液を塗り重ね使う。
 二体の支持方法は決まったものの、からくりの構想が決まらない。最初の最初は開口させるのではなく胸鰭・尾びれを動かす構想だったのだが色即是空空即是色、この世に確かなものなど無いのであった。

 外観をクジラらしく削り胸鰭も付けたまでが下の写真で、この時はまだ尾びれに連結穴が取りつけてある。何とかここにロッドを繋げ回転運動を上下運動に変換伝達する構想だったのだが・・・。


         

**当世深川どぶ板長屋辻番夜語り

2021-05-16 | 性向有毒の翁なれば
     不要で不急記者会見は
              重要事項も囲みかい ハアコリャコリャ

     湧く知恵無いしワクチン無いわ
              感染重症あり余り ハアコリャコリャ

     やる事なす事後手後手まみれ
              打つ手覚えぬ攻め将棋 ハアコリャコリャ

     不要不急の誤倫で必苦
              ハードル避けてまた滑り ハアコリャコリャ

     手順は見えず本義も見えぬ
              湯ーバッカリのお粥顔 ハアコリャコリャ

     水際対策ダダ洩れ放置
              変異のるつぼ秋津洲 ハアコリャコリャ
 
     五輪指折り七十五日
              流行る頃なりコロナ五波 ハアコリャコリャ

     グランドデザイン示せぬままの
              馬口で飛沫出すばかり ハアコリャコリャ

     事態宣言出すばっかりで
              辞退宣言誰の役 ハアコリャコリャ

     何をせずともお日様のぼる
              収監されても歳費来る ハアコリャコリャ

     不要不急を論じる永田
              雛は口開く餌は無い ハアコリャコリャ
        

昨日も苦渋ら!今日も苦渋ら!これじゃ毎日毎日苦渋ら苦渋ら‼

2021-05-15 | 何よりの楽しみ
 ちょっぴりからくり風のクジラの玩具、腹部と背の雰囲気を材質の違いで出してみようと端材を見繕い圧着しておいたのを本体サイズに切り出して図面を写す。部材に製図するのも糸のこ盤でくりぬくのも端面が直角の直方体であった方が作業は格段に容易になる。試作品だしモデルも無いのでとりあえずはピースを切り出し連結し動きを確認せねばならない。この段階では支持の仕方や操作の方法、機構などはとんと思い浮かばない状態で「尾びれで水面を叩く動作」を実現させたいだけが頭にあった。

 最初のモデルはひげクジラで描いたのだがマッコウクジラの頑固さも魅力に思え追加した。いつものごとく部材を切り出してから支持部のアイデアや連結部の位置などが見えてきて、マッコウクジラには尾部に連結部を切り出し出来たものの、最初のひげクジラは既にピースにした後なので連結部の突起を後付け加工ではめ込む顛末となった。再加工・再修正はこれに留まらず、支持台の位置に開口部の軸を共用することになったので更なる切込み加工を行う手際の良さヨ!。大局観が無い、俯瞰できない等々は政府・陣笠衆と全く同じ、いいや小生の方がまっことまともであることは隠蔽や裏金、はてまた忖度虚偽などなさず公開しておる事で裏付けられよう。
 さて、支持部は胴体に固定する想定だったのを一軸同結、関節部にまとめる案が浮かんだ結果、そのための切り抜き更に下顎を動かすためにさらにもう一削りと手太楽三昧、何と幸せ極まれる日々嬉し・・・ハァ!。

 未だ操作する機構は浮かんでは来ないのだがクジラの動きのイメージは出来ている。尾びれを高く上げた状態では頭部は下がり開口している。尾びれが水面を打つに伴い口を閉じながら頭部を上げる、とまあ、こんなイメージなのである。こんな妄想をしたばっかりにひげクジラと歯クジラの口の違いを出さざるを得なくなってこの加工のために午後、暗くなるまで使ってしまった。当然、夕餉には何も無い。冷ご飯も無かったから口に入るもので誤魔化す。
 この体軸を反らす動きで口が閉まってしまう動きが出たのは予期せぬ偶然の産物なのだがパックン感は使える。この予想だにしなかった動きは既に角を落してしまった結果、やや減少したものの次回からは面取り量で調整可能だ。

 最初からの案ならば加工方法も考えて細工のし易さを優先したけれど、何せ後だしじゃんけんみたいなもので切り直しや切込みや動作の確認調整と散々だった。それでも何となくそれらしい体型を見せてきた。尾の上下や口の開閉、頭部と尾部のシーソー状態の動きを本体でポージングさせてみるとまあ、何とか成りそうだわい。まっ、試作品だから無駄な手間暇しょうもない…。禿げ頭を自ら「いい子、いい子」するのは苦渋の後に安らぎの境地があるからで小生、褒められてのさばるタイプですぅ。

        開口して潜る態勢   ➡    尾を打って口を閉じる姿勢

今日のトンボ「カワトンボに間違いはないが・・・」

2021-05-14 | 小父のお隣さん
 流路のカサスゲに居たカワトンボ。アサヒナカワトンボかと思ってみたのだがどうも体長が長く優に70mmを超えているサイズだった。ミヤマカワトンボでも無いしハグロトンボでも無いし、やはり体長があるのが気になって帰宅。
 図鑑を開いたらアサヒナカワトンボの類でも70mm程度はあったのだ。少々ガッカリなのだったがアサヒナカワトンボ、ヒガシカワトンボ、ニホンカワトンボの名称の変更が未だ記憶に留まらず混乱する。

      

立派なニホンアカガエル

2021-05-14 | 感じるままの回り道
 泥水池の草藪を歩いていたら足元に飛び出したニホンアカガエルは綺麗な体色と豊満な体型をした個体だった。前日、すぐ近くでヤマカガシを手に取ったばかりなので恐らく両者の遭遇機会もあるやもしれん。
 草むらを歩けばヌマガエルやツチガエルのようにピョンピョンと飛び出すほどの個体は見えないけれど平壌や寧辺のようにビョーンビョーンと打ち出すのは無いので平和なもんである。

 少年の頃、自宅の裏の田んぼで捕まえたアカガエルを空き缶で茹で近所の悪童と腿だけ食べた事があったが、空腹だったのか興味本位だったのか今では思い出せない遠い時空の事になってしまった。まあ、カエルを食べたいというより火遊びの一環だったのだろう。この事ではないだろうけれ近所の怖いお婆様が座敷でお茶飲みながら「火遊びは困る」と言う話をしていたのは記憶にあるから珍しくも無かったのだろうが、子ども心にも火遊びは集落の近くでは行ってはいけないと刈り取りの終わった田んぼの中でやっていた記憶はまだある。

 火遊びではないものの「ペンペングサ」や「彼岸花」を「家に持ち込んではいけない」とジジババ様から言われていたが、その理由は「火事になるから」だった。今になって思うとヒガンバナはケの花の類で理解できるのだがペンペングサはよう分からん。結果として「ペンペングサしか生えない場所」凋落の連想なのかどうか。
 今時の子ども時代は「豊か」になったに相違ないけれど内実は「貧困化」しているのも事実だろう。まあ、「カエルが鳴くから帰ろー!」なんてのは通じないし影も見えん住宅街。