先般、作り置きの御惣菜としてキムチ糀漬けを作ったのだがほぼ食べ終える時が来た。残りがお握り程度になった段階で「イナゴの佃煮」と合わせてみたのだ。ほぼ食べ終えるキムチ糀漬けは塩昆布にとろろ昆布、ナメタケに塩辛投入した「えっ!品」なのであるからして「更に美味しく」なるだろうと夢想・妄想甚だしく取り組んだのであった。
数日間、味をなじませるために我慢我慢の日々、待ちかねて故郷の新米に載せた。言わずもなが「美味しい」と言うより「旨い」の方が感覚に合う。ベースのキムチ糀はともかく馴染んだ美味しさなのだがイナゴは食感も味わいも一癖ある。端的に言えば「一口で二度おいしい」と言うべきだろう。もとより他人様に薦める食品でも無いのでお腹を壊さない限り「何でもあり」の貧乏孤爺の食膳なのだった。
イナゴはシオカラの様には食感もぬるくなるのかなあと思っていたものの「個性は譲らず」カリカリバリバリは健在だったし佃煮としてのイナゴの味わいはそのまま賞味出来たゆえの「一口で二度おいしい」のであった。まあ、キムチ糀やイナゴの佃煮など「気色悪い」と言う向きもあろうけれど、そういうお方は手出しなどしないしまあまあ、小生くらいしかこんな事をする人もいないだろう。一皿ン⁉万円もするようなご馳走を「美味しい!満足!」と受け取る舌の肥えた向きもあろうが小生、なにせ雅な魚沼の農家出身爺であるからして食事も由緒正しく長い伝統に裏付けられた振る舞いから逸脱は出来ないのである。
強いて言わずとも「三つ子の魂お爺まで」ナンチャラカンチャラであってまあ、小生の下は既に肥えることは無く年相応に由緒正しきを守っているのだ。で、姥捨て山の孤爺だし…。それはともかく台所の技能は「自ら食べたい物を食べたいように調理できる」事にあるだろう。何かで読んだ記憶なのだが「食べ物を運んでもらうのは病人か籠の鳥くらいだ」とは言い得て妙だけれど小生の本音は小年金高物価に尽きる。このままだと巾着も尽きるわい・・・。