歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

奈良県明日香村・飛鳥京跡 大型建物遺構を確認、飛鳥浄御原宮の関連施設か

2010年05月20日 | Weblog
 県立橿原考古学研究所は20日、飛鳥京跡(明日香村)で7世紀後半の大型建物の遺構を確認したと発表した。
 東西約30~35m、南北15mで、同時代の建物としては最大級。天武天皇と持統天皇の居所だった飛鳥浄御原宮(672~694年)の関連施設で、天皇の私的空間とみられ、後の平城宮のような内裏建物の先駆けかもしれないとする。
 昭和30年代に整備された吉野川分水路の改修工事に伴う調査で、昨年11月から今年2月にかけ、内郭の北西にある「外郭」地区にあたる、宮殿域のうち外郭を南西から北東へ斜めに横断する水路(幅約6m)のうち、南西部の延長200mを発掘調査した。コンクリートをはがした水路の壁などから、直径、深さとも約1・7mの柱穴が12基確認された。東西に4列並んでいた。直径約40cmの柱が立っていたと考えられる。柱の間隔が3mで一定するなど、計画的に配置。南北に庇が付いた建物(東西29・4m、南北15m)か、4面に庇が付いた建物(東西35m、南北15m)のいずれかの形状と推定される。大極殿の可能性もある内郭の「エビノコ大殿」(東西29・7m、南北15・6m)に匹敵する大きさ。
 現場は、内裏などがあった「内郭」の北面より約40m北側の地点。約70m西側には、周囲に果樹園などがあったとされる「飛鳥京苑池遺構」がある。
 現場は埋め戻されており、22日~6月4日まで同研究所付属博物館(奈良県橿原市)で、遺構の写真パネルを展示する。
[参考:時事通信、共同通信、読売新聞、産経新聞、奈良新聞、毎日新聞]

飛鳥京跡で柱穴出土、浄御原宮の関連施設か(読売新聞) - goo ニュース
飛鳥京跡に大型建物遺構=天皇の私的空間か―奈良(時事通信) - goo ニュース
飛鳥京で最大級の建物跡 天皇が住む内裏先駆けか(共同通信) - goo ニュース

過去の関連ニュース・情報
 飛鳥浄御原宮跡


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鈴鹿市・平田遺跡 奈良時代の道路跡と、鎌倉時代の屋敷地を確認

2010年05月20日 | Weblog
 鈴鹿市考古博物館は19日、同市平田本町の平田遺跡で、奈良時代頃の道路跡と鎌倉時代の屋敷地跡を確認したと発表した。
 出土した道路跡は、幹線道路級の幅9mで、長さ約15m。これまでの調査と合わせると、約130mを確認した。同市国分町で確認した伊勢国分寺河曲郡衙(かわのぐんが)から後期伊勢国府を結ぶ方向にあり、8世紀の奈良時代の官道、それも国道クラスとの見方を強めている。
 また、道路を含む屋敷地跡は二重の溝に囲まれ、東西41m、南北75m。建物の性格や内部構造は不明だが、大型の掘っ立て柱建物跡や井戸が確認された。
今回は2月からの調査で、道路や屋敷地跡のほか、古墳時代初め頃の竪穴住居12棟、方形周溝墓2基、幅5mを超える大溝などを確認した。
 このほか縄文・弥生土器、山茶碗、円面硯(けん)などの破片がコンテナバット(30cm3)36箱分出土した。
 22日午前10時から現地説明会が開かれる。
[参考:読売新聞、毎日新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛知県吉良町・駮馬炭焼古墳 95年に出土の大刀にハート形銀象嵌を確認

2010年05月20日 | Weblog
 吉良町教委は19日、同町駮馬(まだらめ)の駮馬炭焼古墳から95年に出土した7世紀前半の大刀(長さ71cm、幅2cm)に、ハート形の模様を刻む銀象嵌の装飾が見つかったと発表した。大刀は石室の壁に立てかけられた状態で出土し、エックス線撮影と錆び除去の結果、銀象嵌を確認した。銀象嵌の大刀の出土は県内7例目で、大和朝廷が被葬者に贈ったとみられる。
 ハート形は縦1cm、横2cmで、大刀の鐔(つば)の表と裏に各4カ所、刀に鐔を固定する金具「鎺(はばき)」に4カ所の計12カ所に銀象嵌が施されている。線の文様もあった。また、縁金具や鞘の先端の金具にU字形の模様が施されていた。
 同古墳は7世紀前半築造の円墳で、直径約7mと規模は小さい。
 銀象嵌の大刀は、町歴史民俗資料館(同町白浜)で6月1日から常設展示される。
[参考:毎日新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

向日市・物集女車塚古墳 石室と石棺を公開

2010年05月20日 | Weblog
 市教委は25~29日、古墳時代後期(6世紀中頃)の前方後円墳(全長約45m、高さ8m)で京都府指定文化財の「物集女車塚古墳」(同市物集女町)の石室を公開する。
 同古墳の埋葬者は不明だが6世紀前半、乙訓地方に「弟国宮(おとくにのみや)」をつくったとされる継体天皇の擁立に協力した有力者だと考えられている。
 石室は横穴式で、玄室と羨道から成る。玄室には、凝灰岩製の板材を組み合わせた石棺もある。
 公開に合わせ、向日市寺戸町の市文化資料館は5月22日から6月13日まで、同古墳から出土した埴輪や金属器などを展示する。
 石室の見学希望者は向日市教委文化財調査事務所へ電話で予約が必要。
[参考:京都新聞]



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐賀市・佐賀城跡 龍造寺氏の居城・村中城の遺構を初発見

2010年05月20日 | Weblog
2010.5.20 現地説明会が5月16日に行われ、歴史ファンら約300人が訪れた。
 一緒に出土した備前焼すり鉢の破片などから、市教委は村中城の一部の可能性があると判断した。
 説明会では、市の担当者が「発掘された遺構は、村中城か、寺社など付属施設の建物跡と考えられる」と解説。
 市は7月まで調査を続け、現状を保存した上で埋め戻し、道路を整備する方針。
[参考:時事通信]

2010.5.15 佐賀市・佐賀城跡 龍造寺氏の居城・村中城の遺構を初発見
 佐賀市教委は14日、同市城内1丁目の「西の御門橋」近くの市道工事現場で、戦国大名・龍造寺(りゅうぞうじ)隆信(1529-84)の居城だった中世の平城(ひらじろ)・村中城の掘立柱建物跡2棟が見つかったと発表した。佐賀城の前身とも言える村中城関連の遺構が確認されたのは初めてという。
 龍造寺家は、鎌倉時代から肥前国の有力者だったが、全盛期を築いた龍造寺隆信が薩摩・島津氏との戦いに敗れ敗死したのを境に没落。その後、領国を鍋島家が掌握し、鍋島直茂(1538-1618)・勝茂(1580-1657)父子が江戸期の1608-11年、村中城を拡張し、巨大な堀を有する佐賀城に整備し、佐賀藩を創設した。村中城に関する資料や遺構は見つかっておらず、詳細は一切不明だった。
 今回の発掘調査は、市道改良工事に伴って2~7月の予定で実施している。
 佐賀城西堀に架かる「西の御門橋」周辺350㎡で、江戸時代の地表を80cm掘り下げたところ、地面に支柱を埋めて建造する「掘立柱建物」2棟の柱穴跡が東西に整然と並ぶ状態で計25個見つかった。穴の大きさはほぼ同じで、東側建物の穴は、直径が平均55-65cm、深さ50cm、西側は直径、深さとも平均65cm。いずれも約2~2・5m間隔で並んでいた。
 柱穴は、調査区外まで広がっている可能性が高いため、全体の規模や種類は特定できていない。ただ、現場の同じ地層から、16世紀後半の中国・景徳鎮や朝鮮半島産の高麗青磁や国産陶器などが見つかり、建物跡が大規模であることから、隆信時代の村中城の関連建物と判断した。有力家臣の屋敷や寺社といった城の付属施設と考えられるという。
 現地説明会が16日午前9時半から開かれる。10時、11時、午後2時、同3時に各約30分間担当者が解説する。小雨決行。
[参考:西日本新聞、読売新聞、佐賀市HP]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大津市・南滋賀遺跡 大壁造り建物跡出土

2010年05月20日 | Weblog
 市教委が19日、南滋賀遺跡(同市南志賀)で、朝鮮半島の特徴を持つ古墳時代後期(6世紀後期)の大壁造り建物1棟の跡や移動式の竈(かまど)などが見つかったと発表した。
 約2km北の穴太遺跡(あのういせき)でも今年2月、同時期の同建物2棟の跡などが出土(注1)しており、比叡東麓に渡来系の人々が集落を広範囲に営んでいたことを裏付ける発見としている。
 大壁造り建物は、建物の周囲を巡る溝に立てた柱を芯にし、土壁を設ける工法。滋賀・奈良両県以外では珍しく、大半が渡来人の集落で見つかっている。
 同遺跡は弥生―平安時代の複合遺跡。2月から約750㎡を発掘したところ、大壁造り建物の東辺(約9m)の柱材17本(最長80cm)が20~50cmの幅で検出し、移動式の竈などの土器も多く見つかった。
 また、同時期の掘立柱建物跡2棟の一部(1辺4~5m)や、据え付けの竈の跡なども検出。大壁造り建物と併存していたかどうかは不明だが、用途などによって建物を使い分けていた可能性もあるという。
 現地説明会が22日午後1時半に開かれる。
[参考:読売新聞、中日新聞]

過去の関連ニュース
 (注1) 2010.2.18大津市・穴太遺跡 古墳時代後期の大壁造り建物2棟などの跡が出土
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四川省成都市・金沙遺跡 祭祀用の高床式建物跡「古蜀大社」を発見、日本の神社建築のルーツか

2010年05月20日 | Weblog
 金沙博物館が「国際博物館の日」に合わせて発表した最新の発掘状況で、四川省成都市郊外で01年に発見された約3000年前の「金沙遺跡」で、日本の神社建築のルーツと見られる高床式の祭祀建物の跡が見つかっていたことが明らかになった。
 金沙遺跡は同省広漢市で発見された約3000年~5000年前の「三星堆遺跡」と並び、古蜀文明の謎を解く重要なカギとして注目されている。出土品が似ていることから、金沙文明は三星堆文明を引き継いだものであると考えられている。金沙遺跡からは祭祀用の器や黄金のマスクなど6000点以上が出土しているが、その90%以上が発掘された祭祀遺跡に建物の柱穴が9本見つかっていた。柱の穴は角が丸い四角形で、1辺の長さ0.45m、深さ約1.3m。これは商代末期―西周前期(紀元前1200年~同900年前)のもので、長い階段のようなものと草または木の皮で葺いた屋根を持つ高床式建物の跡であることが分かった。高さは10数mとみている。公開されている建物の復元写真をみると、平面は柱間が正面2間・側面2間であり、その上に東屋(亭子)が乗り、東屋に入るための階段が右側にある。
 祭祀用に建てられたもので、祭祀を取り仕切る蜀王だけが登ることを許されていたと推測されている。
 中国の古代建築物の専門家、楊鴻(ヤン・ホンシュン)教授はこの建物を「古蜀大社」と名付け、日本の神社の原型だと述べている。
[参考:Record China、四川新聞、成都日报]

2010.5.25 追記およびコメント
 本ニュースに関しては、中国国内の大手新聞のみならず四川省、成都市などの地方新聞あるいは情報サイトでも大きく取り上げられているのにかかわらず、残念ながら日本ではRecord Chinaの情報をインターネットの情報サイトで取り上げられているのみである。
 筆者は、2004年に開催された「よみがえる四川文明 三星堆と金沙遺跡の秘法展」(東京美術館)を見学した。その時に図録を購入したので、あらためて見直したが、2001年に発掘した史料・情報を載せているのみで、今回の出土場所のことはまったく触れていなかった。それもそのはず、神社のルーツとみられる柱穴は2002年12月に発見されている。
 初め、模底河の南の梅苑祭祀区がその出土場所かと思ったが、その東隣に位置する黄土台がそのようである。
 四川新聞を見ると、金沙遺跡博物館副館長朱章義氏は「金沙遺跡祭祀区は黄土台建造前に在り、主要祭祀用品は石器や象牙であったが、黄土台建造後は突然大量の金器、銅器、玉器等の祭祀用具が現れる。」と言っている。
[参考:四川新聞、金沙遗址博物馆HP]


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都府精華町・鞍岡山3号墳 鉾を立てた送霊船を描いた円筒埴輪などが出土

2010年05月19日 | Weblog
 精華町教委は19日、鞍岡山3号墳(直径約40m、高さ約6・5mの円墳、4世紀末~5世紀初め)の墳丘頂上部付近で、権威の象徴とされる武器「桙(ほこ)」を立てた「送霊船」が描かれた円筒埴輪が見つかったと発表した。
 破片のひとつに長さ15cm高さ7cmに描かれた船は、外洋航海などに使われたとされる「準構造船」で、甲板には桙が立てられ、装飾された鞘も表現されていた。船の前後には波よけ板も描かれている。
 武具と船を表現した円筒埴輪は、奈良県天理市の東殿塚古墳(4C初)に次いで全国で2例目。被葬者の魂を船によって来世へ運ぶという、古代人の死生観を具体的に示す資料として注目される。
 墳丘の南側からは、斜面に石を敷き詰めた島状遺構(縦約7m、横約6m、高さ約30cm)が見つかった。円筒埴輪のほか、大型の家形埴輪(高さ80cm以上)2個分の破片や、被葬者に供える食べ物を入れる「ざる形土器」、土師器の高坏が残っていたことから、祭礼儀式を再現した場所だったとみられる。
 家形埴輪などを伴う島状遺構は、大規模な前方後円墳で確認されているが、今回のような中規模古墳から見つかるのは珍しいという。
 地元の首長の墓とみられ、木棺2基を粘土で覆った痕跡や、鉄剣12本も出土。墳丘と島状遺構からは、表面を覆っていたとみられる葺石も見つかった。
 現地説明会は22日午前10時半~午後3時に開かれる。
[参考:共同通信、産経新聞、NHK]

過去の関連ニュース、情報
 2009.3.4鞍岡山2号墳 2基の木棺跡を検出、現地説明会3/7
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福岡県久山町・首羅山遺跡 これまでに見つかったものより約100年古い山岳寺院建築物の基礎部分を発見

2010年05月19日 | Weblog
 久山町教委は19日、鎌倉時代に最盛期を迎えた後に歴史から姿を消した「幻の山岳寺院」と呼ばれる首羅山遺跡で、これまで見つかったものより約100年古い12世紀前半ごろに造られたとみられる建造物の基礎部分を発見したと発表した。
 新たに見つかった基礎部分は、現存する13世紀前半の基礎部分から約1m下の地中にあった。一辺が約15mの正方形で、開山当時の寺院が立っていたらしい。
 遺跡がある白山(標高289m)の山頂部にある「白山神社経塚」は、1109年造営と分かっており、一帯の山岳寺院もこの時期に開山したとみられる。
 今回の調査では、「梵字文軒丸瓦」が大量に見つかったほか、石垣の跡も確認された。
 現地見学会が29日(土)に行われる。9:30出発 12:00散会予定。集合場所は白山神社。
[参考:産経新聞、2010.4.30久山町HP]

過去の関連ニュース
 2009.5.17 首羅山遺跡 山岳寺院の遺構確認
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

河南省洛陽市・三国志の英雄・曹操の武将「曹休の墓」を発見

2010年05月18日 | Weblog
 2010年5月17日、河南省文物局は同省洛陽市孟津県で三国時代の英雄・曹操(155~220年)の武将で甥にあたる曹休(?-228)の墓が発見されたと発表した。曹休は曹操とは血縁関係はないが、実子のようにかわいがられた。
 曹休のものと発表された墓は09年4月、連霍高速道路の拡張工事の最中に発見され、同年5月から発掘作業が行われていた。
 墓の大きさは東西50.6m、南北21.1m、深さ10.5m。盗掘の際に開けられた穴も6カ所見つかったが、全体的に保存状態は良好。墓の前室と側室のいずれからも散乱した人骨が発見され、男性と女性各1人ずつのもので、男性は50歳過ぎで身長は約171cm、女性は40歳前後であることが分かった。墓の後室から約2cm四方の「曹休」と彫られた銅印が見つかったことが、墓が曹休のものだと断定する重要な決め手となったという。
 北の側室にも棺桶が置かれた形跡があることから、墓は3人が合葬されたものだとみられている。このほか、陶器や銅器、鉄器、金銀器なども発見された。
[参考:共同通信、Record China、中国新聞網]

「三国志」関連の曹休の墓発見 中国河南省(共同通信) - goo ニュース

過去のニュース・情報
 2010.1.25河南省安陽市・曹操高陵 真偽判定のためDNA鑑定に着手
 2009.12.28河南省安陽市・曹操高陵 三国志の曹操の墓と認定
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

府中本町・武蔵国府関連遺跡出土、異形石製品(琴柱形石製品)について

2010年05月18日 | Weblog
 5月15日に行われた現場見学会では出土した遺物も展示された。
 そのなかで、異形石製品について興味があったので手持ちの資料からまとめてみた。
 古墳時代前期(4C)の遺構から2.5cmほどの管玉と一緒に、幅約2.3cm、高さ約2.3cmの異型石製品(滑石製)が出土している。一見して、亀井正道氏が分類した琴柱形石製品のうちの本村型(ほんむらかた)ではないかと感じた。上部に懸垂用の小孔2個があり、小型のペンダント状で、しかも下部に勾玉状の突起を外向きにつけた形態で、外形は本村遺跡(浦和市・埼玉大学構内)とそっくりである。ただ、本村遺跡出土品が上方に格子文があるのに対し、本遺跡出土品は模様がはじめからなかったか、あるいは磨耗で見えなくなったか、肉眼では模様が見えない。
 竪穴建物跡から管玉と一緒に出土していることから、祭祀用としてでなく装飾用として使用した可能性が高いとみられる。
 ちなみに、これまでに出土した本村型の一覧表を下記に表してみる。資料は5年ほど前に調べたものなので、新たに発見されたものは含んでいないし、資料ごとに寸法がやや違う場合もあるし、残欠品も多く、その場合寸法は推定で記したものもある。

琴柱形石製品(異形石製品)一覧
(◎は下部に勾玉状の突起を外向きにつけた形態のもの、□は下部横列に三日月状の穴を開けた形態のもの)
◎ 下槙遺跡(山形県) 2点 20W×25H、20W×27H 滑石製 5前半
◎ 厩洞穴(富山県) 1点
◎ 厨1号洞穴(福井・越前町) 1点 18H×22W 滑石製 4後半~5初
◎□ 下佐野遺跡(高崎市) 未完成品218点 古墳前期、玉作工房跡から出土、三波川変成帯の蛇紋岩・滑石で製作
◎ 能野堂遺跡(高崎市) 1点 23W×27H滑石(蛇紋岩)製
□ 千鳥遺跡(伊勢崎市)・1点 古墳前期 36W×39H 滑石製
◎ 本村遺跡(埼玉大学構内) 1点 24H×24W 6C前半 滑石製
□ 向新田遺跡(印西市)1点 古墳前期 滑石製
□ 閏井戸西山遺跡(市原市) 1点 25W×31H 古墳前期前半 蛇紋岩(秩父産?) 
□ 上谷本第二遺跡(横浜市) 1点 24W×34H 滑石製、5C前半
□ 永塚下り畑遺跡(小田原市) 26W×26H 滑石製
□ 小深田遺跡(焼津市) 1点 20W×29H 滑石製 古墳前期
? 大谷古墳群(掛川市) 1点 21W×26H? 滑石製 山頂遺物包括層より出土
□ 鬼釜遺跡(長野県池田町) 1点 24W×25H 滑石?
□ 長瀬高浜遺跡(鳥取県羽合町)1点 ?W×26H 滑石製 古墳前期

参考資料
琴柱形石製品考(『東京国立博物館紀要』8) /1973亀井正道
古墳時代前期の異形垂飾品(所謂本村型琴柱石製品)について /伊丹徹(葉山町教育委員会)
「閏井戸西山遺跡」鈴木英啓 /1986(財)市原市文化財センター
下槙遺跡発掘調査報告書/山形県埋蔵文化財調査報告書39/ 1981長橋至
下佐野遺跡Ⅱ地区(1)縄文時代・古墳時代編(1986 群馬県教委・(財)群馬県埋蔵文化財、日本鉄道建設公社)
下佐野遺跡2地区. 縄文時代・古墳時代編 / 群馬県埋蔵文化財調査事業団 編 1986年
下曽我遺跡・永塚下り畑跡第Ⅳ地点2002.9 鎌倉遺跡調査会/下曽我遺跡調査団
熊野堂遺跡(2)遺物編1/群馬県教育委員会、群馬県埋蔵文化調査団、JR 1990
千葉県文化財センター年報No.9 「向新田遺跡」

過去の関連ニュース
 武蔵国府関連遺跡2010.5.15現場見学会
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蔚山・山下洞遺跡 新石器時代~三国時代多様な大規模遺跡発掘

2010年05月18日 | Weblog
 (財)蔚山文化財研究院は17日、蔚山北区江東山下都市開発事業地区「山下洞遺跡(산하동유적)」で行った発掘調査結果を発表した。新石器時代から青銅器時代を経て三国時代までの古墳群と住居跡、竪穴など多様な遺構が確認された。
■新石器時代竪穴20基、柱穴群は2ヶ所。江東海岸(강동 해안)では最初の新石器時代遺構の発見。
■青銅器時代住居跡120余棟、環形穴を含む、穴15基、柱穴群は4ヶ所など
■三国時代遺構には木槨墓と石槨墓160数基、甕棺墓5基、石室墓17基、掘立柱建物跡2ヶ所、車輪跡1ヶ所、竪穴と穴および柱穴群は多数などが調査された。東南海岸辺で発掘された古墳群の中で最も規模が大きく、古墳群全体が発掘され、古墳の形成と変化および消滅過程を研究できる資料と評価。
 新羅時代地方社会の一面を考察できる良い資料になるとしている。
 現場説明会が17日行われた。
[参考:聨合ニュース、蔚山新聞]

過去の関連ニュース
 2009.6.3・蔚山市 兵営城近隣で大規模村遺構が初めて発掘



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

府中本町・武蔵国府関連遺跡 現場説明会 2010.5.15

2010年05月16日 | Weblog
 5月15日、武蔵国府関連遺跡(府中御殿跡を含む)の現場説明会に行ってきました。10時から16時にかけて、説明員の方、ずっと説明し続けでさぞかし疲れたことと思います。ご苦労様でした。
 写真は南東から北西方向を撮影。「府中御殿」跡の遺構が出土。

 さて、地図を見ただけでは遺跡場所の状況はわかりにくい。江戸名所図会には「武蔵国造兄武日命(えたけひのみこと)殿館の旧跡 妙光院の前の岡を云ふ。上古国造居館の地なり。御入国の後この旧居に省耕(せいかう)の御殿を建てさせられしより、(略)」と記されている。
 遺跡は東西に延びる府中崖線の台地の際にあり、古くから「御殿地」と呼ばれていた。妙光院までは西に約200m。途中、金比羅坂(注1)という下り坂があり、また遺跡のすぐ東を通る府中街道の妙光院(写真)(注2)、安養寺(写真)(注3)の横を下る御殿坂(写真)がある。御殿坂を下リ切った安養寺横あたりと遺跡との標高差は約15~20mとか。「岡」といわれる所以である。遺跡の南には多摩の横山(注4)が、西には富士が眺めることができる絶景の場所であった。
 遺跡からは、古墳時代前期(4C)、後期(6C)、奈良・平安時代(8C前半・10C後半)、中世(13~16C)の遺構が出土している。

(注1) 妙光院と西の丘にある鎮守堂の金比羅堂との往来のために明治末期に作られた坂。金比羅堂は府中御殿跡の真東100mの距離に位置し、古くから祀られているがいつ頃から存在していたかどうかは不明。
(注2) 真言宗豊山派の寺院で、本覚山妙光院真如寺と号す。もとは京都仁和寺の門末に属し末寺28ヶ寺を持つ当地真言宗の道場であった。貞観元年(859)平城天皇の第三皇子真如法親王の開山で、親王の弟子慈済僧正の開基であるという。
(注3)天台宗の寺院で叡光山佛乗院安養寺と号す。寺縁起では、貞観元年(859)、円仁(慈覚大師)によって開山。その後、 中興開祖尊海僧正が勅命により永仁4年(1296)に再興したと伝えられる。天台宗上州世良田の長楽寺に属すと。明治維新前は武蔵総社大國魂神社の別当寺であった。明治16年(1883)には長楽寺の末寺を離れ比叡山延暦寺の直轄寺となる。
(注4) 多摩川南岸一帯に広く連なる多摩丘陵。
万葉集巻20-4417に、「赤駒を山野に放し捕りかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らむ」(椋椅部荒虫の妻 宇遅部黒女)が詠まれている。

主要な調査成果
1. 8世紀前半の5棟の掘立柱建物跡が5棟確認されている。建物は南北を軸として整然と並んでいて、多摩の横山を重視して建てられている様相がうかがえる。正殿とみられる四面庇建物跡(写真)が出土しているという。柱穴はすべてが揃っていないが察すれば、東西5間×南北4間の建物とみられる。前殿(東西6間×東西2間)、西側の脇殿(写真)、ほかに不明な建物2棟の柱穴とみられるものが出土している。もし、東側の脇殿があるとすれば、現在の府中街道に下に埋まっているはずとしている。
 同じ層からは、すり鉢形の氷室状遺構(写真)が見つかっている。

2. 徳川家康の「府中御殿」跡とみられる遺構は、建物跡計4棟が出土している。これらを囲む柵の柱穴(写真)が約1・8m間隔で延べ約100mにわたって並んでいるのが見つかり、御殿の範囲は南北75m以上、東西55m以上に達することが分かった。ただし、御殿の主要部はまだ確認されていない。御殿は真西からやや南に20度振れた方向を正面としていて、これは富士山の見える方向を意識して作られた様相を示している。
 御殿は1590年に造営され、家康、秀忠、家光の将軍3代がタカ狩りの際に使ったり、奥州征伐を終えた豊臣秀吉を招いたりしたとされるが、1646年に焼失したとする記録が残っている。同じ層から石組みの井戸(写真)が見つかっており、内部からは火災で焼けた痕跡も見つかった。

過去の関連ニュース・情報
 2010.5.11府中本町駅前 古代武蔵国府の重要施設および家康の「府中御殿」の遺構が見つかる
 2010.3.19府中本町駅前 武蔵国司館跡か 大型の建物跡4棟出土
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

総社市・窪木遺跡 大型総柱建物跡が出土、賀夜郡衙の正倉か

2010年05月16日 | Weblog
 総社市教委が発掘調査している窪木遺跡(同市窪木)で11日までに、新たに大規模な倉庫群跡が出土した。「正倉」の可能性があり、古代山城・鬼ノ城(同市奥坂)を含む同郡の統治体制を知る上で重要な成果になりそうだ。
 今年2月には、7世紀末から8世紀初めの大型建物跡が出土。現在の総社・岡山市から高梁市一帯までを占めた賀夜郡の郡衙政庁跡である可能性が指摘されている。
 倉庫群跡は、政庁想定域から幅4m以上の大溝を挟んで北側の微高地で見つかった。建物跡は1辺が1m前後、深さ50cm以上もある大型柱穴(柱は直径25cm程度)が規則的に並んだ状態で出土し、計12棟分を確認。いずれも高床倉庫建築に特有の建物内にも柱を立て並べる総柱建物跡で、短辺が2・5m、長辺が3・7m以上の大きさがある。
 今回の倉庫跡群は、窪屋郡衙跡に比定される三須河原遺跡(同市三須)を上回り、県南部の古代遺跡で最大規模の倉庫跡群となるという。
[参考:2010.5.14山陽新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.2.17 総社市・窪木遺跡 庇付きの大型建物跡が出土、賀夜郡衙跡か
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松本市・牛伏寺 鉢伏山中腹から青銅の仏具「鉦鼓」が出土

2010年05月15日 | Weblog
 厄よけ祈願で知られる牛伏寺(松本市内田)は14日、かつて同寺があったとされる鉢伏山(1928m)中腹で人工的な平面地形が残る「堂平」と呼ばれる場所の発掘調査で、念仏を唱える際に叩いて調子を取る仏具で、11~13世紀の製造とみられる青銅の「鉦鼓(しょうこ)」1点が出土したと発表した。県内では中野市などで江戸時代以前の鉦鼓が4点確認されているが、ほぼ完全な形で見つかったのは初めてという。
 鉦鼓は、もとは雅楽の楽器で、遅くとも平安時代には仏具としても使われ始めた。中野市の出土品は鎌倉後期の延慶元年(1308)の銘があり、県宝に指定されている。
 今回出土したのは直径12cm、高さ3・6cmの円筒形の銅製で、重さは470g。下部外周のつばに脚が3本付いている。上面中央部に、たたいた跡とみられるへこみがある。同時に出土した土器片にも、灯明を使ったことによるとみられる煤(すす)が付着したものがあり、堂平で何らかの宗教活動が行われていた可能性があるとみている。 発掘現場は、470余年前に同寺があったとされる山中で、現在地より標高が約180m高い。寺の歴史を明らかにしたいとの檀家の要望もあり、今月9日に原課長が指導して3カ所を試掘。ほかに土器片や刀子など約300点が出土し、土器片の形式などから11~13世紀と年代を推定した。
 現場説明会が16日午前8時半から開かれる。
 鉦鼓は銘を調べるなどして年代を特定し、9月18日から県立歴史館で開く企画展で公開する予定。
 牛伏寺は真言宗・智山派、金峯山牛伏寺(きんぽうざんごふくじ)といい、約1300年の歴史を持つ古刹。戦国時代の天文3年(1534)、鉦鼓が出土した場所から現在地に移ったと伝えられる。
[参考:信濃毎日新聞、中日新聞、牛伏寺HP]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする