歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

京都市・平安京 大極殿を造営する際の「掘り込み地業」の遺構が出土

2010年05月25日 | Weblog
 京都市中京区の平安宮跡で、遷都(794年)前後に「大極殿」を造営する際に施されたとみられる掘り込み地業(ちぎょう)の遺構が市埋蔵文化財研究所の調査で見つかった。
 平安宮の大極殿は桓武天皇による遷都の際に建てられたが、1177年の火災以降は再建されなかった。絵巻物から平安後期の大極殿は東西53m、南北21mの単層だったと推定されているが、中世以降の開発で遺構などはほとんど確認できていない。
 同研究所が大極殿正殿の推定地の北西角を発掘したところ、全面で南北5m、東西13mにわたって地業跡が出土。深さは0・9m以上で、土を何層にも突き固める「版築」の工法が用いられていた。
[参考:読売新聞]

平安宮大極殿、「基礎工事」跡が出土(読売新聞) - goo ニュース
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宇治市・平等院鳳凰堂 平安時代中期頃の地層からサルスベリの花粉を発見 通説を遡る時代に植栽?

2010年05月25日 | Weblog
 平等院と高原光・京都府立大大学院教授(森林科学)が24日、江戸時代初期頃に中国から日本に伝わったとされていたサルスベリの花粉が、平等院鳳凰堂(1052年創建)にある阿字池(あじいけ)に堆積した940年(平安時代中期)頃の地層から発見されたと発表した。
 サルスベリは、醍醐寺(京都市)の僧侶が、江戸初期の1604年に境内に植えられたと日記に記したものが最古の記録となっていたが、通説より600年以上も前から植栽されていたことになり、渡来時期が大幅に遡ることになる。
 また、サルスベリの花粉の飛散距離は数百m以内であることなどから、阿字池の南側に植栽されているサルスベリが、最古の系統になる可能性もあるとしている。
 平等院の場所は、9世紀末に源融(みなもとのとおる)、10世紀後半に源重信ら貴族が別荘を構えたとされる。その後の998年、藤原道長が買収し、その子頼通が寺とした。
[参考:時事通信、毎日新聞、産経新聞]

過去のニュース・情報
 2010.3.25 平等院鳳凰堂・「仏後壁」(国宝)に描かれた舞楽は延喜楽と判明
 2090.1.24 平等院鳳凰堂・仏後壁(国宝)極楽浄土図の全容が明らかに 藤原頼通も描かれる?
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八幡市・石清水八幡宮 境内に大石内蔵助ゆかりの「太西坊」跡が出土

2010年05月25日 | Weblog
 市教委が21日、石清水八幡宮境内で赤穂藩士の大石内蔵助(1659-1703)ゆかりの僧坊「太西坊(だせいぼう)」跡が見つかったと石清水八幡宮境内遺跡調査専門委で明らかにした。
 太西坊跡は、江戸時代中期に作られたとされる絵図から位置は分かっていたが、今回の調査で、八幡宮の本殿裏で枯れ葉などに埋もれるようにして見つかった。本堂とみられる建物の痕跡部分には、直径約1mの花崗岩の礎石7基が6m四方に配置され、礎石の上部には柱がのせられるような四角いくぼみがあった。
 地誌「男山考古録」によると、赤穂浪士の討ち入りの頃、太西坊の住職は大石家の親類から養子に迎えられ、住職についた覚運(かくうん、1687-1754)。「仇討ちのことについて密かに手助けをした」などと書かれている。覚運の前の住職は内蔵助の実弟・専貞(?-1698)が務めており、大石家と石清水八幡宮との関係が浅くないことをうかがえる。
[参考:朝日新聞]

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 石清水八幡宮
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