同市教委文化財課は、2007年度から本陣山近辺の陣城群を調査。成果を「鳥取城調査研究年報第3号」にまとめた。
1580年と81年の2回、織田信長の部将・羽柴(豊臣)秀吉は毛利氏の部将・吉川経家が守る鳥取城を攻めた際、本陣山(太閤ケ平)に本陣を置き、城の周囲12kmにわたって陣城(じんじろ)、空堀、土塁などを築き、食料が城に入るのを断つ兵糧攻めで落城させた。本陣山一帯に築いた城攻めのために造った陣城は、三つの陣城を空堀でつないだ全長750mという戦国時代には例のない壮大な防御ラインを持っていたことが、鳥取市教委の調査で10日までに裏付けられた。
本陣山の山頂にある秀吉本陣は土塁と空堀で囲まれ東西、南北それぞれ58m。空堀の幅は5~7・5m、土塁の高さは空堀の底から2~4・5mある大きな造りだった。
鳥取城側(秀吉本陣の西側)に大規模な陣城を3カ所設け、郭(くるわ)(陣地)や土塁、空堀などを築いた。
3カ所の陣城をつなぐ空堀の総延長は680m、郭の部分を加えると750mにも及ぶ頑強な防御ラインを構築。中でも北の秀吉の弟・秀長の陣と伝わる陣城には長さ98~112m、幅5~9m、深さ3~5mもある長大な空堀が3重になっていた。
戦国時代の城のほとんどは土を掘って造った空堀や郭、土塁の「土造りの城」。秀吉が築いた陣城は、鳥取城攻めの9年後の小田原城攻めでは石垣造りとなる。
[参考:日本海新聞、毎日新聞]
1580年と81年の2回、織田信長の部将・羽柴(豊臣)秀吉は毛利氏の部将・吉川経家が守る鳥取城を攻めた際、本陣山(太閤ケ平)に本陣を置き、城の周囲12kmにわたって陣城(じんじろ)、空堀、土塁などを築き、食料が城に入るのを断つ兵糧攻めで落城させた。本陣山一帯に築いた城攻めのために造った陣城は、三つの陣城を空堀でつないだ全長750mという戦国時代には例のない壮大な防御ラインを持っていたことが、鳥取市教委の調査で10日までに裏付けられた。
本陣山の山頂にある秀吉本陣は土塁と空堀で囲まれ東西、南北それぞれ58m。空堀の幅は5~7・5m、土塁の高さは空堀の底から2~4・5mある大きな造りだった。
鳥取城側(秀吉本陣の西側)に大規模な陣城を3カ所設け、郭(くるわ)(陣地)や土塁、空堀などを築いた。
3カ所の陣城をつなぐ空堀の総延長は680m、郭の部分を加えると750mにも及ぶ頑強な防御ラインを構築。中でも北の秀吉の弟・秀長の陣と伝わる陣城には長さ98~112m、幅5~9m、深さ3~5mもある長大な空堀が3重になっていた。
戦国時代の城のほとんどは土を掘って造った空堀や郭、土塁の「土造りの城」。秀吉が築いた陣城は、鳥取城攻めの9年後の小田原城攻めでは石垣造りとなる。
[参考:日本海新聞、毎日新聞]