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歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

鳥取市・本陣山 3つの陣城を空堀でつないだ全長750mの防御ライン

2010年05月12日 | Weblog
 同市教委文化財課は、2007年度から本陣山近辺の陣城群を調査。成果を「鳥取城調査研究年報第3号」にまとめた。
 1580年と81年の2回、織田信長の部将・羽柴(豊臣)秀吉は毛利氏の部将・吉川経家が守る鳥取城を攻めた際、本陣山(太閤ケ平)に本陣を置き、城の周囲12kmにわたって陣城(じんじろ)、空堀、土塁などを築き、食料が城に入るのを断つ兵糧攻めで落城させた。本陣山一帯に築いた城攻めのために造った陣城は、三つの陣城を空堀でつないだ全長750mという戦国時代には例のない壮大な防御ラインを持っていたことが、鳥取市教委の調査で10日までに裏付けられた。
 本陣山の山頂にある秀吉本陣は土塁と空堀で囲まれ東西、南北それぞれ58m。空堀の幅は5~7・5m、土塁の高さは空堀の底から2~4・5mある大きな造りだった。
 鳥取城側(秀吉本陣の西側)に大規模な陣城を3カ所設け、郭(くるわ)(陣地)や土塁、空堀などを築いた。
 3カ所の陣城をつなぐ空堀の総延長は680m、郭の部分を加えると750mにも及ぶ頑強な防御ラインを構築。中でも北の秀吉の弟・秀長の陣と伝わる陣城には長さ98~112m、幅5~9m、深さ3~5mもある長大な空堀が3重になっていた。
 戦国時代の城のほとんどは土を掘って造った空堀や郭、土塁の「土造りの城」。秀吉が築いた陣城は、鳥取城攻めの9年後の小田原城攻めでは石垣造りとなる。
[参考:日本海新聞、毎日新聞]


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奈良市・新薬師寺 昨年出土の八角柱に加工の墨線 構築物自体も八角の可能性

2010年05月12日 | Weblog
 昨年8月7日に奈良教育大が、構内にある新薬師寺旧境内の金堂跡の前から、奈良時代8世紀の橋脚とみられる八角形の掘っ立て柱2本が見つかったと発表した。
 柱は金堂跡の南約60mから、金堂の中軸線をまたぎ、東西に約3mの間隔で並んで出土。ヒノキ製で直径約30cm、高さは東側が約80cm分、西側が約20cm分残っていた。柱穴は一辺約90cmの方形で、柱を支える直径15~30cm大の石が底に詰め込まれていた。付近には水が貯まった跡があり、この辺りが池か溝であった可能性が高く、金堂正面に向かって南北に延びる橋の橋脚か、あるいは八角形を意識した特別な建築物の一部で、遺構と金堂との間に奈良時代では例のない園庭があったことも考えられているとしていた。
 今回、奈良教育大学と奈良文化財研究所が新薬師寺跡で見つかった奈良時代の八角柱を赤外線などで調べたところ、コンパスの穴を中心にした円や十字、八角の縁の墨線が見つかり、円柱に加工するための面取りではなく、八角形を意識していたことが明らかになった。古代の建築例から、構築物自体が八角だった可能性が強まったとしている。
 八角柱は法隆寺の八角円堂(739年)、栄山寺(719年)の八角堂、興福寺北円堂(721年)に見られる。
[参考:2010.5.12奈良新聞、2009.8.7共同通信、読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.8.9新薬師寺 金堂前から奈良時代の八角形の柱が出土
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