歴歩

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忠南天安市稷山・慰礼山城 百済最初の都? 城門跡を初めて確認

2010年05月03日 | 韓国の遺跡・古墳など
てんなんしてんあんし 忠南天安市(충남 천안시)は、昨年11月から三国遺事など文献の記録と一部史学会で比定された「百済の最初の都が天安市稷山慰礼山城(직산 위례산성)」の事実を確認するために、忠南歴史文化院(충남역사문화연구원은)に依頼し天安市慰礼山一帯の発掘調査を始めたが、1次調査では百済時代から統一新羅時代に達する遺物などを多数発見したが、百済最初の慰礼城を特定する成果は得られなかった。(2010.4.1)

 忠南歴史文化研究院は3日、慰礼山城発掘調査で生活遺構跡と共に門跡1ヶ所を確認したと発表した。慰礼山城で初めて門跡が確認され、城門場所の年代測定のため細部調査の必要性が提起された。
 確認された門跡は版築されていて、改築された城壁の下の層で確認され、細長方形と長方形に近い石材を段々に積み上げた側壁が明確に露出しており、側壁は城内側から丸く弧をなし城の外まで長くの延びているのに片側面だけしか確認されなかったため、正確な構造および築造時点は確認できなかった。
 また、発掘調査では「牛角形把手部(우각형 파수부)片」「三足土器(삼족토기)片」の他に、製作年代を百済漢城期まで推定可能な「打捺文土器(타날문토기)」が出土した。
 天安市は今回の発掘調査結果を基に、今年下半期に2次発掘調査行い慰礼城の築造時期に対するより具体的で幅広い資料を確保する計画。
[参考:2010.4.1聨合ニュース、2010.5.3聨合ニュース]

2011.5.18追記
 忠南天安市は18日、百済初めての都として知られる天安慰礼城および成歡、聖居、稷山、笠場面など周辺遺跡の考古学的学術研究のための「天安聖居山慰礼城3次学術調査」を実施すると発表した。
 三国遺事に「慰礼城は今の稷山」と記録されたのをはじめとして高麗史と新増東国輿地勝覧(1530年)、朝鮮王朝実録など多くの史書が稷山慰礼城を百済の初めての首都として紹介しているが、最近ではソウル松坡区一帯が百済の初めての首都という学説が主流をなしており、稷山慰礼城は非主流学説に押されている。




キーワード: 忠南天安市山城

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鹿児島市・鶴丸城跡 キリシタン瓦「花十字紋瓦」が長崎県以外で初出土

2010年05月03日 | Weblog
 平成11年の鹿児島市教育委員会による発掘調査で、江戸初期のキリシタン建築に使われた「花十字紋瓦」が、長崎県以外では初めて薩摩藩の鶴丸城跡(鹿児島市)から出土していたことが確認された。キリシタン文化の広がりを示す資料として注目されている。
 二の丸の池があった場所に廃棄されたような状態で5枚が出土した当時は、キリシタン関連の遺物とは分からず「十字唐草紋瓦」として報告書に記載されたが、その後の調査研究で長崎県内の遺物との類似から、花十字紋瓦と確認された。いずれも軒丸瓦で直径が14cm余り。クロスの先端が花びら状に開いた模様が浮き彫りされている。全国の瓦を調べた山崎信二・前奈良文化財研究所副所長が「花十字文瓦」と気付いたという。
 鹿児島はフランシスコ・ザビエル(1506-1552)が上陸したキリスト教伝来の地。鶴丸城を築いた初代藩主、島津家久(1547-1587)の義母、永俊尼(洗礼名カタリナ)はキリシタンで、晩年(1634)に種子島へ配流された。
 幕府の禁教令下で城内に教会があったとは思えないが、キリシタン関連の建物があったのだろうと推測している。永俊尼(1575-1649)が鶴丸城に住んだ時期があったのかもしれない。
 花十字紋瓦は、1609年に京泊(薩摩川内市)から移築されたと伝えられるサント・ドミンゴ教会跡(長崎市)や、島原の乱(1637-38)で天草四郎が立てこもった原城跡(長崎県南島原市)などで出土している。薩摩と長崎の瓦は文様がほぼ同じで、同じ型を使っていたのではないかとみられる。
[参考:南日本新聞、産経新聞]



キーワード: 鶴丸城跡キリシタン瓦
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