5月15日、武蔵国府関連遺跡(府中御殿跡を含む)の現場説明会に行ってきました。10時から16時にかけて、説明員の方、ずっと説明し続けでさぞかし疲れたことと思います。ご苦労様でした。
写真は南東から北西方向を撮影。「府中御殿」跡の遺構が出土。
さて、地図を見ただけでは遺跡場所の状況はわかりにくい。江戸名所図会には「武蔵国造兄武日命(えたけひのみこと)殿館の旧跡 妙光院の前の岡を云ふ。上古国造居館の地なり。御入国の後この旧居に省耕(せいかう)の御殿を建てさせられしより、(略)」と記されている。
遺跡は東西に延びる府中崖線の台地の際にあり、古くから「御殿地」と呼ばれていた。妙光院までは西に約200m。途中、金比羅坂(注1)という下り坂があり、また遺跡のすぐ東を通る府中街道の妙光院(写真)(注2)、安養寺(写真)(注3)の横を下る御殿坂(写真)がある。御殿坂を下リ切った安養寺横あたりと遺跡との標高差は約15~20mとか。「岡」といわれる所以である。遺跡の南には多摩の横山(注4)が、西には富士が眺めることができる絶景の場所であった。
遺跡からは、古墳時代前期(4C)、後期(6C)、奈良・平安時代(8C前半・10C後半)、中世(13~16C)の遺構が出土している。
(注1) 妙光院と西の丘にある鎮守堂の金比羅堂との往来のために明治末期に作られた坂。金比羅堂は府中御殿跡の真東100mの距離に位置し、古くから祀られているがいつ頃から存在していたかどうかは不明。
(注2) 真言宗豊山派の寺院で、本覚山妙光院真如寺と号す。もとは京都仁和寺の門末に属し末寺28ヶ寺を持つ当地真言宗の道場であった。貞観元年(859)平城天皇の第三皇子真如法親王の開山で、親王の弟子慈済僧正の開基であるという。
(注3)天台宗の寺院で叡光山佛乗院安養寺と号す。寺縁起では、貞観元年(859)、円仁(慈覚大師)によって開山。その後、 中興開祖尊海僧正が勅命により永仁4年(1296)に再興したと伝えられる。天台宗上州世良田の長楽寺に属すと。明治維新前は武蔵総社大國魂神社の別当寺であった。明治16年(1883)には長楽寺の末寺を離れ比叡山延暦寺の直轄寺となる。
(注4) 多摩川南岸一帯に広く連なる多摩丘陵。
万葉集巻20-4417に、「赤駒を山野に放し捕りかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らむ」(椋椅部荒虫の妻 宇遅部黒女)が詠まれている。
主要な調査成果
1. 8世紀前半の5棟の掘立柱建物跡が5棟確認されている。建物は南北を軸として整然と並んでいて、多摩の横山を重視して建てられている様相がうかがえる。正殿とみられる四面庇建物跡(写真)が出土しているという。柱穴はすべてが揃っていないが察すれば、東西5間×南北4間の建物とみられる。前殿(東西6間×東西2間)、西側の脇殿(写真)、ほかに不明な建物2棟の柱穴とみられるものが出土している。もし、東側の脇殿があるとすれば、現在の府中街道に下に埋まっているはずとしている。
同じ層からは、すり鉢形の氷室状遺構(写真)が見つかっている。
2. 徳川家康の「府中御殿」跡とみられる遺構は、建物跡計4棟が出土している。これらを囲む柵の柱穴(写真)が約1・8m間隔で延べ約100mにわたって並んでいるのが見つかり、御殿の範囲は南北75m以上、東西55m以上に達することが分かった。ただし、御殿の主要部はまだ確認されていない。御殿は真西からやや南に20度振れた方向を正面としていて、これは富士山の見える方向を意識して作られた様相を示している。
御殿は1590年に造営され、家康、秀忠、家光の将軍3代がタカ狩りの際に使ったり、奥州征伐を終えた豊臣秀吉を招いたりしたとされるが、1646年に焼失したとする記録が残っている。同じ層から石組みの井戸(写真)が見つかっており、内部からは火災で焼けた痕跡も見つかった。
過去の関連ニュース・情報
2010.5.11府中本町駅前 古代武蔵国府の重要施設および家康の「府中御殿」の遺構が見つかる
2010.3.19府中本町駅前 武蔵国司館跡か 大型の建物跡4棟出土
写真は南東から北西方向を撮影。「府中御殿」跡の遺構が出土。
さて、地図を見ただけでは遺跡場所の状況はわかりにくい。江戸名所図会には「武蔵国造兄武日命(えたけひのみこと)殿館の旧跡 妙光院の前の岡を云ふ。上古国造居館の地なり。御入国の後この旧居に省耕(せいかう)の御殿を建てさせられしより、(略)」と記されている。
遺跡は東西に延びる府中崖線の台地の際にあり、古くから「御殿地」と呼ばれていた。妙光院までは西に約200m。途中、金比羅坂(注1)という下り坂があり、また遺跡のすぐ東を通る府中街道の妙光院(写真)(注2)、安養寺(写真)(注3)の横を下る御殿坂(写真)がある。御殿坂を下リ切った安養寺横あたりと遺跡との標高差は約15~20mとか。「岡」といわれる所以である。遺跡の南には多摩の横山(注4)が、西には富士が眺めることができる絶景の場所であった。
遺跡からは、古墳時代前期(4C)、後期(6C)、奈良・平安時代(8C前半・10C後半)、中世(13~16C)の遺構が出土している。
(注1) 妙光院と西の丘にある鎮守堂の金比羅堂との往来のために明治末期に作られた坂。金比羅堂は府中御殿跡の真東100mの距離に位置し、古くから祀られているがいつ頃から存在していたかどうかは不明。
(注2) 真言宗豊山派の寺院で、本覚山妙光院真如寺と号す。もとは京都仁和寺の門末に属し末寺28ヶ寺を持つ当地真言宗の道場であった。貞観元年(859)平城天皇の第三皇子真如法親王の開山で、親王の弟子慈済僧正の開基であるという。
(注3)天台宗の寺院で叡光山佛乗院安養寺と号す。寺縁起では、貞観元年(859)、円仁(慈覚大師)によって開山。その後、 中興開祖尊海僧正が勅命により永仁4年(1296)に再興したと伝えられる。天台宗上州世良田の長楽寺に属すと。明治維新前は武蔵総社大國魂神社の別当寺であった。明治16年(1883)には長楽寺の末寺を離れ比叡山延暦寺の直轄寺となる。
(注4) 多摩川南岸一帯に広く連なる多摩丘陵。
万葉集巻20-4417に、「赤駒を山野に放し捕りかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らむ」(椋椅部荒虫の妻 宇遅部黒女)が詠まれている。
主要な調査成果
1. 8世紀前半の5棟の掘立柱建物跡が5棟確認されている。建物は南北を軸として整然と並んでいて、多摩の横山を重視して建てられている様相がうかがえる。正殿とみられる四面庇建物跡(写真)が出土しているという。柱穴はすべてが揃っていないが察すれば、東西5間×南北4間の建物とみられる。前殿(東西6間×東西2間)、西側の脇殿(写真)、ほかに不明な建物2棟の柱穴とみられるものが出土している。もし、東側の脇殿があるとすれば、現在の府中街道に下に埋まっているはずとしている。
同じ層からは、すり鉢形の氷室状遺構(写真)が見つかっている。
2. 徳川家康の「府中御殿」跡とみられる遺構は、建物跡計4棟が出土している。これらを囲む柵の柱穴(写真)が約1・8m間隔で延べ約100mにわたって並んでいるのが見つかり、御殿の範囲は南北75m以上、東西55m以上に達することが分かった。ただし、御殿の主要部はまだ確認されていない。御殿は真西からやや南に20度振れた方向を正面としていて、これは富士山の見える方向を意識して作られた様相を示している。
御殿は1590年に造営され、家康、秀忠、家光の将軍3代がタカ狩りの際に使ったり、奥州征伐を終えた豊臣秀吉を招いたりしたとされるが、1646年に焼失したとする記録が残っている。同じ層から石組みの井戸(写真)が見つかっており、内部からは火災で焼けた痕跡も見つかった。
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