歴歩

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奈良県明日香村・飛鳥京跡 大型建物遺構を確認、飛鳥浄御原宮の関連施設か

2010年05月20日 | Weblog
 県立橿原考古学研究所は20日、飛鳥京跡(明日香村)で7世紀後半の大型建物の遺構を確認したと発表した。
 東西約30~35m、南北15mで、同時代の建物としては最大級。天武天皇と持統天皇の居所だった飛鳥浄御原宮(672~694年)の関連施設で、天皇の私的空間とみられ、後の平城宮のような内裏建物の先駆けかもしれないとする。
 昭和30年代に整備された吉野川分水路の改修工事に伴う調査で、昨年11月から今年2月にかけ、内郭の北西にある「外郭」地区にあたる、宮殿域のうち外郭を南西から北東へ斜めに横断する水路(幅約6m)のうち、南西部の延長200mを発掘調査した。コンクリートをはがした水路の壁などから、直径、深さとも約1・7mの柱穴が12基確認された。東西に4列並んでいた。直径約40cmの柱が立っていたと考えられる。柱の間隔が3mで一定するなど、計画的に配置。南北に庇が付いた建物(東西29・4m、南北15m)か、4面に庇が付いた建物(東西35m、南北15m)のいずれかの形状と推定される。大極殿の可能性もある内郭の「エビノコ大殿」(東西29・7m、南北15・6m)に匹敵する大きさ。
 現場は、内裏などがあった「内郭」の北面より約40m北側の地点。約70m西側には、周囲に果樹園などがあったとされる「飛鳥京苑池遺構」がある。
 現場は埋め戻されており、22日~6月4日まで同研究所付属博物館(奈良県橿原市)で、遺構の写真パネルを展示する。
[参考:時事通信、共同通信、読売新聞、産経新聞、奈良新聞、毎日新聞]

飛鳥京跡で柱穴出土、浄御原宮の関連施設か(読売新聞) - goo ニュース
飛鳥京跡に大型建物遺構=天皇の私的空間か―奈良(時事通信) - goo ニュース
飛鳥京で最大級の建物跡 天皇が住む内裏先駆けか(共同通信) - goo ニュース

過去の関連ニュース・情報
 飛鳥浄御原宮跡


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鈴鹿市・平田遺跡 奈良時代の道路跡と、鎌倉時代の屋敷地を確認

2010年05月20日 | Weblog
 鈴鹿市考古博物館は19日、同市平田本町の平田遺跡で、奈良時代頃の道路跡と鎌倉時代の屋敷地跡を確認したと発表した。
 出土した道路跡は、幹線道路級の幅9mで、長さ約15m。これまでの調査と合わせると、約130mを確認した。同市国分町で確認した伊勢国分寺河曲郡衙(かわのぐんが)から後期伊勢国府を結ぶ方向にあり、8世紀の奈良時代の官道、それも国道クラスとの見方を強めている。
 また、道路を含む屋敷地跡は二重の溝に囲まれ、東西41m、南北75m。建物の性格や内部構造は不明だが、大型の掘っ立て柱建物跡や井戸が確認された。
今回は2月からの調査で、道路や屋敷地跡のほか、古墳時代初め頃の竪穴住居12棟、方形周溝墓2基、幅5mを超える大溝などを確認した。
 このほか縄文・弥生土器、山茶碗、円面硯(けん)などの破片がコンテナバット(30cm3)36箱分出土した。
 22日午前10時から現地説明会が開かれる。
[参考:読売新聞、毎日新聞]
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愛知県吉良町・駮馬炭焼古墳 95年に出土の大刀にハート形銀象嵌を確認

2010年05月20日 | Weblog
 吉良町教委は19日、同町駮馬(まだらめ)の駮馬炭焼古墳から95年に出土した7世紀前半の大刀(長さ71cm、幅2cm)に、ハート形の模様を刻む銀象嵌の装飾が見つかったと発表した。大刀は石室の壁に立てかけられた状態で出土し、エックス線撮影と錆び除去の結果、銀象嵌を確認した。銀象嵌の大刀の出土は県内7例目で、大和朝廷が被葬者に贈ったとみられる。
 ハート形は縦1cm、横2cmで、大刀の鐔(つば)の表と裏に各4カ所、刀に鐔を固定する金具「鎺(はばき)」に4カ所の計12カ所に銀象嵌が施されている。線の文様もあった。また、縁金具や鞘の先端の金具にU字形の模様が施されていた。
 同古墳は7世紀前半築造の円墳で、直径約7mと規模は小さい。
 銀象嵌の大刀は、町歴史民俗資料館(同町白浜)で6月1日から常設展示される。
[参考:毎日新聞]
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向日市・物集女車塚古墳 石室と石棺を公開

2010年05月20日 | Weblog
 市教委は25~29日、古墳時代後期(6世紀中頃)の前方後円墳(全長約45m、高さ8m)で京都府指定文化財の「物集女車塚古墳」(同市物集女町)の石室を公開する。
 同古墳の埋葬者は不明だが6世紀前半、乙訓地方に「弟国宮(おとくにのみや)」をつくったとされる継体天皇の擁立に協力した有力者だと考えられている。
 石室は横穴式で、玄室と羨道から成る。玄室には、凝灰岩製の板材を組み合わせた石棺もある。
 公開に合わせ、向日市寺戸町の市文化資料館は5月22日から6月13日まで、同古墳から出土した埴輪や金属器などを展示する。
 石室の見学希望者は向日市教委文化財調査事務所へ電話で予約が必要。
[参考:京都新聞]



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佐賀市・佐賀城跡 龍造寺氏の居城・村中城の遺構を初発見

2010年05月20日 | Weblog
2010.5.20 現地説明会が5月16日に行われ、歴史ファンら約300人が訪れた。
 一緒に出土した備前焼すり鉢の破片などから、市教委は村中城の一部の可能性があると判断した。
 説明会では、市の担当者が「発掘された遺構は、村中城か、寺社など付属施設の建物跡と考えられる」と解説。
 市は7月まで調査を続け、現状を保存した上で埋め戻し、道路を整備する方針。
[参考:時事通信]

2010.5.15 佐賀市・佐賀城跡 龍造寺氏の居城・村中城の遺構を初発見
 佐賀市教委は14日、同市城内1丁目の「西の御門橋」近くの市道工事現場で、戦国大名・龍造寺(りゅうぞうじ)隆信(1529-84)の居城だった中世の平城(ひらじろ)・村中城の掘立柱建物跡2棟が見つかったと発表した。佐賀城の前身とも言える村中城関連の遺構が確認されたのは初めてという。
 龍造寺家は、鎌倉時代から肥前国の有力者だったが、全盛期を築いた龍造寺隆信が薩摩・島津氏との戦いに敗れ敗死したのを境に没落。その後、領国を鍋島家が掌握し、鍋島直茂(1538-1618)・勝茂(1580-1657)父子が江戸期の1608-11年、村中城を拡張し、巨大な堀を有する佐賀城に整備し、佐賀藩を創設した。村中城に関する資料や遺構は見つかっておらず、詳細は一切不明だった。
 今回の発掘調査は、市道改良工事に伴って2~7月の予定で実施している。
 佐賀城西堀に架かる「西の御門橋」周辺350㎡で、江戸時代の地表を80cm掘り下げたところ、地面に支柱を埋めて建造する「掘立柱建物」2棟の柱穴跡が東西に整然と並ぶ状態で計25個見つかった。穴の大きさはほぼ同じで、東側建物の穴は、直径が平均55-65cm、深さ50cm、西側は直径、深さとも平均65cm。いずれも約2~2・5m間隔で並んでいた。
 柱穴は、調査区外まで広がっている可能性が高いため、全体の規模や種類は特定できていない。ただ、現場の同じ地層から、16世紀後半の中国・景徳鎮や朝鮮半島産の高麗青磁や国産陶器などが見つかり、建物跡が大規模であることから、隆信時代の村中城の関連建物と判断した。有力家臣の屋敷や寺社といった城の付属施設と考えられるという。
 現地説明会が16日午前9時半から開かれる。10時、11時、午後2時、同3時に各約30分間担当者が解説する。小雨決行。
[参考:西日本新聞、読売新聞、佐賀市HP]
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大津市・南滋賀遺跡 大壁造り建物跡出土

2010年05月20日 | Weblog
 市教委が19日、南滋賀遺跡(同市南志賀)で、朝鮮半島の特徴を持つ古墳時代後期(6世紀後期)の大壁造り建物1棟の跡や移動式の竈(かまど)などが見つかったと発表した。
 約2km北の穴太遺跡(あのういせき)でも今年2月、同時期の同建物2棟の跡などが出土(注1)しており、比叡東麓に渡来系の人々が集落を広範囲に営んでいたことを裏付ける発見としている。
 大壁造り建物は、建物の周囲を巡る溝に立てた柱を芯にし、土壁を設ける工法。滋賀・奈良両県以外では珍しく、大半が渡来人の集落で見つかっている。
 同遺跡は弥生―平安時代の複合遺跡。2月から約750㎡を発掘したところ、大壁造り建物の東辺(約9m)の柱材17本(最長80cm)が20~50cmの幅で検出し、移動式の竈などの土器も多く見つかった。
 また、同時期の掘立柱建物跡2棟の一部(1辺4~5m)や、据え付けの竈の跡なども検出。大壁造り建物と併存していたかどうかは不明だが、用途などによって建物を使い分けていた可能性もあるという。
 現地説明会が22日午後1時半に開かれる。
[参考:読売新聞、中日新聞]

過去の関連ニュース
 (注1) 2010.2.18大津市・穴太遺跡 古墳時代後期の大壁造り建物2棟などの跡が出土
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四川省成都市・金沙遺跡 祭祀用の高床式建物跡「古蜀大社」を発見、日本の神社建築のルーツか

2010年05月20日 | Weblog
 金沙博物館が「国際博物館の日」に合わせて発表した最新の発掘状況で、四川省成都市郊外で01年に発見された約3000年前の「金沙遺跡」で、日本の神社建築のルーツと見られる高床式の祭祀建物の跡が見つかっていたことが明らかになった。
 金沙遺跡は同省広漢市で発見された約3000年~5000年前の「三星堆遺跡」と並び、古蜀文明の謎を解く重要なカギとして注目されている。出土品が似ていることから、金沙文明は三星堆文明を引き継いだものであると考えられている。金沙遺跡からは祭祀用の器や黄金のマスクなど6000点以上が出土しているが、その90%以上が発掘された祭祀遺跡に建物の柱穴が9本見つかっていた。柱の穴は角が丸い四角形で、1辺の長さ0.45m、深さ約1.3m。これは商代末期―西周前期(紀元前1200年~同900年前)のもので、長い階段のようなものと草または木の皮で葺いた屋根を持つ高床式建物の跡であることが分かった。高さは10数mとみている。公開されている建物の復元写真をみると、平面は柱間が正面2間・側面2間であり、その上に東屋(亭子)が乗り、東屋に入るための階段が右側にある。
 祭祀用に建てられたもので、祭祀を取り仕切る蜀王だけが登ることを許されていたと推測されている。
 中国の古代建築物の専門家、楊鴻(ヤン・ホンシュン)教授はこの建物を「古蜀大社」と名付け、日本の神社の原型だと述べている。
[参考:Record China、四川新聞、成都日报]

2010.5.25 追記およびコメント
 本ニュースに関しては、中国国内の大手新聞のみならず四川省、成都市などの地方新聞あるいは情報サイトでも大きく取り上げられているのにかかわらず、残念ながら日本ではRecord Chinaの情報をインターネットの情報サイトで取り上げられているのみである。
 筆者は、2004年に開催された「よみがえる四川文明 三星堆と金沙遺跡の秘法展」(東京美術館)を見学した。その時に図録を購入したので、あらためて見直したが、2001年に発掘した史料・情報を載せているのみで、今回の出土場所のことはまったく触れていなかった。それもそのはず、神社のルーツとみられる柱穴は2002年12月に発見されている。
 初め、模底河の南の梅苑祭祀区がその出土場所かと思ったが、その東隣に位置する黄土台がそのようである。
 四川新聞を見ると、金沙遺跡博物館副館長朱章義氏は「金沙遺跡祭祀区は黄土台建造前に在り、主要祭祀用品は石器や象牙であったが、黄土台建造後は突然大量の金器、銅器、玉器等の祭祀用具が現れる。」と言っている。
[参考:四川新聞、金沙遗址博物馆HP]


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