歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

千葉・取掛西貝塚 日本最古の獣骨(イノシシ)祭祀跡

2009年01月14日 | Weblog
 船橋市教委は13日、同市飯山満(はざま)町1の取掛西(とりかけにし)貝塚から、祭祀とみられる儀式に使われたとみられる約1万年前のイノシシの頭蓋骨十数体分が見つかったと発表した。
市教委によると、儀礼目的とみられる獣骨としては国内最古。縄文時代早期の人類の宗教的観念について、これまでの考古学の通説を覆す可能性のある発見だという。
 市教委によると、イノシシの頭蓋骨は昨年6、7月の調査で、竪穴式住居跡の貝層下のくぼ地(直径約8m、深さ約1m)に幼獣から成獣まで整然と並べられた状態で見つかった。肉食後に捨てたなら雑然と放置されているのが自然であることから、使わなくなった住居に、儀礼のため骨を配置したとみられるという。同時に出土したヤマトシジミの年代測定で約1万年前のものと分かった。
 国立歴史民俗博物館によると、儀礼目的とみられる獣骨は、これまでに静岡県伊東市井戸川遺跡など国内4カ所で報告されており、北海道釧路市の東釧路貝塚で放射状に並べられた6000~7000年前のイルカの頭蓋骨が最古とされていた。約1万年前の縄文人については、精神生活の解明につながる史料がなかった。
 国立歴史民俗博物館の西本豊弘教授(動物考古学)は「これまで縄文時代早期の人たちには儀礼的な観念はなかったと考えられていたが、今回の発見で、動物を単なる食糧ではなく、信仰のような観念論的な対象物としてとらえていたことがうかがい知れる。画期的な発見だ」と評価している。
 また、赤褐色で厚みのある「大浦山式土器」も出土し、比較的大きく、良好な状態という。これまでは神奈川県東部を中心に出土しており、この土器が下総台地で見つかったのは初めてとされる。
 市内ではこれまで、縄文時代早期後半に当たる約七千年前の飛ノ台貝塚(同市海神四)が最古とされていた。
[参考:毎日新聞、産経新聞、東京新聞、共同通信、読売新聞]
獣骨を使った最古の儀式?貝塚にイノシシの骨…千葉・船橋(読売新聞) - goo ニュース

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平城宮跡 ごみ捨て穴から過去最多、数万点の木簡が出土

2009年01月14日 | Weblog
 平城宮跡(奈良市)の奈良時代の役所跡「東方官衙地区」から、数万点に上る大量の木簡が見つかり、宮内の木簡出土例として過去最多となることが、奈良文化財研究所の調査で明らかになった。
 これまでは、1966年、約1万3000点の出土が最大であった。すべての木簡を洗浄して読み終えるには数年かかるという。
 平城京内では、89年に二条大路木簡(約7万4000点)などの大量出土例があるが、中心部である宮内でこれまでに見つかった木簡は累計約5万点。今回は1カ所で宮内の総出土例に匹敵する。
 同研究所が昨春、周辺を発掘した際に大量の木簡が捨てられた穴を見つけた。穴は東西約10m、南北約7m、深さ最大約1m。宮内最大級のごみ捨て穴だった。木簡はほとんど削りくずだが、これまでの調査で「近衛」など天皇を守る軍隊組織「衛府(えふ)」関連の記述や、「宝亀2年」(771年)という年号の記述もあった。軍関係施設の造営に伴って捨てられた木簡の可能性がある。
同研究所は、付近の施設の再整備で出た廃材などを焼いた可能性があるとし、宮内のごみ処理方法がうかがえる初めての資料という。
 同研究所は「重要な役所が集まっていた場所で、貴重な史料が見つかる可能性がある」と期待を寄せている。
 穴付近からはそれぞれ時期の異なる2つの建物の柱穴も見つかり、同研究所は、大規模な建物が壊された後に穴が掘られて埋められ、別の建物が建てられたと推測。穴には炭などが残り、木くずや廃材などを焼いた可能性があるという。
ほかに、手習いらしい文字が書かれるなどした桧扇も見つかった。
 771年は、称徳天皇が亡くなり光仁天皇が即位した翌年であり、穴は建物の建て替えなどに伴い廃材などを捨てて焼いたと考えられる。
[参考:毎日新聞、産経新聞]
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高崎市・高崎城遺跡 本丸の堀の一部を発掘

2009年01月13日 | Weblog
高崎城遺跡 現地説明会1月12日開催
 1月12日に現地説明会が開かれ、400人が参加した。3人の説明員が分かれて各遺跡を案内し説明が行われた。
 本丸の南北では、中世に作られた溝状遺構が見つかり、素焼きの土器などが出土。高崎城の築城以前にあった和田城の遺構の可能性もあるというのに興味を引かれる。
[参考:読売新聞]

和田城
 井伊直政がここに入城するまでは、当地一帯は「和田」といい、城の名前は「和田城」であった。「和田城」があったことは天文から天正年間(1532~1591)に書かれた古絵図からもわかるし、古文書からも知られている。
 和田城は、15世紀前半に和田氏により築城されたとみられる。(1428和田義信築造説、1418義信の子義忠築造説がある。)
平成15~16年の和田橋付近の調査で、銃弾や堀跡が見つかった。武田信玄が弾搬入を命じた朱印状が残っており、これを裏付ける発見とする。


12月31日掲載分
 高崎城遺跡(同市高松町)から、本丸堀の一部が同市教育委員会の発掘調査で見つかった。同遺跡から本丸の遺構が確認されたのは初めてという。
 高崎城は1598年、徳川側近の一人で初代高崎藩主の井伊直政が築城した。歴代藩主の居城として使われたが、明治維新で廃城となり、その後、陸軍歩兵第15連隊が置かれ連隊の施設建設に伴い、堀は埋め立てられたという。
 遺跡は市役所がある市中心部の一角にある。市保健医療センターと図書館が建設されるのに伴い、市教委が8月から発掘調査をしていた。
 確認された本丸堀は城跡の北側にあり、江戸後期の1810年に描かれた城の絵図と場所が一致した。幅24m、深さが8mあり、規模の大きい堀だった。堀からは、江戸末期まで藩主を務めた松平氏の家紋が描かれた鬼瓦も見つかった。
 また、遺跡の北東部からは、幅2・7m、深さ50cmの溝も見つかったが、円墳(周溝墓)の一部の可能性があるという。
 現地説明会は1月12日午前10時~午後3時。
[参考:10/28朝日新聞、10/8東京新聞]
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大阪市・長原遺跡 大和王権直営の鉄器生産拠点跡か

2009年01月12日 | Weblog
 1月12日に読売新聞が、「長原遺跡(大阪市平野区)で古墳時代中期(5世紀前半)に鉄器を生産した鍛冶工房跡が出土していたことが、市文化財協会の調査でわかった」と報じた。
 時期は、百舌鳥・古市古墳群の大山古墳(伝仁徳天皇陵、堺市5世紀前期~中期の築造)など巨大古墳が築かれた「倭の五王」の時代としている。
 鍜治工房は、4世紀末から5世紀初めに造営されて間もない方墳を壊して工房を設けていることから、当時の政権が関与しているのは確実で、大和王権直営の鉄器生産拠点とみているとする。工房は2棟建てられ、1棟ごとに一辺約8mの「コ」の字形の溝で区画し、2棟の間に井戸跡があり、周囲からは炉にくべたとみられる大量の炭や、溝からは3cm大の鉄滓が見つかったという。
 2005年5月11日の長原遺跡発掘調査現地説明会資料を見ると、前述と同様の状況が記されている。
 読売新聞に掲載された写真と、現地説明会資料の調査地遺構配置図がぴったりと重なって、形状と位置関係が確認できる。
 壊された方墳(一辺が約12m)は213号墳と命名され、墳丘上と周溝内からは土師器と複数の家形埴輪が出土し、墳丘の中心には割竹形木棺(長さ3.6m、幅0.7m)を粘土でくるんだ「粘土槨」が見つかっている。粘土槨は本遺跡で初めての発見という。
 「コ」の字形の区画周辺からは、最古式の須恵器や軟質の韓式系土器が多数出土しており、伽耶や百済の地で出土する土器と類似するとして、朝鮮半島から移住してきた人々が生活していた推測されている。さらに、遺物として鞴(ふいご)の羽口(はぐち、土製)が出土して、他の状況と合わせてみると、「調査地内もしくは近くで鉄器生産を行っていた可能性がでてきた」と記していた。これが、今回の調査結果に結びついたのであろう。
[参考:2009.1.12読売新聞、長原遺跡発掘調査現地説明会資料(2003.5.11、大阪市教育委員会・同市文化財協会)]
大和王権の鉄器生産拠点?鍛冶工房跡を出土…大阪・長原遺跡(読売新聞) - goo ニュース

備考:
5世紀前半の天皇の在位および都(宮)を列挙すると、
 履中天皇(336?-405) 在位400-405 宮:磐余稚桜宮(桜井市)
 反正天皇(336?-410) 在位406-416 宮:丹比柴籬宮(松原市)
 允恭天皇(376?-413) 在位412-453 宮:遠飛鳥宮(明日香村)419-421茅渟宮行幸(泉佐野市)
 安康天皇(401?-456) 在位454-456 宮:石上穴穂宮(天理市)
 雄略天皇(418 -479) 在位456-479 宮:泊瀬朝倉宮(桜井市) 斯鬼宮(八尾市)説もある
となる。
 この中で、反正天皇(多遅比瑞歯別尊)の都(宮)といわれる丹比柴籬宮は柴籬神社(松原市上田7丁目)が伝承地となっており、長原遺跡とは僅か4kmの距離である。
 また、反正天皇は多くの説で「倭の五王」の珍とみなされるが、もしそうであれば、日本書紀とは年代にずれが生じる。また、古事記では在位期間が壬申年(432)から丁丑年(437)とする。

「倭の五王」5世紀前半部の年表
413安帝の時、倭王賛あり。 倭国、東晋に貢物を献ず
421讃、宋に朝献し、武帝から、除綬の詔うける。
425讃、司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる
438倭王讃没し、弟珍立つ。
 この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める。
 4月、宋文帝、珍を安東将軍倭国王とする。珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される。
443済、宋に朝献して、安東将軍倭国王とされる。
451済、宋朝から「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される安東将軍はもとのまま。『宋書』倭国伝。
 7月、安東太将軍に進号する.

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美馬市・郡里廃寺跡で鴟尾の破片出土 1/10現地説明会開催

2009年01月12日 | Weblog
 国指定史跡「郡里(こおざと)廃寺跡」(同市美馬町銀杏木)で10日、本年度調査の成果を報告する現地説明会が開かれ、考古学ファンら約30人が集まった。
 市教委は来年度、確定していない寺域の南端や講堂跡を調査する予定。
[参考:1/11徳島新聞]

「郡里廃寺跡」で鴟尾の破片出土 美馬の国指定史跡
 「郡里廃寺跡」で、鴟尾の一部が発掘された。同史跡の鴟尾出土は3例目で、金堂が存在したことを裏付ける貴重な史料とみる。
 発掘された鴟尾は瓦製で、縦19cm、横9cm、厚さ3cm。表面に何かの図形を描いたような文様があり、側面には棟に固定するための心棒を差し込む穴が開いている。年代は八世紀ごろとみられる。
 10日午後1時半から現地で市教委の文化財担当者が説明会を行う。
[参考:1/9徳島新聞]
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百済木簡皮を多数確認 倭国との交流を見せる判読結果も公開

2009年01月12日 | Weblog
「那●内連公」(●は判読不能字)と判読 連はムラジ?
 百済時代木簡皮と破片129点が確認された。この遺物は、紙の代用として書いた木簡を再利用するために、「鉋屑(かんなくず)」のように刃物で片面を削り出す過程でできたとみられる。また扶余双北里遺跡で出土した百済時代木簡に、百済と倭の間の交流実状を知らせる文字資料という新しい判読結果も公開された。
 国立扶余博物館は扶余陵山里寺の跡地出土品を再整理する過程で、手刀で削り出した木簡皮129点を確認して、その結果を百済時代木簡全般に関する調査資料集として発刊した「百済時代木簡」を通して公開した。
 木簡皮と破片に、稲など穀物類が行き来した文書の一部と見える「石」(1石を意味)や、文書が終了したことを意味する「了」などの字が確認された。
また、1999年扶余双北里遺跡で百済時代の物品荷札用百済時代木簡はこれまでに文字があるという点は確認されていたが、正確な判読はされていなかったが、今回赤外線を通して精密な判読が試みられた。
 その結果、扶余博物館は「(那●内連公)」(●は判読不能字)と判読結果を示して、「連(ムラジ)」という字は日本古代の大和政権(야마토 정권)で官職を基盤に与えられた姓(カバネ)に該当すると見ることができるという見解を出した。このような説明が妥当ならば、この木簡が製作された当時、百済には「連(ムラジ)」という姓を持った倭人が活動していたことに繋がる。中国の正史の中の一つ周書の百済伝には、百済には中国と新羅と倭人が居住していたという記録が見え、百済と倭国の間に人的・物的交流が活発だったことを見せる初めての実物資料となる。
[参考:2009.1.8聯合ニュース、朝鮮日報]
[参考:前出]
 前出の、国立扶余博物館・李鎔賢氏が発表された資料「韓国木簡の現在・百済木簡 ─新出資料を中心にと題して」の中では、双北里で出土した木簡の中に「首比」と書いたものがあり、「首」「比」は日本書紀百済関係資料に見える用字である、と記している。今回の判読結果とともに、百済と倭の交流の新たな発見の一ページになるかもしれない。
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かつらぎ町・中飯降遺跡 新たに縄文後期の西日本最大級の2つの竪穴式建物跡

2009年01月10日 | Weblog
 和歌山県文化財センターは9日、昨年8月に日本最大の縄文時代後期前半(約4000年前)の大型竪穴式建物跡が確認された中飯降遺跡(かつらぎ町)の1号竪穴のすぐ西隣に位置する場所で、同時代、同規模の建物跡が新たに2つ見つかったと発表した。
 場所を移して建物を建て替えた可能性があるという。
 今回見つかった2号竪穴は長軸16m、短軸推定約14mの楕円形で、面積160㎡。3号竪穴は大部分が調査区外で範囲未確定だが、ほぼ同規模とみられる。
 1号竪穴は円形で、面積約150㎡以上と推定される。
 現地説明会は11日午後1~3時に行われる。
[参考:毎日新聞、共同通信]
さらに2つの大型建物跡 和歌山、縄文後期(共同通信) - goo ニュース

2008.7.24 掲載分
和歌山県かつらぎ町・中飯降遺跡 4000年前の西日本最大の竪穴建物跡
 23日和歌山県文化財センターは、かつらぎ町・中飯降(なかいぶり)遺跡で、縄文時代後期(約4千年前)の建物跡が2基見つかったことを発表した。
 建物の一つは直径約14mの円形、出土部分の面積は約90㎡だが建物の面積は推定約150㎡で、内側に直径約2m(最下層は直径0.5m)、深さ約1.1mの柱穴3カ所がほぼ等間隔に並んでいた。柱穴のうち2カ所には、柱を安定させるため敷き詰めていたとみられる石(長さ20~30cm)も多数見つかった。石の状況から、直径約40cm、長さ約4mの柱を用いていたと推定される。建物跡地の中央には赤く焼けた炉のような跡も残っていた。調査区外にあと1、2本程度の柱穴があると想定される。
 住居跡から祭祀にかかわる出土品が見つかっていないことから、集落の集会所のような場所として使われていたと考えられる。
他の1つは直径約4~5mで、面積約15~20㎡の大きさだった。
同時に出土した縁帯(えんたい)文様の土器片や鏃などの石器などから縄文時代後期の遺構と見られる。
 大型の竪穴住居跡は、青森市の三内丸山遺跡(縄文時代中期)で長さ約32m、幅約10m(長方形)、床面積約270㎡が国内最大級で、豪雪地帯など寒冷地集落で共同作業を行うために作られたとする説が有力であり、西日本には大型のものは存在しないものと考えられていた。
 県文化財センターは、26日午後1時半から現地説明会を行う。
 中飯降遺跡は和歌山市の東約30km、紀の川右岸(北側)にある。同遺跡の西隣(紀ノ川下流側)には西飯降遺跡があり縄文時代の石棒、西飯降II遺跡では縄文時代~古代にかけて縄文土器・弥生土器・土師器・須恵器・石器が出土している。
さらに西の丁ノ町・妙寺遺跡では、縄文時代後期の直径約4mの竪穴住居跡3カ所が見つかっている。
[参考:共同通信、朝日新聞、産経新聞、紀伊民報告、財)和歌山県文化財センター]

西日本最大の竪穴建物跡 和歌山、ムラの集会所か(共同通信) - goo ニュース
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水戸城 堀の法面を盛り土で補強

2009年01月10日 | Weblog
 茨城県教育財団は9日、水戸城跡発掘調査の結果、堀は深さ約4m、法面は約30度の勾配で、黒粘土や砂などを交互に重ねた厚さ約2~4mの盛り土で補強されていたことがわかったと発表した。
石垣がないとされてきたが、あらためて考古学的に裏付けられた。
堀底には石や砂を混ぜた土が敷かれており、その上には厚さ50cm以上の泥が堆積しており、空堀として作られたが、後に水堀になったとみられる。
 17日午前10時から一般公開される。問合せは同財団水戸三の丸事務所(電)029・233・0354。
[参考:産経新聞、読売新聞]
前出
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甲府市・甲府城下町遺跡 金の粒が付着した土器片が58点見つかる

2009年01月10日 | Weblog
 甲府市は9日、戦国時代の武田氏や方周辺の城下町遺跡などで発掘した土器58点に金が付着していたことを発表した。
 内訳は、市教委などが昨年9-12月に発掘調査した時に見つかった32点、既に発掘済みの土器の再分析により見つかった24点、近くで発掘された2点の合計58点。
 金は最大1mm程度の球状であり、精錬や加工に使われた土器の上で加熱された際に溶けて付着したとみられ、城下町で金が加工されていたことを示しており、武具の装飾品などに加工された可能性が高い。金貨「甲州金」に使われた可能性もあるという。
[参考:読売新聞、共同新聞]
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明日香村・高松塚古墳 壁画発見時の出土遺物を再発見

2009年01月09日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所は9日、高松塚古墳(7世紀末−8世紀初め)で壁画を発見した1972年当時に出土した副葬品が同附属博物館に琴保管されていたことがわかり発表した。
 再発見されたのは、ガラス玉137点や大刀の銀製飾り金具、琥珀玉の破片、金箔、漆塗り木棺の破片、漆喰片など計数千点でコンテナ13箱分。遺物の一部は同博物館で17日から公開する。
[参考:共同通信]
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島根県雲南市・万場Ⅰ遺跡 縄文時代の彩文土器が出土

2009年01月09日 | Weblog
 雲南市教委は8日、万場(まんば)I遺跡(同市木次町)で縄文時代の漆文様入りの「彩文土器」が出土したと発表した。
 縄文晩期後半の北部九州起源の「夜臼(ゆうす)系土器」に、東北日本由来の漆塗りの「C字文様」が描かれており、両地域の文化が融合した土器とみられる。
[参考:中国新聞、山陰中央新報、島根県ドキ土器まいぶん冬号2009.1.1]
雲南で縄文時代の土器出土(中国新聞) - goo ニュース
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津市・多気北畠氏遺跡 刀の鞘の栗形が県内初出土 10日現地説明会

2009年01月08日 | Weblog
 津市教委は6日、同市美杉町上多気の多気北畠氏遺跡第31次発掘調査で、室町時代後期(16世紀中頃)のものとみられる刀装具の栗形(くりかた)などが出土したと発表した。県埋蔵文化財センターによると、栗形の出土は県内で初めてで、発掘で出土するのは全国的にも珍しいという。
 今回発掘調査が行われているのは、国史跡「多気北畠氏城館跡」東側の城下町のうち、石列で計画的に区画されたとみられる部分。
 出土した栗形は金属製。ほかに、刀装具の鋳型や鋳造に使われた小さな容器「取瓶(とりべ)」や、鍛冶で送風に使う「鞴(ふいご)」の破片、土師器の鍋や皿などの日用品も見つかった。16世紀中ごろの建物跡も確認され、当時刀の装具が作られていたことが分かるという。
 市教委生涯学習課は「城下町に、刀装具を生産する工房のようなものを構えていたことを裏付ける貴重な資料」としている。
 北畠氏は南北朝時代に伊勢国入りした。伊勢国司として同市美杉町に本拠地を置き、室町から戦国時代にかけて伊勢国を支配し、城下町を築いた。
発掘調査は1996年から始められ、中世城館では国内最古となる石垣や建物跡を確認している。
 川を挟んでその東側に位置する多気北畠氏遺跡は、2006年度から調査が進められている。
 現地説明会は10日午後1時半から行われる。問合せは、津市埋蔵文化財センター多気北畠氏遺跡調査分室。
[参考:読売新聞、毎日新聞]

栗形(くりかた)
 刀の鞘口(さやぐち)近くに付け、「下げ緒」を通して刀を帯からの脱落を防止するためもの。栗の実に似ているため栗形と呼ばれるようになった。栗は当て字で「刳り形」が語源とも。角や金属製が多い。

北畠氏
 村上源氏久我系の中院通方1189-1239)の子・北畠雅家を始祖とする。雅家の3代後に親房が生れ、その跡は長男・顕家(1318-1338)、三男・顕能(?-?)らが生れる。伊勢(多気)北畠氏は顕能を祖とする。
[関連:福島県霊山寺]
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三次市・宮の本24号古墳 埴輪片を使用した石棺

2009年01月08日 | Weblog
 宮の本24号古墳(同市江田町、4世紀末―5世紀初め)で、埴輪片を使った箱式石棺があることが、6日までに分かった。埴輪片を石棺に混在させるのは全国でも確認例がほとんどないという。古墳葬送のあり方をめぐり注目される。
 墳丘中腹を巡る平たいテラスに100本近い円筒埴輪が並び、埴輪が2列になる場所に箱式石棺がある。埴輪片の蓋石のすき間にあったほか、頭部の蓋石と下の石の間にも敷いていた。内部は長さ60cm、幅20―30cmと狭い。
 10日午後1時から県立生涯学習センター(広島市東区光町2丁目)で開かれる「平成20年度ひろしまの遺跡を語る」で調査の詳細が紹介される。
[参考:中国新聞]
埴輪片を石棺に混在 三次(中国新聞) - goo ニュース
参考:前出

宮の本古墳群
 三次市街の北東9kmの江の川支流馬洗川北岸、標高287mの山塊から西に派生する丘陵上に30基余りの古墳がある。近くには、寺町廃寺跡、上山手廃寺跡が存在するなど、古代備後国北部の中枢の地であったと思われる。
 宮の本24号古墳は直径30m、高さ3.5mの円墳。墳丘には3基の埋葬施設(堅穴式石室1、箱式石棺2)があり、埋葬施設の間から円筒埴輪とは異なる埴輪片が比較的多く出土している。墳丘斜面に葺石が施され,その中間には100本程度の円筒埴輪が樹立されている。この古墳を取り巻くように6基の小古墳(直径8~16mの円墳)がつくられ,その多くは箱式石棺を埋葬施設としているが,第20号古墳は南に開口する横穴式石室を構築している。7基の古墳は4世紀末から7世紀前半にかけて築造されたと考えられる。
[参考:広島県教育事業団事務局埋蔵文化財調査室・宮の本第20~26号古墳・遺跡見学会資料(2007.10.20)ほかより]


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広陵町・巣山古墳 周濠外堤から長さ100mにわたる葺石が出土 17日に現地説明会

2009年01月08日 | Weblog
 奈良県広陵町の国の特別史跡・巣山古墳(4世紀後半、全長約220m、前方後円墳)で、周濠の外堤から築造当初のままの葺石が長さ約100m、幅2mにわたって出土したと、同町教委が7日発表した。
 同古墳は、古代の大豪族・葛城氏など有力者の墓とみられ、大王級の巨大古墳の築造当時の様子が分かる貴重な資料とする。
 前方部の斜面では葺石が見つかっており、墳丘と外堤の両方に葺石を敷き詰め、被葬者の威厳を高める視覚効果もあったとみられる。香芝市の二上山で産出する板状(長さ約30~40cm)と、拳大の安山岩が使われた。
 外堤周辺の堀底から、樹木の根や鋤なども見つかり、築造当初の周濠は沼地状だったらしい。
 一方、8~9世紀の地層からは外堤の石を剥がして作った取水溝や突堤が見つかり、農業用ため池として利用されたらしい。
 現地説明会が、17日午前10時~午後3時に行われる。発掘現場や墳丘の見学ができる。
[参考:読売新聞、産経新聞、奈良新聞]
長さ100メートルの葺石、奈良・巣山古墳で出土(読売新聞) - goo ニュース

 2006.1.19市教委は、巣山古墳の前方部斜面で、古墳を装飾する葺石が長さ約100m、幅約3mにわたって出土したことを発表した。
 前方部裾の最下部に人頭大の石を並べ、斜面に拳大の石を敷き詰めていた。いずれも二上山産とみられる安山岩。
[参考:2006.1.20読売新聞]
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明日香村・「亀石」の謎を解く石敷き遺構か

2009年01月07日 | Weblog
 6日県立橿原考古学研究所の調査で、明日香村の「亀石」(長さ4・3m、幅2・7m、高さ2mの花崗岩製)の西約20mから、飛鳥時代(7世紀後半)の長さ約14m、最大幅2・7mの円弧状に北西に向かって延びる石敷き遺構が出土していたことが分かった。
 石敷きのすぐ上には砂が堆積しており、亀石付近から北に向かって水を排出していたとみられる。
 亀石には「西を向けば村が沼地になる」との伝承(注1)もあり、遺構は亀石にかかわる水の祭祀などで使われた排水施設の可能性があるという。亀石にまつわる遺構が見つかったのは初めてで、謎の石造物の解明につながることを期待する。
発掘現場はすでに埋め戻されている。
[参考:産経新聞]
注1)
 むかし、大和が湖であったころ、湖の対岸の当麻と、ここ川原の間にけんかが起こった。長いけんかのすえ、湖の水を当麻にとられてしまった。湖に住んでいたたくさんの亀は死んでしまった。何年か後に亀をあわれに思った村人たちは、亀の形に石を刻んで供養したそうである。
 今、亀は南西を向いているが、もし西を向き当麻をにらみつけたとき、大和盆地は沼地になるという。(明日香村・説明板より)

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