平城宮跡(奈良市)の奈良時代の役所跡「東方官衙地区」から、数万点に上る大量の木簡が見つかり、宮内の木簡出土例として過去最多となることが、奈良文化財研究所の調査で明らかになった。
これまでは、1966年、約1万3000点の出土が最大であった。すべての木簡を洗浄して読み終えるには数年かかるという。
平城京内では、89年に二条大路木簡(約7万4000点)などの大量出土例があるが、中心部である宮内でこれまでに見つかった木簡は累計約5万点。今回は1カ所で宮内の総出土例に匹敵する。
同研究所が昨春、周辺を発掘した際に大量の木簡が捨てられた穴を見つけた。穴は東西約10m、南北約7m、深さ最大約1m。宮内最大級のごみ捨て穴だった。木簡はほとんど削りくずだが、これまでの調査で「近衛」など天皇を守る軍隊組織「衛府(えふ)」関連の記述や、「宝亀2年」(771年)という年号の記述もあった。軍関係施設の造営に伴って捨てられた木簡の可能性がある。
同研究所は、付近の施設の再整備で出た廃材などを焼いた可能性があるとし、宮内のごみ処理方法がうかがえる初めての資料という。
同研究所は「重要な役所が集まっていた場所で、貴重な史料が見つかる可能性がある」と期待を寄せている。
穴付近からはそれぞれ時期の異なる2つの建物の柱穴も見つかり、同研究所は、大規模な建物が壊された後に穴が掘られて埋められ、別の建物が建てられたと推測。穴には炭などが残り、木くずや廃材などを焼いた可能性があるという。
ほかに、手習いらしい文字が書かれるなどした桧扇も見つかった。
771年は、称徳天皇が亡くなり光仁天皇が即位した翌年であり、穴は建物の建て替えなどに伴い廃材などを捨てて焼いたと考えられる。
[参考:毎日新聞、産経新聞]
これまでは、1966年、約1万3000点の出土が最大であった。すべての木簡を洗浄して読み終えるには数年かかるという。
平城京内では、89年に二条大路木簡(約7万4000点)などの大量出土例があるが、中心部である宮内でこれまでに見つかった木簡は累計約5万点。今回は1カ所で宮内の総出土例に匹敵する。
同研究所が昨春、周辺を発掘した際に大量の木簡が捨てられた穴を見つけた。穴は東西約10m、南北約7m、深さ最大約1m。宮内最大級のごみ捨て穴だった。木簡はほとんど削りくずだが、これまでの調査で「近衛」など天皇を守る軍隊組織「衛府(えふ)」関連の記述や、「宝亀2年」(771年)という年号の記述もあった。軍関係施設の造営に伴って捨てられた木簡の可能性がある。
同研究所は、付近の施設の再整備で出た廃材などを焼いた可能性があるとし、宮内のごみ処理方法がうかがえる初めての資料という。
同研究所は「重要な役所が集まっていた場所で、貴重な史料が見つかる可能性がある」と期待を寄せている。
穴付近からはそれぞれ時期の異なる2つの建物の柱穴も見つかり、同研究所は、大規模な建物が壊された後に穴が掘られて埋められ、別の建物が建てられたと推測。穴には炭などが残り、木くずや廃材などを焼いた可能性があるという。
ほかに、手習いらしい文字が書かれるなどした桧扇も見つかった。
771年は、称徳天皇が亡くなり光仁天皇が即位した翌年であり、穴は建物の建て替えなどに伴い廃材などを捨てて焼いたと考えられる。
[参考:毎日新聞、産経新聞]
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