歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

千石遺跡/豊田市 灌漑用堤防と木樋を発見

2009年01月22日 | Weblog
 豊田市教委は21日、同市上野町と千石町にまたがる千石遺跡から、平安時代前期(9世紀)の灌漑技術としては高度な堤防と木樋の遺構を発掘したと発表した。
 堤防と木樋は遺跡の北東で、台地から沖積地へ地形が変化する場所にあった。堤防内に溜まった水を木樋を使って放水することで、水量を調整していたと見られる。堤防と木樋が見つかったのは県内では西尾市の室遺跡に次いで2例目。国内では奈良県や大阪府など西日本で10例程度。平安時代の荘園開発に伴い、農業や土木技術が広がる過程をうかがえる貴重な資料という。
 堤防は長さ約30m、幅約6m、高さ約2mで、平らな場所を選んでかまぼこ状に盛り土してあった。木樋はヒノキかサワラ製で全長約4・4m、直径約25cm。木を縦に割って内部をくりぬき、割った材で蓋をして管にしてある。フタに孔が開けられ、これを取水口として取水量を調整していたと推定される。
 木片の放射性炭素年代測定で、9世紀という結果が得られた。木樋が使われた時代には、台地に住民が住み、ため池から南西方面に水路や水田などが広がっていた可能性がある。
 木樋などが発見された場所から北側では、昨年夏の調査で、「福」「大」「千」などの文字が墨で書かれ、祭祀に使われたとみられる須恵器など約60点も見つかった。同時代のものとみられ、豊作を祈る祭事などに使われたとみられる。
 現地説明会は24日午後1時半から(小雨決行)。問合せは市郷土資料館へ。
 【千石遺跡】 豊田市千石町や上野町などにまたがる約6万㎡の遺跡。縄文-江戸時代にかけて生活遺跡。
[参考:読売新聞、中日新聞、朝日新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柳本古墳/天理市 国内最古級の古墳木棺

2009年01月22日 | Weblog
 産経新聞の報道で、前方後円墳「柳本大塚古墳」(3世紀末築造、奈良県天理市)の被葬者が埋葬され、明治期に取り出された後、所在不明となっていた木棺が、同県桜井市三輪の宗教法人「大神(おおみわ)教」(西野新也管長)の本院拝殿に掲げられた額として残存していたことが県立橿原考古学研究所の現地調査で21日分かったことが報じられた。
 大神教本院拝殿の額は長さ2・8m、幅82cmで、白い文字で「大神教」と記されている。大木をくり抜いて内側を湾曲させた形に加工されていた。明治時代末期から大正時代の間に現在の場所に掲げられたらしい。
 現地で行われた蛍光エックス線分析などを使った学術調査で、学問的に証明された。
 柳本古墳は、全長約94m、後円径54mの前方後円墳。天理市のホームページでは、築造時期は4世紀前半とする。
[参考:産経新聞、天理市HP]
国内最古級の古墳木棺 残存(産経新聞) - goo ニュース
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桑下城跡/瀬戸市 15世紀後半に造られた曲輪を発見 現地説明会1/24に開催

2009年01月22日 | Weblog
 桑下城跡の今年度の調査で、多くの曲輪や、曲輪からは番小屋や庭園を確認した。
 その発掘調査で見つかった遺構の説明と見学、出土遺物の展示が1月24日に現地説明会として開催される。
 今回調査した部分は、丘陵を切り込んで造成された曲輪、防御を基本とする曲輪で在地領主の元々の城であったらしいみられ、その後大規模に改修して巨大な堀と土塁で防御を固めた本丸部分を造成したものと考えられるとする。
 本丸周辺は永禄元年(1558)以前に造成されたらしい。
現地説明会
 日時:1月24日(土)午前10時40分より正午まで、場所:桑下城跡発掘調査現場(瀬戸市上品野町地内)
[参考:1/16中日新聞、愛知県埋蔵文化財センター、愛知県記者発表資料]

桑下城
 瀬戸市の北東部、水野川と蟹川に挟まれた標高210mの丘陵に立地する平山城。規模は東西約220m、南北100m。
 南東約700mに品野城があり、品野城が詰めの城(戦闘時の城)であるのに対して、桑下城は館城(平時の城)といわれる。
 応仁の乱(1466-67)の際、東軍に属して敗れた美濃国異安八郡今須城主長江利景(永井民部少輔)が尾張国春日井郡科(品)野の地に逃れて落合城(瀬戸市落合)に入り、後に築いた城とされている。
 文明14年(1482) 長江利景は今村城主松原広長と戦い勝利を収め、瀬戸市一帯を手中にする。
 享禄2年(1529) 松平清康(1511-1535、徳川家康の祖父)によって品野郷が支配される。叔父の松平信定(?-1538)に与える。松平信定は品野城主となり、桑下城主永井民部は松平信定に服属する。
 天文4年(1535) 松平清康死に伴い内紛が起きる。松平清定(信定の子)、品野から引き上げる。
 弘治3年(1557) 今川氏が品野城を管轄する。
 永禄元年(1558) 松平家次(?-1563、信定の孫)が派遣され、織田氏との間で戦いが行われる。
 永禄3年(1560) 桶狭間の戦いの前哨戦として、落合城や品野城とともに織田信長81534-1582)の攻撃を受けて焼失し、廃城となる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊勢国分寺/鈴鹿市 七重の塔の鬼瓦?が出土 本年度発掘調査現場の現地説明会1/24に開催

2009年01月22日 | Weblog
 鈴鹿市考古博物館が進める国史跡「伊勢国分寺跡」(同市国分町字堂跡)の本年度の発掘調査現場(博物館隣接地)を、24日午前10時から一般公開し、担当者が説明する。
 昨年7月から、塔院の可能性があると想定される「小院」と呼ばれる塀で囲まれた場所で鬼瓦が見つかった。「これまでの調査で見つかっていなかった七重の塔の可能性もある」という。
 ほかに、講堂の基壇を調査し、台形塼からなる基壇化粧(外装)の基底や、階段の基礎部分が確認されている。
[参考:中日新聞、鈴鹿市考古博物館HP]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

薬師の森遺跡/大野城市・ 算盤玉形の陶製紡錘車出土

2009年01月22日 | Weblog
 大野城市教育委員会は21日、「薬師の森遺跡」(同市乙金)で見つかった古墳時代後期(6世紀中ごろ-7世紀初頭)の集落から、朝鮮半島の特徴をもつ国産の「算盤(そろばん)玉形陶製紡錘車」が出土したと発表した。
 紡錘車は、そろばん玉の形で、直径約3・5cm、厚さ約2cm。同形のものが朝鮮半島で出土しているが紡錘車に縦筋が多くみられることなどから、国内で作られた可能性が高いという。
[参考:産経新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする