歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

大阪市・長原遺跡 大和王権直営の鉄器生産拠点跡か

2009年01月12日 | Weblog
 1月12日に読売新聞が、「長原遺跡(大阪市平野区)で古墳時代中期(5世紀前半)に鉄器を生産した鍛冶工房跡が出土していたことが、市文化財協会の調査でわかった」と報じた。
 時期は、百舌鳥・古市古墳群の大山古墳(伝仁徳天皇陵、堺市5世紀前期~中期の築造)など巨大古墳が築かれた「倭の五王」の時代としている。
 鍜治工房は、4世紀末から5世紀初めに造営されて間もない方墳を壊して工房を設けていることから、当時の政権が関与しているのは確実で、大和王権直営の鉄器生産拠点とみているとする。工房は2棟建てられ、1棟ごとに一辺約8mの「コ」の字形の溝で区画し、2棟の間に井戸跡があり、周囲からは炉にくべたとみられる大量の炭や、溝からは3cm大の鉄滓が見つかったという。
 2005年5月11日の長原遺跡発掘調査現地説明会資料を見ると、前述と同様の状況が記されている。
 読売新聞に掲載された写真と、現地説明会資料の調査地遺構配置図がぴったりと重なって、形状と位置関係が確認できる。
 壊された方墳(一辺が約12m)は213号墳と命名され、墳丘上と周溝内からは土師器と複数の家形埴輪が出土し、墳丘の中心には割竹形木棺(長さ3.6m、幅0.7m)を粘土でくるんだ「粘土槨」が見つかっている。粘土槨は本遺跡で初めての発見という。
 「コ」の字形の区画周辺からは、最古式の須恵器や軟質の韓式系土器が多数出土しており、伽耶や百済の地で出土する土器と類似するとして、朝鮮半島から移住してきた人々が生活していた推測されている。さらに、遺物として鞴(ふいご)の羽口(はぐち、土製)が出土して、他の状況と合わせてみると、「調査地内もしくは近くで鉄器生産を行っていた可能性がでてきた」と記していた。これが、今回の調査結果に結びついたのであろう。
[参考:2009.1.12読売新聞、長原遺跡発掘調査現地説明会資料(2003.5.11、大阪市教育委員会・同市文化財協会)]
大和王権の鉄器生産拠点?鍛冶工房跡を出土…大阪・長原遺跡(読売新聞) - goo ニュース

備考:
5世紀前半の天皇の在位および都(宮)を列挙すると、
 履中天皇(336?-405) 在位400-405 宮:磐余稚桜宮(桜井市)
 反正天皇(336?-410) 在位406-416 宮:丹比柴籬宮(松原市)
 允恭天皇(376?-413) 在位412-453 宮:遠飛鳥宮(明日香村)419-421茅渟宮行幸(泉佐野市)
 安康天皇(401?-456) 在位454-456 宮:石上穴穂宮(天理市)
 雄略天皇(418 -479) 在位456-479 宮:泊瀬朝倉宮(桜井市) 斯鬼宮(八尾市)説もある
となる。
 この中で、反正天皇(多遅比瑞歯別尊)の都(宮)といわれる丹比柴籬宮は柴籬神社(松原市上田7丁目)が伝承地となっており、長原遺跡とは僅か4kmの距離である。
 また、反正天皇は多くの説で「倭の五王」の珍とみなされるが、もしそうであれば、日本書紀とは年代にずれが生じる。また、古事記では在位期間が壬申年(432)から丁丑年(437)とする。

「倭の五王」5世紀前半部の年表
413安帝の時、倭王賛あり。 倭国、東晋に貢物を献ず
421讃、宋に朝献し、武帝から、除綬の詔うける。
425讃、司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる
438倭王讃没し、弟珍立つ。
 この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める。
 4月、宋文帝、珍を安東将軍倭国王とする。珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される。
443済、宋に朝献して、安東将軍倭国王とされる。
451済、宋朝から「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される安東将軍はもとのまま。『宋書』倭国伝。
 7月、安東太将軍に進号する.

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美馬市・郡里廃寺跡で鴟尾の破片出土 1/10現地説明会開催

2009年01月12日 | Weblog
 国指定史跡「郡里(こおざと)廃寺跡」(同市美馬町銀杏木)で10日、本年度調査の成果を報告する現地説明会が開かれ、考古学ファンら約30人が集まった。
 市教委は来年度、確定していない寺域の南端や講堂跡を調査する予定。
[参考:1/11徳島新聞]

「郡里廃寺跡」で鴟尾の破片出土 美馬の国指定史跡
 「郡里廃寺跡」で、鴟尾の一部が発掘された。同史跡の鴟尾出土は3例目で、金堂が存在したことを裏付ける貴重な史料とみる。
 発掘された鴟尾は瓦製で、縦19cm、横9cm、厚さ3cm。表面に何かの図形を描いたような文様があり、側面には棟に固定するための心棒を差し込む穴が開いている。年代は八世紀ごろとみられる。
 10日午後1時半から現地で市教委の文化財担当者が説明会を行う。
[参考:1/9徳島新聞]
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百済木簡皮を多数確認 倭国との交流を見せる判読結果も公開

2009年01月12日 | Weblog
「那●内連公」(●は判読不能字)と判読 連はムラジ?
 百済時代木簡皮と破片129点が確認された。この遺物は、紙の代用として書いた木簡を再利用するために、「鉋屑(かんなくず)」のように刃物で片面を削り出す過程でできたとみられる。また扶余双北里遺跡で出土した百済時代木簡に、百済と倭の間の交流実状を知らせる文字資料という新しい判読結果も公開された。
 国立扶余博物館は扶余陵山里寺の跡地出土品を再整理する過程で、手刀で削り出した木簡皮129点を確認して、その結果を百済時代木簡全般に関する調査資料集として発刊した「百済時代木簡」を通して公開した。
 木簡皮と破片に、稲など穀物類が行き来した文書の一部と見える「石」(1石を意味)や、文書が終了したことを意味する「了」などの字が確認された。
また、1999年扶余双北里遺跡で百済時代の物品荷札用百済時代木簡はこれまでに文字があるという点は確認されていたが、正確な判読はされていなかったが、今回赤外線を通して精密な判読が試みられた。
 その結果、扶余博物館は「(那●内連公)」(●は判読不能字)と判読結果を示して、「連(ムラジ)」という字は日本古代の大和政権(야마토 정권)で官職を基盤に与えられた姓(カバネ)に該当すると見ることができるという見解を出した。このような説明が妥当ならば、この木簡が製作された当時、百済には「連(ムラジ)」という姓を持った倭人が活動していたことに繋がる。中国の正史の中の一つ周書の百済伝には、百済には中国と新羅と倭人が居住していたという記録が見え、百済と倭国の間に人的・物的交流が活発だったことを見せる初めての実物資料となる。
[参考:2009.1.8聯合ニュース、朝鮮日報]
[参考:前出]
 前出の、国立扶余博物館・李鎔賢氏が発表された資料「韓国木簡の現在・百済木簡 ─新出資料を中心にと題して」の中では、双北里で出土した木簡の中に「首比」と書いたものがあり、「首」「比」は日本書紀百済関係資料に見える用字である、と記している。今回の判読結果とともに、百済と倭の交流の新たな発見の一ページになるかもしれない。
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